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農×旅、コラボが生み出す力「農業を楽しむ観光で地域を活性化」
取材先:長野県飯山市 四季彩の宿 かのえ  

  “ぼくらが旅に出る理由”なんていう歌もあったけれど、それぞれにいろんな理由があるし、大した理由のないことも多いはずだが、少し改めて振り返ってみると、ストレスから逃れるためだとか、あるいは未知なる何かとの出会いを求めるためだとかに思い至る。物が満ちた時代だ。消費形態の趨勢がモノからコトへと言われ、体験の提供が注目される中、旅行に産業としての大きな期待がかかる。農業に観光的要素を加えた取り組みもその一つで、食べ物としての農産物だけでなく農業体験も立派な商品となる。増加する訪日外国人の中では、農村部へ向かう動きもそれほど珍しいことではなくなってきている。名所旧跡を巡るだけが旅行ではない。例えば果物狩りに観光農園に出かける、田植えをするために農家民宿に宿泊するなど、田舎へと足が向かう。農業と旅行がコラボレーションすることで何が生まれてくるのか。その可能性を探る。



 

 
▲雪が積もるとスキー場になる▲四季彩の宿 かのえ▲明るい食堂

 

農家がスキー場を作って民宿を始める

 農村を旅行先の一つとして選択する人達がいる。有名な神社仏閣、景勝地などが取り立ててあるわけではなく、かといってリゾート地でもなく、刺激的なテーマパークでもない。そんな所へ何を魅力に感じて訪れているのか。そこをしっかり押さえておくことは、未来に向かって農村を持続していくことの鍵にもなりそうだ。

 「ここには何もありません。有名な山や綺麗な湖が見られるわけでもなく、ただ田んぼと畑しかない。だからうまくいった。宿の親父が、何かしなければならいと、一生懸命考えました」と、長野県飯山市の戸狩温泉で民宿を経営する、“四季彩の宿 かのえ”の主人、庚(かのえ)繁樹さん(63歳)。地元観光協会の会長を務めたこともあるが、家は代々農業を営み、民宿の経営を始めてからも、変わりなく農家であり続けている。今はスキー場としてよく知られている地域だが、「もともとは純農村地域で、宿の親父はみな農家です」。農家民宿が集まってできたのが、この戸狩温泉であり、観光地となった今でも農業と深い絆で結ばれている。農業と観光のコラボレーションがどのような成果を生み出してきたのか、話を聞いた。

 自分たちが暮らすこの戸狩に「スキー場を作ろう」という話が持ち上がったのが昭和30年代の半ば頃。「私の父親の世代で、彼らが若者の頃に言い出し、周囲からは何を夢のような話をしているのかと、呆れられるような話だったようです」。冬場は積雪が、2~3mにもなる特別豪雪地帯にあって、その時期の仕事と言えば、出稼ぎか、藁を使って蓑や俵を作る内職。当時は東京オリンピックに向け、新幹線や高速道路の整備などで出稼ぎの仕事は多くあったが、「女の人や年寄り、子供たちに雪を任せて家を空けることの不安」もあり、何か地域で内職以上の仕事を作ろうという思いがあった。その頃、近隣にある野沢温泉では「スキー場が軌道にのってきた頃で、俺達にもそういうことができないのか」と動き出した。

 野沢温泉は湧泉の発見が天平年間にまでさかのぼれるほどで、古くからの湯治場として知られ、温泉旅館もあり、元々各地から人が訪れてくる観光地。それにスキー場を開設した形だ。歴史も古く、昭和25年にスキーリフトが敷設され、昭和30年頃にはスキー客で賑わいを見せ始めていた。

 しかし戸狩の地に元々あったのは田んぼや畑ばかり。めぼしい観光資源など無く、人を呼べるものが何もない所からの挑戦となった。ただ、各農家は「養蚕をしていましたので、茅葺き屋根の大きな家が多く、部屋の空きもあって、そこにお客を迎える形で、まずは5軒ほどで始まりました」。この地は日本の民宿発祥の地とも呼ばれている。当初は、スキー場にリフトもなく、裏山をならしただけのものだった。そして、「この辺りの出身で東京に出て活躍している人を頼って観光客を誘致したり、施設の建設にお金を出してくれる人を探したようです。2、3年後、東京の運動具店がスポンサーとなって建設費の多くを出し、待望のリフトが完成しました」。ただ潤沢な資金があるわけではなく、「建設費を安く抑えるため、基礎工事のコンクリートや土木工事は自分たちで行ったそうです」。必要なものはできるだけ自分たちで作る。農家にとって、ごく当たり前の発想だったのではないだろうか。こうして手作りのスキー場が生まれ、関連施設での雇用も行われるようになり、冬に出稼ぎに行く時代が終わっていった。

 庚さんが民宿を始めたのは18歳の頃。「ここの民宿を始めたのは昭和47年、私が高校を卒業する年で、リフト会社に勤めながら農業をやっていた父親から民宿をやらないかと勧められました」。地域に仕事があるということが、若者を家に残すことになり、地域農業持続へと繋がっていった。ただ、若者としては都会への憧れがあったかもしれないが。

 庚さんの民宿は創業世代に次ぐ第二世代に当たり、「何とかスキー場としてやっていけるのではないかと思われ始めた頃です」。世は高度経済成長のただ中にあり、民宿は将来有望な事業として銀行から資金も容易に調達できた。ただそれでも当初は年末年始と1月、2月の連休で満室になるぐらい。「本当に忙しくなってきたのは昭和50年代後半に入ってきてから」。スキー人口が増加の一途を辿ったスキーブームがあり、冬場の稼ぎが年間を潤すようになった。5軒から始まった戸狩スキー場の民宿は、ピーク時に150軒ほどまで数を増やした。

 その冬場の動きと並行して夏場の集客も進められていった。まずは民宿の創業世代が、「学生村というものをやっていました。夏の涼しさと、ここの静かさを利用し、受験生などが勉強するためにやって来て、1カ月間ほど住み込んでいました」。次に大学生や高校生が夏休みに行うスポーツ合宿などの受け入れが盛んになった。食事と部屋を提供するだけで受け入れる側の手間は少なかった。その後に受け入れ始めたのが、「わんぱく村とも言うような、子供たちの自然体験教室です。昭和の終わりから平成10年ぐらいまで、私の所では夏場のこちらの方が冬場よりたくさんお客がいました。夏休みの30日間は、連日満室状態でした」。

 この頃は冬場、夏場とも戸狩で営業する民宿にとっては賑やかな時間となった。平成3年には掘削により天然温泉を自噴させ戸狩に新たな観光資源が加わる。良い時代が続いた。しかし、平成元年の年末に日本の株価がピークを迎えた後、バブルが崩壊。日本経済が大きな打撃を受ける中で、観光のあり方も徐々に変化し、スキーブームも終焉していった。「それでも平成7,8年頃までは、それほど影響を感じませんでした。実感するのはそれからです」。


農家だから提供できる本物の農業体験

 スキー客が減少するのと同時に夏場の自然体験教室の受け入れにも変化が出てきた。時代が変わっていく中で余暇の過ごし方にも変化が現れ、家族でテーマパークに行く、あるいは飛行機でリゾトー地に行くなどが増え、次第に人が集まらなくなっていった。そこで新たに力を入れて取り組み始めたのが学校の行事として行われる教育旅行の誘致。平成7年から受け入れ始め、年間50校を超す人気となり、モデル地区にも指定された。「平成10年あたりは5月、6月だけで1万5000泊の収容になりました。今迄人がいなかった時期です。秋にも教育旅行があるのでオフシーズンの集客になり大変助かりました。スキー場はリフトを動かし、食堂を運営し、パトロールを雇い、雪上車でゲレンデの整備などもしなければなりません。そのために多くの経費が必要となりますが、この教育旅行には、受け入れの事務を行う事務局とそれぞれの宿が体験を実施するだけ。言ってしまえば特別なことは何もいりません」。もし戸狩が普通の観光地なら教育旅行の学生を受け入れることは難しかったかもしれない。教育旅行では、助け合い、楽しみ、絆を深めることが大切だが、まずは学ぶと言うことが大前提にある。戸狩は農家が経営する農家民宿であり続け、農業がその学びの提供を可能にしていた。

 「1クラスを4つに分け、1つの宿に約10人ずつ分かれて宿泊してもらっています。この人数ならば人を頼まずに受け入れることができます。宿屋の主人が引率して体験にも連れて行きやすいし、女将も10人なら1人でご飯の支度ができる。部屋も満室にならないので、シーズン中次々来る宿泊者の受け入れがスムーズ。空いた時間に農業をすることもできます」。 

 戸狩にあったのは名所旧跡ではなく農業と豊かな自然。命を育む仕事である農業は教育との相性も良く、高い成果を上げることになった。それが評判を呼び、口コミで広がり、受け入れ校数の増加に繋がっていった。

 スキー客が減少する中で民宿も数を減らし、現在約60軒ほどだが、それでも生き残り続けることができたのは、一つに農家であり続けたことが大きかったのだと感じる。農業は何度も大きな転換点を迎え、GATTウルグアイラウンドでは国内農業振興のために数々の施策が行われたが「こちらでは関連で体育館が建てられました。コストのかかる中山間地の農業は諦め、観光地として生きていくためのもの」。しかし、その流れに沿って農業から手を引いていれば、今の戸狩はない。

 今は農業が人を呼ぶための大きな価値になっている。民宿で用意されている体験メニューは「田植えや畑での作物収穫、草取り作業」などの農作業が一つの大きな柱。そこから様々なことを学ぶことができる。またそれだけではなく、これに加えて「収穫物からジャムを作ったり、蕎麦を打ったり、あるいは近くを流れる千曲川でのカヌー体験、お年寄りによるお手玉作り、おとなしい子どもには草木染め」と、宿泊客それぞれに合わせて楽しませている。「何年もやっているうちに、子供たちやお客さんを楽しませるコツを学んでいきます。草取りの合間に、例えば毒の無い蛇を捕まえに行ったりします」。野遊びなどを織り交ぜながらここでしかできない体験を提供していく。ただ、体験を提供する側の苦労も当然ある。農村に生まれたからカヌーができるわけではなく、習得のために教室に通っているのだ。また女将さんのジャム作りも集まって講習会を開き、地域の年寄りから、藁草履の作り方を学んだりもしている。“ここには何もない。だからうまくいった”との言葉は、自分たちの力で何とかしてきたということの裏返しでもあるようだ。またその土地にあっては当たり前のことが、宿泊者にとっては大きな価値になっているということもある。豪雪は豊富な水になり、美味しい水となって田畑を潤し、味の良いお米をつくる。そのお米、あるいは畑で穫れたばかりの野菜などが食卓に並ぶ。戸狩は星ふる村とも言われ、満天の星が夜空に煌めく。当たり前の贅沢がそこにある。


外国人旅行者が農業体験にやってくる

 平成27年に北陸新幹線の長野と金沢間が開通。戸狩がある飯山市は、その途中に駅を持つことになった。それを一つの契機として平成22年に一般社団法人信州いいやま観光局が設立され、観光の振興に取り組んできた。農業や地場産業との連携により飯山らしい観光振興を図ることが目的で、観光案内、観光施設の運営に加えて旅行業も行い、農業体験や森林セラピーなど常時100件程度の着地型旅行を企画・販売している。観光地として誰もが知っているような有名な場所ではなく、その中で“何をアピールしていくのか、余所に無いものをどのように提供していくのか”を課題とし、地域に根ざした旅行業者として、農業を含めた地域の魅力を旅行商品として提案している。これまでヒットしたプランには、雪国ならではの“かまくら”の中で、名物の“のろし鍋”を囲み、農家民宿で一泊するというものがある。身近にある大量の雪をうまく活用した豪雪地帯ならではの企画。地元の人は何も無いというけれど、その地の当たり前が立派な観光資源にもなる。

 今迄気づかなかった魅力を外部の人間が発見するということがある。最近の訪日外国人の増加も、旅行者による日本の再発見と捉えることができる。今、野沢温泉ではオーストラリア人などの外国人スキー客が増えている。オーストラリア人が旅館のオーナーになったことが一つのきっかけだったようだが、パウダースノーの雪質に加えて、古くからの湯治場の風情がたまらない魅力のようで、リゾート地では得られないものが来る者の心を掴んでいる。

 戸狩温泉でも外国人の観光客が増えている。庚さんの所でも「戸狩温泉の上部を通る信越トレイルを歩く人、農業体験をしたいという家族、グループが宿泊してくれます」。日本に来る目的は様々でディズニーランド、富士山、京都、アキバなどの中に、最近は田舎もまじっているようだ。農業体験を通して日本の農村や暮らしに深く触れる。民宿にとってはオフシーズンと平日の集客に繋がるありがたいお客さんになる。かのえの女将さんは英語の勉強もし、旅行社の日本支店との交渉も行う。「積極的に外国人旅行者を受け入れていきたいと思っています」と、期待は大きい。

 「教育旅行の受入数は最近減っています」。分散して宿泊するより、1ヵ所に宿泊して手間を省きたいというのが、最近の傾向のようで、「これから先はしっかりと自分のお客さんを持っていないと難しいでしょう。口コミで広がっていくのが一番強い」。ここにはリゾートに無い魅力、まがい物や代替物では得られない本物がある。食事にしても、景色にしても、人との繋がりにおいても。それは紛れも無い文化であり、結局はそれが人を引きつける大きな価値となっている。

 課題は、やはりここでも高齢化。後継者が少なく、庚さんの家でも、息子さんはいるが、跡を継ぐ予定はない。新しい時代がやって来ようとしている。どんなものになるのか、はっきりとは分らないが、「自分の米ぐらい自分で作りたいと思う」。それが庚さんの願いでもある。

 旅に出る理由。まがい物に疲れて本物に出会いたくなるから。どうだろうか。戸狩温泉の農家民宿にはその思いを満たすものがあった。それは日本らしさを色濃く纏ったもので、そう思えば“クールジャパン”とも言える。旅人には未知なる文化との貴重な遭遇になる。それを提供する仕事なのだ。その先が地域の未来に繋がれば素晴らしい。


さぁ今こそ、夢のある農業を語ろうじゃないか!「クラウンメロンの名前を世界へ」
取材先:静岡県袋井市 静岡県温室農業協同組合 クラウンメロン支所  

  将来の夢は何か。子供たちに聞くと様々な夢があって、プロスポーツ選手、ゲームクリエイター、歌手や女優、デザイナー、YouTuberなんていうものも最近は出てくる。夢を語れるのは成長する余地があるからであって、若さが今とは違う何かになれる可能性を生み出している。では逆に、夢を語れないようでは成長なんて叶わない、とも言えそうだ。農業を成長産業にするということは、安易に若さに頼れない我々だが、夢を語ることができるということだ。弊誌の年間特集は「さぁ今こそ、夢のある農業を語ろうじゃないか!」。農業を成長産業にしようと各地様々な取り組みを行い、今とは違うものに変わろうとしている。そこでは、 単に大きさを求めるのではなく、多様な取り組みを取り入れて質を変え、進化していこうとする動きも目立つ。将来を見据え戦略を持って改革を進めるトップブランドの挑戦を追う。



 

 
▲丹精込めて生産される▲高品質のクラウンメロン▲外国での試食会

 

トップブランドの存在感

 百貨店の果物コーナーや高級フルーツショップの少し高いところの棚で、見目麗しい姿を見せて鎮座しているのがクラウンメロン。一般にマスクメロンと呼ばれるアールス・フェボリット種のメロンに付けられたブランド名だが、クラウンは王冠であり、置かれたそこはさながら玉座とも言えそうだ。東京日本橋の高級フルーツショップ千疋屋では1玉2万円を超える値段が付いている。今、日本では様々なブランドフルーツが群雄割拠の状態となっているが、その中でも一際大きな存在感を放っている。そのクラウンメロンの生産地が静岡県の袋井市近辺。気候温暖で肥沃な土地と豊かな清流を有する静岡県西部、天竜川以東の地域で、袋井市、磐田市、掛川市、森町にわたって、年間を通じたメロン栽培が行われている。その中で大きな役割を果たしているのが静岡県温室農業協同組合クラウンメロン支所。「メロンに特化した生産組合で、組合員が今209名、年間の出荷量が32万ケース(1ケース6個)、1日1000ケース前後を市場に送り出しています」と、支所長の中條文義さん(60歳)。現状とこれからを伺った。

 静岡県の温室メロンの生産は作付面積、生産量、出荷額とも日本一。特にクラウンメロンなどはブランド農産物として高い単価で取引され、生産者の意欲も高い。それ故にブランド化に成功し確固たる地位を築き何の憂いもない産地かとも思えるが、決して順風ばかりが吹いているわけではない。ある部分は大きな成功を収めているが、状況は変化してやまない。「日本が経済成長を果たし景気が上がると共にどんどん生産量が増え、組合員は最大で800人ぐらいになりました。しかし、バブル経済が崩壊し、リーマンショックがあり、日本の景気が下降していくと共に消費が縮小していきました。また温室を使った周年栽培で冬場の10月~4月まで加温のために燃料が必要なのですが、原油価格の高騰があり、メロンの価格は下がるのに経費は上がるといった状態が10年ぐらい続きました。その間農業を辞めてしまったり、経費のかからない農産物に移った人などがいて、結局今は組合員が200名ぐらいです」。このまま現状に流されていけば、どこに辿り着くのか。その先を想像することはそんなに難しいことではない。“何かを変えていかなければならない”。生産者の胸に通奏低音として響いていく。そうしなければクラウンを戴き続けることが難しくなる。

 日本にメロンが伝わったのは1900年(明治33年)のことで、イギリスからやって来た。大隈重信公も普及に力を入れ、新宿御苑の私邸で栽培し、そこで第1回のマスクメロン品評会も開催している。その後、日本各地にメロン栽培が広がっていった。袋井市でも1921年から温室メロン栽培が始まり、今年で97年になる。産地として残り続けてこられたのは「気候や土壌が向いていたのだと思います。施設を使った周年栽培のため冬の気温や日当たりが重要になります。このあたりは日射量も多い」。適地が農産物を育んでいった。クラウンメロン支所としては、1964年に前身の磐田温室農協丸静支所ができ、クラウンメロンとしての販売が始まり、専門農協として生産者と密着した取り組みが行われてきた。現在は「毎朝生産者が支所にメロンを持ってきて、等級を1箱1箱検査し、取引のある13の市場へ出荷します」。等級は最高ランクの富士から山、白、雪の4段階と加工用などに回されるキズ、規格外品。最高ランクの富士は全体の0.1%しかない。市場は、東の宇都宮から西の北九州の小倉まで。毎朝9時から10時の間に、相場を見ながらどの市場にどれだけ送るのかを決めるのが重要な仕事となっている。支所長の中條さんは40年以上メロン作りに携わってきた生産者でもある。「組合員のメロンの値段が少しでも良くなるように」と、当事者感覚を持って、毎朝真剣勝負が繰り広げられる。「組合員の中から、誰か1人、常勤の支所長をしなければならないのが組合の決まりで、2年前に支所長になりました。学校を卒業して初のサラリーマン。うちのメロン栽培は息子がやってくれています」。11棟の温室を展開する地域でも規模の大きな生産者だが、今は支所長としての仕事に専心している。


強いブランドを維持する力

 クラウンメロンが高い競争力を持つ背景には、その味を支える特徴的な栽培方法がある。その一つは独自開発したオリジナルの種を使っていること。種苗会社のものではなく、「この支所の裏にハウスがあって、美味しいものと見た目が綺麗なものを何回もかけ合わせ、バランスの良い物を研究し、生産者に提供しています」。たやすく真似ができない唯一無二のものが作られていく。二つ目はスリークォーター型と呼ばれる特徴的なガラス温室を使用していること。「南を向いた面が大きくなっていて、太陽高度の低くなる冬場の太陽光が沢山入るようになっています」。メロンは必要な温度が25℃ぐらいまでになる作物で、太陽光を無駄にしない工夫がされている。また、どのメロンの葉にも光がよく当たるように栽培ベッドが階段状になっており、北にいくほど高くなっている。三つ目は栽培ベッドが地面から切り離されていること。「地面に直接植えると、水の吸い上げは植物次第ということになり、水分が多くて味がのらなかったり、少なくて玉の肥大が悪くなったりします。毎日、手でかける水によって調節をして、どんな季節でも同じようなメロンが収穫できるようにしています。水のコントロールが栽培の一番のポイントです。しかし一番難しい。個人の感覚と経験が問われます」。自然任せにしないこと。そこに生産者の力量が問われる。

 この力量の差は価格にも反映していく。「私たちは共同出荷していますが市場では個人別に競り落とされる個選を採用していますので、同じ等級で同じ大きさでも、それまで生産者個人が培ってきた信用などにより価格は倍ほど違うこともあります。それがやりがいにもなります」。クラウンメロンの生産者にはそれぞれ生産者番号が割り振られ、検査に合格したメロンには1個1個、生産者番号が入ったクラウンメロンマークが貼られる。その番号はクラウンメロン支所のホームページから生産者の名前を確認することができる。常に高品質のメロンを作る生産者として名が通るようになれば、高級フルーツショップから高値で指名買いされるようにもなる。それが生産者の誇りでもあり、1つの目指すところでもある。「私も若い頃東京などに行くと、日本橋の千疋屋に行って、棚の上に飾ってあるメロンを見に行きました。シールを見て誰が作ったかを確認し、自分もいつかはここにと思い、飾ってもらえればようやくここまで来たかと。多くはそこが目標だと思いますよ」。その思いがブランド力を高め、トップの座を守り続けていくことに繋がる。


事業戦略を立てて、組合を進化させる

 しかし「ピーク時に110億円あった出荷額は大きく減少し、景気の回復と共に3年ぐらい前から下げ止まり、横ばいから少し上がる状態にはなりましたが、今や34億円程」。単価にしても国内消費が縮小する中で「少し荷が増えると必ず安くなる」と、楽観できる状況ではない。生産者も高齢化が進み、現在の209名が、15年後に122名、20年後に85名になると予測している。以前は相場の動きに一喜一憂し、高く売れればそれで良いという感じだったが、「自分たちの手で何とかしていく道を探らなければならない」と、戦略を持った事業展開に踏み出し、高齢農家のやる気を引き出す対策、クラウンメロンの地元定着、海外輸出拡大、加工品拡大などに取り組んでいる。

 高齢農家に対しては「辞める人を減らすために80歳までみんな現役で頑張ろうということで、80歳以上の生産者を表彰しています。メロン栽培で家を維持し、子どもを育て、一生メロンで生活できればそんな素晴らしいことはないと思っています」。地元への定着としては、それまで大消費地に向いていた目を地元にも向け、毎月6日を“クラウンメロンの日”として、地元の人にも購入しやすい価格で提供し、地域特産物としての認知度向上を図っている。

 そして大きな柱となるのが輸出対策。「お中元やお歳暮など、ギフト時期の価格は良いのですが、それ以外の時の消費の落ち込みが大きく、これを何とかしたいと思って始めました」。4年前から準備を進め、3年前に初めて海外へ。その年はタイのバンコク、マレーシア。昨年は香港、台湾へ。「最初海外に行った時は、なぜこんなに高いのかと説明を求められ、それに答えるのが大変でした。現地の果物と価格を比べると桁が違います」。しかし実際に食べてもらい、現地の新聞やテレビで取り上げられ、タイでは王女に献上し、日本の最高級ブランドという認識をもってもらうPRを展開していった。その結果、「東南アジアでは2月の春節、9月の中秋節の時に大口需要が生まれ、その1カ月くらい前から、クラウンメロンをくださいという引き合いが増えています」。この時期は国内消費が落ち込む時期と重なり、海外で販売することが国内出荷量の調整ともなり、相場の安定を図ることに繋がっている。

 そして今年は、UAE(アラブ首長国連邦)のドバイ、アブダビへ。「向こうに行ったのは2月です。20ケースと加工品を持って行きました。アラブの人はこの味が分かってくれるのか、少し心配もしましたが、実際に食べると美味しいと喜んでいただき、舌はあまり変わらないなと安心しました。値段は輸送の航空運賃も加えて高価なものとなっていましたが、現地の富裕層はそれで良いよと買っていただき、良い感触を得ることができました」。UAEでは、「夏場の気温が50~60℃」、富裕層は暑さを避けて国外に出るため、売り時は冬場。国内における夏場のお中元の時期を外せ、冬場のお歳暮時期、東南アジアのイベント時期以外の落ち込み緩和に貢献することができる。プロモーション活動には工夫も必要なようで、富裕層は自分で買い物に出るわけではなく、日々の雑事は使用人に任せてしまう。まずは富裕層にクラウンメロンの名前を覚えてもらい、使用人の購入リストに載せてもらうよう働きかけることが必要なようだ。「アラブの人たちは会ったこともない人たちで、そんな所でも売ることができて、足がかりができれば、多分世界中、他の国でも売ることができるんじゃないかなと思っています」。まだ始まったばかりで量はそれほど多くはないが、世界へと向かう大きな可能性を秘めている。

 また輸出を進める上でクラウンメロン支所では若手を中心にグローバルGAPも取得した。「取得は大変でしたね。どうしてもみなさん農家ですから、良い作物を作ることだけを考えてしまう。収穫したメロンが商品であるという意識がなかなか持てませんでした。消費者が安全安心に食べることができるようにするために、様々な配慮をしていかなければなりません。その意識の違いを乗り越えることができれば、後はそんなに難しくありません」。輸出だけではなく、2020年には東京オリンピックもあり、国際基準を満たした農産物として、先々の展開が広がる。

 現在輸出は二通りの方法があって、一つは「東京、大阪の仲卸さんで輸出を担当している方と組んで展開し、生産者として海外に行って売り込みなどをしています」。従来から取引している国内13市場の延長という形だ。もう一つの方法は「昨年からなのですが、ここから直接輸出する動きを始めました。国内13市場とは別に海外部門をプラスした形です。そうすれば値段も量も全て自分たちで把握し出荷することができます。海外に販売できる組合に進化できればと思っています」。このやり方では日本のバイヤーと組み、輸出の手続きなどをしてもらい、そこから海外のバイヤーへ商品を送るという方法になる。「これから色々勉強してノウハウを蓄積し、組合機能を拡充していかなければならないと思っています。この組合を後世に繋げるためにも攻める側に回らなければ」。生き残っていくための危機感は強い。

 力を入れていく事業戦略としては、加工品にも精力的に取り組んでいる。それまでは年間30tぐらいが規格外のものとして集められ、加工品などに回されていたが、昨年は200tを集め、ピューレなどを作り、「森永のクラウンメロンハイチュウやクラウンメロンアイスクリーム、クラウンメロンパンなどのお菓子の原料に使っていただいた」。加工品の販売売上が増加したことに加え、コンビニなどでお菓子のパッケージに印刷されているクラウンメロンの名前などを見る機会が増え、自分たちのメロンがこういう所にも利用されていると刺激になり栽培意欲の向上に繋がっている。また、年間200tの規格外品を市場から分離することは、「市場に出回っている一番下の等級の価格を引き上げることに繋がりました」。市場に出回るものは加工品用として引き取る値段以上のものとなり、全体の売上を向上させることになる。

 加工品の製造に関しては、これまで業者に頼んで作ってもらっていたが、「この組合で一次加工を行い、ストックし、販売していきたい」。今、ピューレなどは夏場に多く、年間を通して見れば量にムラがあり、量が少ないときに多くのオーダーが入ったりもする。それらに対応するためにも、自分たちで年間を通して加工品を全て供給できるような体制を模索している。一次加工場を作ることができれば、それは組合の直接の利益になり、この組合、施設を維持するための大きな下支えになる。組合からの直接輸出の利益も合わせれば、生産者が減少していく中にあっても販売手数料を増やすという安易な選択をすることなく、組合機能の維持を図ることに繋がる。

 これらの戦略に、トップブランドを守り続ける産地のこれからの姿が見えた。そしてそれは大きな夢も伴っている。「僕はメロンを作り続けてきて、中條さんのメロンが欲しいと言ってくれるように頑張ってきた。今度は海外で販売してクラウンメロンが欲しいよと世界中の人から言ってもらって、食べてもらうのが最大の夢。世界中の人がクラウンメロンを必要として欲しい」。世界がクランメロンを発見し、その魅力に気づく日も遠くないかもしれない。そうなれば世界から指名が来る生産者も現れるかもしれない。それは痛快だ。「死ぬまでにそうなれば良いな」。その夢が新たな成長の原動力となる。



農業の働き方改革を考える「ストレスを減らし働く時間の質を上げる」
取材先:千葉県館山市 ㈱須藤牧場  

  働くということは、それによって生きる糧を得て、命を永らえ、社会の維持に関わり、人間らしい暮らしを営むための手段である。そう思えば、決して働くことで一方的に不健康になっていくものであってはならない。しかし現実はそうもいかない。働くことで体を壊し、精神を病み、あるいは追い詰められ、苦悩の中で命を絶つというような不幸な出来事が後を絶たない。それらの状況が昨今の働き方改革を後押しする。長時間労働、ブラック企業、非正規雇用者の不合理な待遇、各種ハラスメント、子育てや病気治療との両立、外国人労働者の受け入れなどなど、景気拡大が続き、雇用環境が改善する中で、労働環境は問題山積だ。では農業の働く環境はどうなのだろうか。その働き方改革を考える。



 

 
▲フリーストールの牛▲アイスカフェCowBoy▲高品質のミルクとミルキーソフト

 

12時間あっても間に合わない仕事

 日本農業において、何故後継者が不足するのか。その答えは“儲からない”ということにほぼ収束することができる。もう少し言い添えれば投下する時間と手間・労力に応じた収益が得られないということ。費やした労働に対する見返りが充分ではない。農業は基本的に体力を使う肉体労働である。それに加えて野外を主な活動領域とすることで、暑い、寒い、雨、風、汚れ、好ましくない臭い、と肉体への負荷が大きい。また、農繁期には朝早くから夜遅くまで働き、一方で農閑期には仕事がない。さらに農薬の被ばくや農機による事故もある。それだけではなく、先が読めない天候への苛立ち、不安定な市場価格、突然見舞われる病虫害、気象災害など精神的に不安定となることも多い。今に始まった事ではなく、それが長年続いてきたわけだが、今更ながら農業こそ働き方改革が必要であると感じる。ちなみに農業には、労働基準法の適用を除外されている項目があり、労働時間の限度はなく、休憩や休日の定めもない。また、深夜労働を除く残業代の割増はなく、18歳未満15歳以上の年少者を深夜労働に就かせることも可能だ。農業を持続的産業にするためには、労働環境の改善から目を背けてはならない。

 その命題を果たすためにこれまで農機、設備、システムが果たしてきた役割は非常に大きいが、まだまだ改善の余地はある。しかし一方で、経済的な理由も含め生産性の向上には限度があるという諦めもある。農業とはもともとそういう仕事なのだからと。果たしてそうなのか。千葉県館山市に酪農家を訪ねた。その取り組みに働き方改革のヒントを探る。

 「こちらに嫁いで来てからしばらくは、今の牛の頭数の半数でしたが、朝の6時から昼の11時ぐらいまで働き、夕方は3時半ぐらいから夜中の11時まで働いていた。それが365日。昼にも餌やりがあり、12時間あっても間に合わない重労働でした」と㈱須藤牧場の須藤陽子さん(54歳)。代表の裕紀さん(53歳)の妻で専務を務める。「もしそれがずっと続いていたら、毎日牛舎で汚くなって、疲れて、そんな風に働いていたら、今私はここに居なかったかもしれません。途中で嫌になって出て行っちゃったかもしれません」。しかし今はその当時と比べて倍以上の頭数を飼養し、牧場体験を受け入れる酪農教育ファームの活動、販売施設の運営、乳製品の製造、牧場が主宰する『劇団 須藤兄弟』の公演、ファーマーズデイの開催など、多岐にわたる仕事を展開している。牧場の仕事に携わり始めた頃と今を比べて仕事が減ったのか増えたのか、その量の加減は定かではないが、インタビューに応じる明るい笑顔に、労働の質が明らかに変わってきているのだと感じる。

 須藤牧場がある千葉県南房総地区は、8代将軍徳川吉宗公が同地の嶺岡と呼ばれる丘陵地帯で白牛を飼育する牧場経営に乗り出し乳製品を作ったことから、酪農の発祥地と言われる。早くから酪農が盛んな地域で、多くの酪農家が経営を行ってきたが、高齢化も進み生産者の数は年々減少している。その中で須藤牧場は昭和初期から牛を飼い始め、現在代表の裕紀さんで3代目。ホルスタイン種、ジャージー種合わせて乳牛130頭を飼養し、経産牛は70頭、年間出荷乳量は65万㎏となっている。また1万坪の放牧地と飼料畑も経営している。平成26年に法人化し、労働力は裕紀さん、陽子さんと長女の由紀乃さん、次男の健太さんの4名の役員に加えて、正社員3名、パート8名の陣容。

 特徴は、まず自給飼料の生産と未利用資源の活用。トウモロコシとソルガムを5.3haの規模で、年2回作付けし、また「近くの農家さんから収集した稲わらと館山市内の豆腐屋さんから毎日無料でいただいてくるおから(豆腐粕)をエコフィードとして他の餌と混ぜて食べさせています。低脂肪高蛋白で良質の餌になります」。牛乳収入に占める購入飼料の割合を示す乳飼比の低減につながり、生産コスト低減に役立っている。また放牧場には育成牛が放たれ、「朝、ゲートを開けると自分で出て行って、運動をし、夕方再びゲートを開けると自分で帰ってきます」。糞尿処理も省け効率的な育成が行われている。もう一つの大きな特徴はフリーストール牛舎の導入。それまで1頭ずつ世話をしなければならなかったつなぎ飼いを行っていた須藤牧場の経営にとって、それが大きな転機となった。


作業動線を考えた牧場作りが大きな変化をもたらす

 フリーストール牛舎は牛をつながずに、自由に歩き回れるスペースを持った牛舎の形態のことで、アブレスト式ウォークスルータイプのパーラーを組み合わせて効率的な飼養を行っている。「こちらが搾乳の用意を始めると牛の方が、牛乳を搾るところに自ら歩いてきて、搾乳を受け、牛乳を搾り終わったら自分で歩いて出て行きます。そして給与された餌の所に行ってくれます」。また、働く人の動線を短くするように考えられ、牛の動線も分りやすくし、効率的に仕事ができるようになっている。裕紀さんはアメリカで牧場経営を学んだ経験があり、“合理化できるところは合理化していく”という考え方を学んできた。それが活かされている牛舎となっている。また、牛床に山砂を利用して菌の繁殖を防いでいる。「つなぎ飼いの時は乳房炎などがありました。牛にストレスがあったのだと思います。でもフリーストール牛舎にしてからはおっぱいも汚れず、病気がほとんどなくなりました」。また、餌やりは粗飼料とおからなどを加えた濃厚飼料を混ぜ合わせる自走式のコンプリートフィーダーが給与し、大幅な労力削減を実現している。

 フリーストール牛舎にしてから、「牛のストレスを減らし健康が守れ、牛乳の質が上がって、仕事の量が減りました。赤ちゃんを産む回数も順調」。須藤牧場の牛乳は、無脂乳固形分8.97%、乳脂肪分4.11%で年間乳質成績が99.5点以上となる、高い品質を保持。健康であることが美味しい牛乳生産につながっている。また、「牛の頭数は倍に増えたのですが、仕事の量は半分以下です。この牛舎の仕事に必要な人員を計算すると8時間労働で2.3人。農場部門には今6人のスタッフがいますのでシフトで回してお休みも取れます」。須藤牧場にとってここが大きな分岐点となった。

 酪農に限らず他の農業においても、革新的な機械や設備を導入することで、生産性向上を図り、労力と時間の削減を実現する例は多くある。近年はICTの利用やロボット化技術により、生産性の大幅な向上が期待されている。そして生産者はそれらによって二つのものを手にすることができる。それは須藤牧場も同様で、“時間と負債”がもたらされる。それらは表裏一体で、生まれた時間を投資に見合うものにしなければならない。


効率化で得た時間を活用する

 生まれた時間を活用すること。そこから様々な変化が始まる。「フリーストール牛舎にすると構造上、道路側に牛がずらりと顔を出すことになりました。そうすると牛を見せてくださいと人が集まり、次は牛乳が飲みたい、乳搾りがやりたいと、要望が出てきて、それに応えているうちに見学スペースを設け、牛乳を使ったアイスなどを作り、来てくれる人がどんどん増えていきました」。これが発展して、牧場体験を提供する酪農教育ファームへとつながった。「気軽に立ち寄れる牧場作りというのを私がお嫁に来てからずっと思っていたので、積極的に受け入れていきました」。体験工房ミルクキッチンを開設し、その中でバターやピザを作り、乳搾り体験や子牛のシャンプー体験、羊毛クラフト作りなどを実施。生み出した時間が体験や交流に使われていった。

 またその時間は3人の子供を育てることにも使われていった。子供たちは、母親がただ牛舎で立ち働いているのを見ていただけではなく、牧場体験での人との交流を通して酪農の思いを伝える姿や牧場を題材にした絵本を描く姿を見て育ち、長女と次男が就農することになった。「生き生きとして働いていたのかもしれないし、楽しそうにやっていたのかもしれません」。 

 長女の由紀乃さんは「“牧場で搾った牛乳を使ってお店をやりたい”という夢を持っていました」。高校で調理師免許を取得し、平成22年に須藤牧場内の敷地に開店した加工販売施設アイスカフェCowBoyの店長に就任。これが本格的な6次産業の始まりとなった。平成25年には次男の健太さんが就農。それを契機に翌年、須藤牧場を法人化し、事業を持続していく体制を整えた。平成28年には正社員を初採用。健太さんより年上でコンピューターのスキルを持ち異業種からの就農で、異なる経験が須藤牧場の新たな力となる。そして昨年はイオンタウン館山のフードコート内に飲食施設の須藤牧場をオープンし、正社員とパートの人員も補強した。また体験メニューでは平成26年より『劇団 須藤兄弟』を長男の高伸さんと健太さんが立ち上げ、酪農劇団による牧場劇と牧場案内をセットにし、劇中にバター作りなどもする体験を実施している。さらに昨年11月からはファーマーズデイというイベントも開催。従来はメニューを用意して来場を待つというスタイルだったが、日時を決めて参加者を募るという新しい方法を採用した。「来場者には牧場の作業服であるつなぎの服に着替えてもらって、牧場の人の気分と乳搾りや子牛の哺乳などの仕事を体験してもらい、農場同士のつながりで入手したお肉や野菜を提供します」。このイベントはスタッフみんなで考えたもので、「“須藤牧場は自分たちが支えていく、良くしていく”という、上を向いた気持ちで事業に参加してもらっている」。家族だけで牛の世話に追われて1日が終わっていた経営から比べると、その形はなんと変わったことだろう。法人化を経て、今では経営理念に“社員が幸せに働ける会社を目指す”と掲げるまでになっている。


ストレスを軽減していくことが鍵

 フリーストール牛舎を導入してから、今迄の間に、働き方は大きく変化していった。「牧場体験を始めることができたのもフリーストールに変えて少し時間ができたから。その前まではそんな余裕はありませんでした」。新しい機械、設備、そしてそれを土台にした効率的な動線の構築など、作業の合理化を進めたことが時間を生み出し、可能性を開いていくことにつながった。それは働く人にだけではなく牛にも大きな変化をもたらした。牛の労働を“搾乳される”こととするのなら、昔と今ではその働き方は異なっている。つなぎ飼いから解放されることで、自らが動いて搾乳され餌を食べに行かなければならなくなったが、ストレスが格段に減り、乳質がアップし、病気が減少した。作業量は増えたかもしれないが働き方改革が健康をもたらしている。牧場にとっては収益のアップにつながる。

 牛から働き方を学ぶみたいだが、ストレスの軽減は働き方改革全てに通ずるのではないだろうか。労働の負担を減らすということはストレスを減らすということだ。そのためには、まず時間のかかる仕事、肉体的に辛い仕事などをできるだけ機械やシステムに代替させることから始めるが、それで終わりというのではなく、その後に代替できずに残った仕事と代替によって余った時間をどうするかまで考えなければならない。働き方改革はそこまで考慮しなければ充分なものではなく、単純に時間を短くするということだけではない。

 それでは余った時間をどうするのか。その時間で従来と同じ事業のボリュームを増やすということもできる。しかしそれではストレス軽減にはつながらない。かと言って余った時間で遊んでしまえば収入は増えない。時間を生み出すために投資した資金を回収しなければならないというミッションがあり、それをクリアする取り組みを探っていかなければならない。

 須藤牧場では牧場体験や6次産業へと発展の道を延ばし、事業の多角化に成功したが、その部分の労働負担も考えなければならない。これが更なるストレスになっていれば元の木阿弥。機械や雇用で代替できない部分のストレスについては、仕事に対する視点を量から質に移すことで、その強さを変えていくことができる。例えば強いられてする仕事は辛いが自ら望んでする仕事は楽しさもある。その比率を如何に増やすかで仕事のストレスも変わってくる。陽子さんの場合、体験などで人が集まってくることは、牧場の仕事を始めた当初からやりたいと思っていたことであり、人との交流は、楽しさを得ることでもある。全体の仕事量は変わらないかもしれないが、質を変えることで総体としてのストレスは減っていく。

 農業の場合、天候や生き物を相手にする分、こちらの都合通りにはいかず、生産性の向上はおのずと限界がある。その中で労働負担を減らすということは時間だけではなく、ストレスを減らしていくのだという観点が不可欠だと思えた。不本意な作業に縛られることなく、楽しさや喜びを見いだして働けるようにすることが、農業の働き方改革を進める道ではないだろうか。須藤牧場が昨年イオンに出店したお店について、「今はすごく大変だけど、これをどうクリアしていくのか。ワクワクしながら、逆風を楽しんでいます」と陽子さん。その表情に働くことの喜びが見えた。


選ばれる力
有機国産キウイフルーツで描く未来     取材先:和歌山県紀の川市紀ノ川農業協同組合   

  日欧EPAにTPP。日本政府が進める各国・地域との経済連携協定締結に向けた動きが加速する中、農業関係者からはさらなる支援策を求める声が聞こえてくる。すでに輸入自由化された牛肉は、自由化後5年間で肉用牛飼養農家戸数が3割減少。みかん農家もオレンジが自由化されたことにより多大な影響を受けた。一方で、生き残りをかけて優良品目への転換、高品質化、ブランド化が進んだ。“消費者に選ばれるためにはどうすればよいのか、どうあるべきなのか”。和歌山県紀の川市の紀ノ川農業協同組合は、農家一軒一軒に聞き取り調査を行い、それを基に行政、農業委員会を巻き込み、有機農業の町づくりを宣言。その後、農協の部会として唯一キウイフルーツの生産行程管理者の有機JAS認定を受けている。紀ノ川農協を訪ね、消費者に選ばれるためのヒントを探った。



 

 
▲キウイの樹▲キウイ▲直売所で販売

 

有機農業で地域農業を再建する

 面積の8割以上を山地が占める和歌山県にあって、奈良県の大台ヶ原から和歌山市の紀伊水道へと流れる紀の川流域には平野も広がり、温暖な気候と日照時間の長さを活かした多彩な農業が展開されている。中でも中流域に位置する那賀地方では、紀の川市を中心に平野部と山間部で果樹作と野菜作が盛んに行われ、果樹では八朔、桃、イチジク、キウイフルーツ、野菜ではイチゴ、玉ねぎの栽培面積が県1位と、県内でも有数の農業地帯となっている。

 その那賀地方で紀の川市が誕生したのは2005年。紀の川流域の那賀町、粉河町、打田町、桃山町、貴志川町が合併した。それ以前から土地の特性に合わせて旧町ごとに特色ある農業を行っていたが、その姿勢は今も変わらず、栽培品目も、進む方向性も旧町ごとに異なっている。旧の那賀町が目指したのは“有機農業の町”。その背景や、生産者の思いについて、紀ノ川農業協同組合・組合長理事の宇田篤弘さん(59歳)と、同じく理事でキウイフルーツ部会・部会長の吉岡利晃さん(42歳)に話を聞いた。

 紀ノ川農協は、農産物の販売と組合員の生産資材の購入を行う専門農協で、県下一円を対象としている。事業の柱は産直で、直売所や地元スーパーなどで販売するとともに、全国のほぼすべての生協と連携して事業を行っている。産直を始めたのは1976年。当時の那賀町農業協同組合青年部のメンバーが農協の共販から抜け出し結成した那賀町農民組合が紀ノ川農協の母体。背景には、1971年のグレープフルーツの輸入自由化や豊作によるみかん価格の大暴落があり、安さに耐えかねた若手生産者らが産直による道を切り開いた。

 その後も、みかんの生産調整や牛肉・オレンジの輸入自由化の流れがあり、その中で自然と「高品質な果樹生産をしよう」という機運が高まっていったという。紀ノ川農協が設立された1983年の翌年から、ノートと鉛筆を手に農家一軒一軒を回る聞き取り調査を実施。アンケートや数字では得られない発見が多くあり、調査結果を基に討議する過程において「農家の経営とくらしを守るには、地域経済を再建するしかなく、地域経済の再建には地域農業を発展させるしかない」という確信を得るに至った。折しもバブル経済が崩壊し、農家を巡る状況がさらに悪化する中、組合として客観的にどう安全・安心を保障していくのかという問いと、環境に負荷をかけない持続可能な農業を進めたいという農家の思いが一緒になって、地域農業を再建する切り札として導入したのが有機農業だった。

 1993年には「有機農業の町那賀町をすすめる会」が発足。1995年には行政、農業委員会などと共に有機農業の町づくり宣言を行い、こうして築き上げた地域ぐるみの体制をベースに、現在、約210名の組合員がみかんや柿、南高梅など13品目の特別栽培に取り組んでいる。また、キウイフルーツと玉ねぎについては、農協の部会として全国的にも珍しい有機JAS認定を受けている。


無農薬の力

 取材に訪れた日、吉岡さんの畑には生協の担当者の姿があった。「今年のキウイフルーツの出来は?」と尋ねられ、「美味しいとか、甘いとか、通り一辺倒の答えしか出ないわ」と言ってはにかむ吉岡さんの表情には自信がみなぎっている。就農して19年目。妻と父母の4人でキウイフルーツ(70a・有機栽培)、柿(85a・特別栽培)、梅(60a・特別栽培)を中心に、スモモ、清見、みかんを栽培。中山間地に位置する畑の面積自体は昔と変わらないが、「品目は子供の頃と随分違う」と吉岡さんは当時を振り返った。主に八朔を作っていたが、値段が下がり、この地域でも八朔やみかんをやめてキウイフルーツに転換する農家が出始めた頃。吉岡さんの家でも、小学校高学年の時に夏みかん畑がキウイフルーツ畑に変わった。

 「この地域は恵まれていて何でも栽培できる」。その好条件を最大限に活かし、多品目栽培を行うことで天候リスクを分散させることができる一方、多品目栽培ならではのデメリットもある。吉岡さんが栽培するキウイフルーツの品種はヘイワードのみ。早生品種を導入しようにも収穫時期が柿と重なり手が回らない。「どの品目も剪定は必須。あとはキウイフルーツの間引きや授粉、柿の間引きなど長期間にわたる作業や管理があって、それらをうまく組み合わせて品目や品種を選ぶ必要があります」。

 キウイフルーツについては、吉岡さんが就農した当時から無農薬。父親の代で徐々に農薬を減らしていった結果、農薬に頼らなくても品質の良いキウイフルーツができることがわかった。紀ノ川農協のキウイフルーツ部会で最後まで残っていた農薬はマシン油乳剤だが、それもカイガラムシの天敵が出現したことでクリアできた。ただ、有機農業推進法では、圃場内で生産された農産物由来の堆肥などを使用することを原則としているが、紀ノ川農協ではその部分が困難なため、有機農業用に肥料設計してもらった肥料を有機部会で一括購入している。キウイフルーツの有機JAS認定を受ける際に必要だったことは、肥料をそれに変えることと、授粉時に用いる増量剤の石松子を無着色のものにすること。それだけで、特に生産工程を変えることなく有機栽培へ移行できたが、「書類作りが大変」と吉岡さんは笑う。

 「納入先は、親父の代からすべて紀ノ川農協。生協さんが相手で、これまでもずっと“できるだけ農薬は控える”考え方で来ていますが、それは僕らのためでもある」。農薬を使えばそれだけコストがかかる。農薬を使わなくても“ある程度のもの”ができるのであれば、“無農薬”は安全・安心を求める消費者への強力なアピールとなる。「基本的には味の良さによるリピート力」が求められるが、食べてみて美味しくなければ次には繋がらない。そのとっかかりとして無農薬は大きな力になると、吉岡さんは考えている。


グローバルGAP取得で消費者の期待に応える

 キウイフルーツ部会の部会長を務める吉岡さんは、時折、生協から声がかかり、忙しい合間を縫って消費者との交流会に参加することがある。一昨年は仙台へ行った。紀ノ川農協としても、精力的に消費者との交流機会を設け、生協と産直を始めた時からの産直の3原則を大切にしている。1つは、生産者がわかること。2つは、作り方がわかること、そして3つ目が消費者と生産者が互いに交流できること。そうして培ってきた土台があって、今また産直は新しい時代を迎えようとしている。

 何か食に関する事件が起こるたびに、「うちは安全」と言ったところで信用してはもらえない。それを証明するシステムがなければと、紀ノ川農協では2013年から順次グローバルGAPの取得を進めている。「GAPは決してテクニックではない」と宇田さん。「本来目指すものは、食の安全やお客さんの安全であって、“どういう社会を目指していくのか”ということの延長線上にある。持続可能な社会、持続可能な農業のためにあるというところに力点を置かないと。売れるから、オリンピックがあるからという話ではないのです」。宇田さんはさらに、農業が本来持っている多面的な機能を社会的に評価する手段としてGAPは必要だとの考えを示す。

 根底にはもちろん、安全・安心を担保するという役割がある。そこに果物の場合は味、野菜の場合は鮮度などの要素が加わり、消費者の選択に委ねられるが、消費者にはもう一歩踏み込んで、その先にあるものを見てもらいたいと宇田さんは願う。“購入する”、“食べる”といった行為が生産者の、生産地の役に立つということ。「生産者と交流するという行為には、生産者のくらしを守り、地域へ投資するという役割があるのですから」。そのため、生産者は消費者に選ばれるよう日々努力する必要があり、その手段としてGAPを前面に打ち出すことも大事だと宇田さんは考える。

 生協にはすでに若者を応援する企画があり、徐々に産地に投資するという考えが芽生えつつある。それに応えようとグローバルGAPの取得を進めているが、「取得費用が高額」と宇田さん。そのため、紀ノ川農協では品目ごとに部会の代表が取るという形で進めている。現在、6人が取得し、かかった費用は約100万円。それでも生産部会としては人数も売上も相当な規模になるため成り立っている。さらに3人が取得を目指しているが、その中には吉岡さんも含まれている。


魅力ある生産者が消費者をひきつける

 取材に訪れたのは年末。キウイフルーツ畑では次の収穫に向けすでに剪定が始まっていた。春には芽が出る。キウイフルーツは柿と同じ結果習性で、剪定して残した枝に実がなるのではなく、芽吹いて伸びた枝に花が咲き実がなるのだと吉岡さんが教えてくれた。「効率良く葉に日が当たるようにイメージして剪定するだけ」と吉岡さんは簡単そうに言うが、一朝一夕にできることではない。気候変動の影響か、最近、キウイヒメヨコバイという外来種の害虫が増え、被害が出た農家もある。畑にはイノシシに踏み荒らされた跡が残り、近頃はシカの鳴き声もよく聞こえるという。「いつまで有機農業を続けられるのか」。正直、不安はある。また「毎年、予想もしない出来事が起こるから、それに対応するので精一杯」とも。それでも、「ええもんできたらうれしい」と吉岡さん。その“喜び”と“経験”と“ひらめき”があるからこそ、つらいことも何とか笑って乗り越えてきた。

 取材中、終始吉岡さんは笑顔だった。吉岡さんには高校1年の長男と中学2年の長女、小学1年の次男がいるが、自然が好きで、山が好きであれば、ここで農業を続けていってくれればいい。そうした温かい眼差しが消費者にも向けられる。「果物はあくまで嗜好品。しょっちゅう買えなくても、年に1回でも買ってくれれば、それがその先の未来へ続いていくんじゃないかな」。吉岡さんが見据える未来。そのビジョンを消費者が共有できる社会こそが持続可能な社会なのだと思う。その道筋を示せる生産者が消費者をひきつける。選ばれる力は、生産者の魅力そのものだと感じた



選ばれる力

北海道の美味しいお米づくり      取材先:北海道蘭越町   

  趣向を凝らしたテレビ番組、ショーケースに並ぶ色とりどりのケーキ、休日の自由な時間の過ごし方。自分に与えられている限られた時間と資金をどれに投入するのか。大いに悩む。その果てにどうにか一つを選択する。提供する側はより多数からの選択を得られるように奮闘するが、かけた労力とは裏腹に、選ぶ側との思いがずれれば見向きもされない。かつて視聴率トップだったテレビ局が凋落することもある。何が求められているのかを感じ取ること。それを真摯に受け止めること。そして求められているものを実現すること。分かっていても実行するのは簡単なことではない。さて、生産調整が廃止され自由な米づくりが始まる。その中で如何に選ばれるものを作るのか。選択される商品力とは何かを考える。



 

 
▲羊蹄山を遠くに眺める田んぼ▲ゆめぴりか▲米所蘭越米

 

北海道で生まれた念願の美味しいお米

 ブランド米が戦国時代に突入している。収益性の向上を狙い、付加価値をつけたより美味しいお米が各地で作られるようになり、群雄割拠の様相だ。一足先に展開し安定した存在感を発揮する山形県の『つや姫』、佐賀県の『さがびより』、長崎県の『にこまる』などに加え、ルーキーとして登場してきた岩手県の『金色の風』や青森県の『晴天の霹靂』、福井県の『いちほまれ』、石川県の『ひゃくまん穀』、富山県の『富富富(ふふふ)』、そして新潟県の『新之助』などなど。うまく住み分けて共存できるものもあるが、狙いの購入層が重なるものも多く、選ばれるものの影に選ばれないものが多数ひしめき、生き残りをかけた競争が生まれている。その中で、平成21年にデビューしたのが北海道の『ゆめぴりか』。今のブランド米ブームの先駆けであり、その歩みは生産調整なき後の自由な米づくりにおいて大きなヒントとなる。競争を生き残ってきたその取り組みに選ばれるための力を探る。

 ゆめぴりかが生まれたのは上川郡比布町にある上川農業試験場。明治29年から水稲の試験を始め、100年以上も品種改良に携わり、78もの品種を世に送り出してきた。当初北海道では冷涼な気候のもと本州でとれるようなコシヒカリなどの良食味のお米が育たず、寒さに強く収量が多いお米が作られてきた。しかし美味しいお米を作りたいという思いは脈々と受け継がれ、戦後の食料不足に対する需要に応えながら、収穫量の増加と共に食味向上の課題にも取り組み始めた。その成果の一つが平成元年にデビューした『きらら397』で、それまでの北海道米のイメージを変えるものとなった。そしてついに平成21年、それまで抱いてきた“美味しいお米を作りたい”という長年の念願を叶えるブランド米として、ゆめぴりかを市場に投入。大きな反響を呼び、生産者の自信とプライドになった。現在は“北海道米の新たなブランド形成協議会” を中心に、道南地区、後志地区、日胆地区、石狩地区、空知地区、留萌地区、上川地区で7協議会を立ち上げ生産が行われている。

 ゆめぴりかの特徴はアミロースとタンパク質の含有量が低いということ。北海道米のそれまでの弱点を補うものであり、強い粘り気を持ち、冷めても美味しく、軟らかくて、炊き上がりに艶がある。都府県でそれまで美味しいとされてきたお米の特質を持つものであり、好感を持って市場に受け入れられた。平成26年からはタレントのマツコ・デラックスさんをCMに起用。プロモーション活動を強化し、高い認知度を得るようになった。

 そのゆめぴりかの生産に後志地区で力を入れているのが蘭越町。周囲をニセコ連峰等の山岳に囲まれた盆地にあり、町の中央には道南最大の河川、尻別川が貫流。一級河川の水質調査で何度も日本一となっている清流でその流域に広がる平坦地は、肥沃で水田の耕作に適し、ここで生産される『らんこし米』は良質美味として知られている。また同町では米所として、全国規模のお米コンテストを生産者が主体となって開催している。“米-1グランプリinらんこし”と銘打ち、昨年、第7回の大会が開催された。この地に全国から323品が出品され、決勝大会には28名の生産者が蘭越町に集結。日本一美味しいグランプリ米を競い合った。そんなお米づくりに力を入れる蘭越町でゆめぴりかの生産に取り組む、川崎隆行さん(68歳)と同町を管轄するJAようてい で第1ブロック営農推進センター(蘭越地区担当)のセンター長兼地区リーダーを務める土橋健一調査役に話を伺った。川崎さんはお米を中心に経営面積は7haほどで、安全・安心に注力した特別栽培米や無農薬栽培米を手がけ、アイガモ農法にも携わっている。またJAようてい の水稲生産組合長であり、ゆめぴりかの後志地区協議会会長でもある。

 ゆめぴりかの栽培において気をつけていることは、「タンパク質の含有量を低く抑えるということです」と川崎さん。ゆめぴりかとして認証マークをもらうためにはタンパク質含有量が7.4%以下でなければならない。「その数値が収入の差にもなっていきます。後志地区は低タンパクのお米が収穫できる土壌で、高品質米の生産には向いています」。しかしだからと言って、ゆめぴりかばかりを作るわけにはいかない。ゆめぴりかは収益性が高く「それまでの品種より1000円以上高く取引される」ので、生産者にとっては作りたいお米になるが、実需者からすれば業務用のお米も必要であり、「そこのバランスが大切。求められるものを供給していかなければ、お客さんが離れてしまうし、一旦離れてしまうと呼び戻すのは難しい」。実需者に信頼され、頼りにされる産地として、全体の需要を考えた調整も必要になる。そこに農協が戦略をもって大きな役割を果たしている。


日本一の米所を目指して

 北海道は広大な大地を活かした大規模な米の栽培が行われているが、寒冷な気候のため、元々亜熱帯原産の稲にとっては恵まれた環境とは言えず、「長い間、やっかい米、猫も食べない“猫またぎ米”などと言われてきましたが、美味しいお米と自信を持って言える所まで改良したゆめぴりかが出てきて、生産者の誇りにもなっています」とJAようてい の土橋さん。北海道の米づくりにおける大変な歴史を振り返れば、生産者がゆめぴりかに抱く思いは想像するよりずっと重いに違いない。その中で今北海道が目指しているのは日本一の米所。生産量においては既に新潟県と1、2位を争うところまできており、今後力を入れていくのは質の向上ということになる。「ゆめぴりかが魚沼産のコシヒカリのようになれば良いなと思います。それを目指したいですね」。そのためには更なるブランド力の向上が求められる。

 ゆめぴりかを作る全道7地区では、 “ゆめぴりかコンテスト”が開かれている。厳しい地区予選を勝ち抜いたものによるコンテストで、その年、最高品質のゆめぴりかを作った生産地が決定される。蘭越町では2年連続地区代表になったが、昨年は惜しくも選に漏れた。「全体のレベルが上がってきていて、どこの産地も本当に僅差です」。米所の蘭越町としては優勝の称号は欲しいところ。互いに競い合うことで実力の向上が図られている。

 「話題になったとは言え、ブランド力はまだまだこれからです」。消費者の支持を得るブランドとなるためにしなければならない取り組みは多く、例えばゆめぴりかを名乗っていても、栽培方法によってはタンパク質が7.4%を超えてしまうものもあり、それも同じゆめぴりかとして販売していたのでは、消費者の期待を裏切ることになる。それを防ぐため認証マークを発行している。基準を満たしているゆめぴりかを保証するもので、高い水準でブランドを守ることに繋がる。また濫造により粗悪品が出回ることを防ぐため、ブランド価値を維持するため、現在の栽培面積の上限が1万9000haに設定されている。「他の品種とのバランスもあり、この中で如何に基準品を多く作っていくかが課題になります」。生産者がまとまりを持って高い品質の生産を続けていくことでブランド力が守られていく。


栽培基準を統一してブランド強化

 お米のブランド化では、一つに新しい品種をブランド化するという方向があり、また一つには地域で生産されるお米をブランド化するという方向がある。蘭越町ではその両方を行っており、ゆめぴりかだけではなく、らんこし米として地域で作られるお米を、低タンパクのお米を育む土壌など、恵まれた自然環境の中、昔から美味しいお米が作られてきた産地としてブランド化している。その取り組みの一つが、米-1グランプリなど。1回目と7回目には地域の生産者が優勝するなど、美味しいお米の産地としてのイメージを形あるものにし、認知度を高めている。「蘭越町の生産者は量を取るという考えではなく、良いものを作るということに注力しています。自由競争になれば量より質だということになります」と土橋さん。これからのお米づくりの一つのあり方を示している。また高い品質のお米を作る方法としては「昔のようにカンで作るという時代は終わっていて、畑ごとの違いを認識し、土壌分析をしっかりやり、それに応じた施肥を行っています。それが省力化・低コストにも繋がります」と川崎さん。客観的なデータに基づく農業が質を高めることにもなっている。それは個人にとどまらず、町全体でも言える。「どの生産者のお米も美味しいお米になることが産地としては必要」。全体レベルの向上が必要であり、「基本的なことをしっかりとやっていかなければなりません」。そのために客観的な基準となる栽培のガイドラインの策定を進めている。品質を優先する目標収量や肥料の種類・施用方法、タンパク含有率の目標数値などを定めるものとなる。一定の基準を満たしたものは、認証されたシールが貼られ、品質が保証される。消費者の期待を裏切らないということであり、選ばれる大きな力となりそうだ。

 ブランド米の乱立という状況を踏まえ、もう一歩踏み込んで考えてみると、幾つもあるブランドの中で選ばれるためには他者と“差”をつけることが求められてくる。その方法を垂直方向と水平方向で考えてみると、垂直方向では今以上の品質の実現を試みるということで、お米の場合は更なる味の追求ということになるだろうか。ただ、ある程度のレベルより先に進むのは非常に難しく、ある種の限界もある。そこで“差”をつけるための別の方法として、水平方向を考えた場合、期待の多様性に目を向けるということもある。消費者の期待に対する感受性を上げるということ。消費者の期待は単純なものではなく、ただ美味しければ良いというわけでもない。安全・安心への配慮や、作っている人や場所を知りたいというものもあるし、支持できる作り方かどうかということもある。また時間と共に変わっていく指向や価値もあり、それに沿っていくことも必要となる。

 そういう一つ一つに応えていく営みは生活のパートナーとして消費者の信用を得ることに繋がっていくのではないだろうか。信用は消費者の選択コストを低減させる。比較検討の労力、宣伝文句の検証、投資に見合う効果が得られるかどうかの不安など。コスト低減は利潤を高めることであり、そこに消費者の選択を得る鍵がある。

 さらに信用は“思いを共有”しているということであり、“共感”するということだ。ブランド力の強さはその関係性にあるとも言えるかもしれない。独善的なものは期待を上回る面白さがあってもどこかで乖離する。消費者の言うがままでは多分飽きられる。一体となって“思いを共有”し、“共感”することは非常に強固な繋がりだ。日本一に至る一つの道ではないだろうか。



飼料用米の活かし方

稲SGS生産で地域農業を活性化                                                                  取材先:岡山県 JAびほく(北房総合センター)   

  いよいよ来年産の米から生産調整が廃止される。日本の水田農業において新時代の幕開けとなるが、それが吉と出るか凶と出るかは取り組み次第。畜産農業においても、多少の変動はあるものの配合飼料価格は高止まりしたままで、生産コストの削減が喫緊の課題となっている。その状況下、水田で飼料用米を生産する農家に対し、平成29年度で最大10a当たり10万5000円の水田活用の直接支払交付金が支払われ、地域によっては上乗せもある。こうした制度を活用しながら、飼料用米生産で地域の活力を維持し、農地を守ろうとする動きが広がっている。“すべては農家のために”と、農協が核となり耕種農家と畜産農家を繋ぐ岡山県真庭市の北房地区を訪ね、地域農業のあるべき姿を追った。



 

 
▲収穫▲肥育豚に給餌▲稲SGS

 

中国・四国地方初の稲SGS生産

 岡山県の中西部、吉備高原のほぼ中央に位置し、南北に高梁川が流れる豊かな大地で、昼夜の寒暖差を活かした果樹作や稲作、畜産が盛んに行われている。この地域を管内とするJAびほく(本店:岡山県高梁市)では、耕作放棄地の解消と水田の利活用を目的に、中四国農政局管内では初めてとなる稲子実発酵飼料(稲ソフトグレインサイレージ:以下、稲SGS)生産の取り組みを平成26年度に開始した。

 稲SGSとは、コンバインで刈り取った籾米を破砕して籾に傷をつけ、フレコン内のビニール袋に貯蔵して乳酸発酵させたもので、豚や牛に一定量与えることにより、抗酸化作用のあるオレイン酸の脂肪中含量が増加し、肉の旨味が増すとされている。また、稲SGSは、国の交付金対象となっている飼料用米を原料とするため、現状、配合飼料よりは低価格で手に入るケースが多く、畜産農家にとっては飼料費を低く抑えられるメリットがある。一方、主食用米を生産する耕種農家にとっては、これまで同様、何ら変わらない作業で飼料用米が生産でき、新たに機械を導入するコストも乾燥調製にかかる費用も要らない。そのため、生産調整の廃止を前に、先進地域の東北を中心に年々取り組みが拡大し、飼料用米の生産面積も着実に増えている。その中、JAびほくにおいても、山形県内の生産現場を視察。耕種農家、畜産農家双方にメリットがあるとして、まずは試験的な取り組みから開始した。その中心となったのが管内で唯一養豚業を営む新田善洋さん(54歳)で、稲SGSについては関係者から情報を得て知っていたが、まさか自分が取り組むとは思っていなかった。「飼料価格がかなり高騰しているので、もっと安く飼料が手に入らないか、米や小麦は肉質にいいわけだし、精米を直接安く買える方法はないかと農協さんに相談したところ、それなら実際に自分で作ってみないかと言われまして」。新田さんは、父と妻の3人で約900頭(うち約70頭は母豚)を育てている。その傍ら1.7haで水稲も栽培し、製造した稲SGSをその場ですぐに給餌できるという理由から白羽の矢が立った。

 初年度は新田さんの1.7haの圃場のうち約50aで生産した“あきたこまち”の籾を、園芸用のガーデンシュレッダーなどを利用して破砕し、粉末の乳酸菌と糖蜜を加えた井戸水で加水。その後脱気・密閉して発酵させたものを肥育豚に与えた。これなら何とかできそうだということになり、翌年度にはJAびほくの北房総合センター(真庭市)と川面育苗センター(高梁市)にそれぞれ1台ずつ稲SGS製造用の機械を設置し、65戸の農家(約26ha)による飼料用米の生産を本格化した。そのうちの一戸、農事組合法人ひら田営農(組合員数33名)代表の三浦明さん(67歳)は、「稲SGSの話が出てきたのは、ちょうど一人暮らしの高齢者が『もう米づくりはようせん』と言うから、それなら組合でやってあげようとしていた矢先のこと」と当時を振り返る。その頃の米価は約1万2000円。「赤字になってまではできませんから。その点、交付金の額は決まっていますし、そっちにポンと切り替え、一気にシフトしました」。現在は、集積している農地約1.6haで飼料用米を生産する。JA全体の今年度の取り組み面積は約80ha。管内118戸の農家が参加し、三浦さん、新田さんの圃場がある北房地区では、現在77戸の農家が飼料用米(中生新千本)の栽培に取り組んでいる。


稲SGSのメリット

 岡山県の場合、飼料用米として中生新千本を選択すれば、水田活用の直接支払交付金のうち戦略作物助成として8万円/10aを得られるほか、産地交付金として1万2000円が上乗せされる。県が多収性専用品種として中生新千本を特認しているためで、JAびほくでは農家の収益を少しでも上げるため、平成28年度から作付品種を中生新千本に一本化した。一番の理由は取り組みやすさ。かつては普通に主食用として農家で作られていた経緯があり、「作り慣れた品種」と、JAびほく北房総合センター営農生産課長の本多秀孝さんは言う。

 実際に交配する可能性はないにしても、隣が主食用の田んぼでは心情的に飼料用米はつくりにくい。本来は主食用の中生新千本は、その面では気兼ねなく作付が行え、種子も十分に流通している。早生品種と比べ収量も多く、飼料用米の条件を兼ね備えていた。品種特性としては、作付期間が若干長く、収穫は例年10月に入ってから行われる。10月に刈り取られた籾米は、直接ライスセンターに持ち込まれ、11月中旬に破砕される。JAびほくでは、ライスセンターの利用料として玄米60㎏当たり2200~2300円かかるというが、それがごっそりなくなり、「かなり助かりますよ」と新田さん。「この辺りではコシヒカリやあきたこまちで反収は8俵ぐらい。金額だけ見たら中生新千本の方が得と計算して、自分たちが食べる分だけ残して、あとは全部稲SGS用に切り替えた農家さんもおられると聞いたことがあります」。それだけ、稲SGSの取り組みは農家の目に魅力的に映っている。その一方で、「交付金が出るからといって、後の人たちが喜んでどんどんやってくれるかというと、そんな金額じゃない。農地が守れるというだけのこと」と三浦さんは冷静な見方をする。

 畜産農家としては、飼料コストの削減、肉質の向上に加え、地域のお米を使うため、地産地消をPRできるところも差別化を図るうえで大きなメリットとなっている。配合飼料価格は、とうもろこしの輸入価格などに左右され、多少の変動はあっても、近年は60円/㎏以上で推移し、畜産農家の経営を圧迫する要因の一つとなっている。栄養価の問題もあり、稲SGSだけを投与するわけにはいかないが、新田さんの養豚場では、出荷の約2ヵ月前から肥育豚に約20%の割合で稲SGSを配合し、フレコン1袋(約500㎏)を2日半で消費する。そのため税抜16円/㎏で畜産農家に販売されるJAびほく製造の稲SGSは「価格的に魅力」で、絶対に値上げしないよう切に願っている。農協もまた、誰のための取り組みかというと、“すべては農家のために”との思いがあり、「この先も値を上げるつもりはない」と明言する。

 その他、乳酸発酵のため、独特の甘酸っぱい香りが食欲をそそり嗜好性が良いなど、稲SGSそのものには挙げれば複数のメリットがあるが、本格的に製造を始めて3年目。年々改良されてきているものの、まだまだ品質向上の余地がある。特に加水の量やタイミングは手探りの状態で、水分量が多いと給餌器の中で餌が滞り、うまく給餌できないことから、「仕上がりを見てその都度全体の水分バランスを整えています」と新田さんは言う。「作った段階でおそらく大丈夫だと思っていても、実際に使ってみると、フレコン上部が良くても、下の方の水分が多かったりしますから」。JAびほくで現在、籾の破砕に使用している機械は北川鉄工所の“ミルクル”で、本来は籾殻をすりつぶす機械。本機を含め、すべて稲SGS専用に整えられた製造ラインでない分、これからも試行錯誤の調整が続く。


稲SGSで描く地域農業の未来

 今回訪れた北房地区は、中山間地に該当し、水稲をメインに酪農も盛んな地域。そのため、今行っている稲SGSの取り組みは、将来の地域農業のビジョンにも繋がっている。北房総合センターで製造された稲SGSは、新田さんの養豚場のほか、周辺の肥育牛農家でも利用されている。昨年の実績でフレコン(500㎏)600袋。今年はさらに増える見込みで、地域の飼料自給率を向上させるためにも、取り組みに参加する農家を増やし、農協と耕種農家、畜産農家が連携して、ゆくゆくは地域の米を食べて育ったおいしい肉や牛乳と銘打って差別化・ブランド化を図り、農業振興の道筋をつけたいと考えている。

 新田さんに限って言うならば、年内もしくは年明けには“米ブレッとん”の名で商標登録される予定。「朝から晩まで休みなしでつらいけど、『やっぱり新田さんの豚はおいしいな』と言われるとうれしい」。そのうえで、「業者さんが『びほくの米で大きくなった豚だからおいしいんだな』と、納得して少しでも高く買ってくれることが原動力になっています」。外国産の安い肉に対抗するためには、何らかの付加価値が必要で、この地域についてはそれが“びほく産の米=稲SGS”になっている。一方、三浦さんは、中山間地にあって農道が広いなど比較的恵まれた圃場条件を活かし、近隣の牧場と耕畜連携を行っている。「あっちは藁がいるし、こっちは堆肥がいる。今は耕畜連携の交付金も出るから、主食用はタダで堆肥を散布してもらっていますが、飼料用の分は交付金の約半分を牧場に支払っています」。片方だけが良い思いをするのではなく、“相手の助けに少しでもなれば”という、思いやりの精神が地域の絆を深めている。

 そのうえで二人が地域の課題に挙げたのは高齢化。三浦さんは、地域に11ある集落営農組織の法人化を進め、田んぼを集積して規模の拡大を図り効率化を進めることで、将来的に農業人口が減っても対応できると考えている。新田さんも、高齢になっても何らかのフォローがあれば農業は続けられるとして、農協の役割に期待する。農協としても、こうした声を踏まえつつ、まずは鉄コーティング種子を用いた栽培技術の確立や稲SGSの品質向上に努め、指針や指標を作るなどして、「農家にもっと『こういう形でやってみませんか』と提案をしていかなければならない」とする。

 岡山県は、独立心の高い“大将”が多い土地柄だと聞いた。その中で組織化を進め効率化を図るのは一筋縄ではいかないが、今回取材して感じたのは、耕種農家と畜産農家の距離が近いということ。その間をしっかりと農協が取り持ち、双方の声を大切に稲SGSの取り組みを進めてきた。その取り組みも交付金ありきで成り立っている面は否めないが、“畜産農家のために”、“耕種農家のために”と、互いに思い合い、顔の見える関係性が、これからも田んぼを守り、地域農業を維持・振興していくための原動力となっていく。


瑞穂の国の志と誇り
お米日本一の挑戦で地域を豊かに                                                                  取材先:鳥取県日野郡江府町   

  今より先に行くためにはどこかで必ず決断しなければならない。机の上を見てつくづく、クローゼットを見て、パソコンのデスクトップを見て、来し方を振り返っても、そう思う。片付けなければと。混沌の中で迷い、目当てのものに行き着かない。そのためには何を残し、何をしまうのか。選ばなければならない。日本農業も同じこと。今その時期が来ている。農業の衰退を食い止め、そこからさらに成長産業にするとして様々な改革が進められている。整理整頓、取捨選択、何を残すべきなのか。しかし改革の果てにたどり着くのが、ただただ効率的に食糧を生産するだけの仕事になるのならそこに私たちが本当に残したかった農業の姿はあるのだろうか。瑞穂の国の未来に残すべきものは何なのか。中山間地にある里山の農業にその姿を探す。



 

 
▲美しい棚田が広がる▲日本一のお米を目指す▲奥大山の豊かな水源

 

豊かな自然を使った町づくり

 鳥取県西部、日野郡の江府町は約3000人の町。中国地方最高峰である、標高1729mの大山を臨み、奥大山と呼ばれる南麓に広がる里山の町だ。町名にある“江”は河川を表し、“府”は中心を表す。日野川と大山を源とする3本の支流が交わる場所にあって、良質な水に恵まれ、1000戸中700戸が農家であり、豊かな自然の中で、農業を主とした暮らしが営まれている。

 ただ、ご多分に漏れず、実情は他の地域と似たり寄ったり。農業を継ぐ後継者が少なく、高齢化が進展している。町全体の高齢化率も県内有数。山陰地方の拠点都市である米子が車で30分の距離にあり、兼業で勤める人も少なくなく、また子供の進学や就職、結婚を機に町を去る人間もいる。町内に高校も大きな病院もなく、買い物はコンビニ1軒、商店1軒。若者は少なく、冬場の積雪は山手で3mにもなる。40集落を維持しているが、1軒しか人の住んでいない集落もあり、消滅の危機を実際の問題として抱えている。その中で「3000人の楽しい町づくりを掲げています」と現状を教えてくれたのは、江府町役場農林産業課の末次義晃課長補佐(50歳)。同町でブランド米に取り組む奥大山プレミアム特別栽培米研究会の遠藤功会長(65歳)と共に二人から話を聞いた。

 全国を見て過疎化は今に始まった話ではなく、高度経済成長が都市部に労働力を吸収していく中で、農村部の人口が減少し、自治体の存続が危ぶまれるような所が出てきた。それに伴って市町村の合併も進み、江府町でも近隣市町との合併協議が進行したこともあった。しかし吸収され中心が移ってしまうような合併ではどちらにしても廃れていく事に変わりはない。そこで、独自の道を歩む選択をする。自分たちの力で生き残っていく道を探る。そこでまず検討すべきは、町に何があるか。どんな資源が使えるのか。そこで出てくるのはやはり豊かな自然を活かすという事になる。

 まず一つは良質な水資源の活用だ。「標高1000mぐらいの所に西日本一と言われているブナの天然林があり、一本につき7tの保水力があると言われています。山に降った雨や雪解け水がそのブナ林に抱えられ、その後大山の地層でろ過され、20年ほどかけて磨かれ、再び地表に出てきます。その間にミネラル分が程よく溶け込み非常に美味しい水になります」。サントリーでは全国各地で天然水の取水地を探していたが、50ヵ所あった候補地から、ここを3番目の天然水の工場として定めた。町内には他にもミネラルウォーターや製氷の会社が操業を行っており、地域雇用の場を提供。水を活かした町づくりが行われている。

 また奥大山の豊かな自然を映し出したサントリーのTVCMは、この地の魅力を広く世間に知らせることになり、観光バスでその地を訪れるツアーなども催されている。観光資源としての魅力も増している。

 この豊かな自然は主産業である農業への利用も当然進められている。標高700mには畑地があり、「かつては夏大根の産地として西日本一の規模を誇っていました。昭和60年代のピーク時には売り上げが3億半ばを超えるほど」。しかし連作障害の発生や労働負荷の高さから、栽培をやめる農家が増え、耕作放棄地となっていった。その中、農業の主体を個人から法人へと移すことで再生が図られた。今では他業種から農業に参入した企業が国内最大級の規模を持つブルーベリーの観光農園を運営し、またコンビニで売られているおでん用の大根を生産する町外の生産法人が畑地を借りて大根栽培を行っている。その他、かつて大根を作っていた生産者が白ネギなどを栽培している。

 企業や生産法人による農地の有効利用という事になるが、これだけでは、町の活力として少し心許ない。工場誘致もそうだが、町の人々による主体的な取り組みとは少し違う。豊かな自然に町の人が主体的に関わって活力を生み出していく取り組みでなければ持続的な発展には結びつかない。そこで取り組んだのが自然環境をより前面に押し出したもので、江府町を環境王国とする事だ。

 環境王国とは優れた自然環境と農業のバランスが保たれ、安心・安全な農産物の生産に適した地域を認定する、民間団体による制度で、江府町は平成21年に全国で6番目、西日本では初の認定自治体となった。「これでうちの米はブランド化ができ高く売れると思っていたのですが、そういうものではなく認定を受けたことは始まりに過ぎませんでした」。これが大きな契機になった。


お米日本一への挑戦

 「入ってみて分かったのですが、環境王国に認定されている他の自治体はしっかりとしたブランド米を持っていました」。江府町は、鳥取県内では良いお米の産地として知られ、以前から特別栽培米にも取り組み、地元の日野川源流米コンテストなどに出品し米づくりには大きな自信を持っていた。そこで自分たちもブランド米をと、環境王国に認定されたことをきっかけに、全国規模のコンテストに出品することになった。「ライバルは魚沼ぐらいだと思っていました。始まる前から勝った気でいて、優勝したらどうしようかと言っていました」。しかし結果はまるで歯が立たない状態。「世間知らずの井の中の蛙でした」。それからしばらくは、出しても、出しても同じような結果が続き、平成25年に「このままやっていても同じこと。新しい作り方を誰かに習おう」と、篤農家として知られる山形県の遠藤五一氏に教えを請うた。同時に奥大山プレミアム特別栽培米研究会を設立し、役場、生産者、JA(JAとっとり西部)が連携した本気のブランド米づくりが始まった。研究会の設立当初は、「今更ブランド化してどうなるものか」と、批判的な農家もいたが、研究会の会員も年々増え、メンバーも20代の若手から80代のベテランまで揃い、耕作面積も拡大。品質も徐々に向上していった。栽培品種はコシヒカリをメインにして始まったが、近年の夏場の高温化もあり、その対策から暑さに強い品種の“きぬむすめ”を一部導入した。「最初は仕方無くという感じでした」。しかし、それが大きな転機になり、昨年出品した“お米日本一コンテストinしずおか”で 思わぬ結果を巻き起こした。

 きぬむすめは“キヌヒカリ”と“祭り晴”を交配して生まれた品種で、作りやすく温暖地向きでコシヒカリ並の良食味を持つが、「業務向けという位置づけがされていて」、肥料をたくさんやって収量を上げる作り方が一般的だった。しかし江府町では作り方をよく分っていなかったこともあって、「コシヒカリのように窒素分を抑えてミネラル分で栄養不足を補うという作り方」をし、それが品種の秘められたポテンシャルを表に引き出すことになり、余所の産地にはない、きぬむすめを誕生させることになった。

 お米日本一コンテストではまず、食味評価機器による測定が行われ、そこをパスしたものが専門家によるトーナメント方式の食味審査で徐々に絞られていく。鳥取県は、全国的には米所というイメージが無く江府町は無名の存在。しかも品種はきぬむすめ。トーナメントに残ったものの、会場内で期待する声は無かった。しかしいざ始まってみると、各地の有名な米づくり名人が出品した銘柄を次々に打ち破って勝ち上がっていく。その様に会場内がざわつき始める。「次は勝てないだろうという予想を裏切って、どこからか、また勝った・・・との声が漏れてきました」。出品した1点はベスト30、そしてもう1品が最高金賞のベスト6を獲得。研究会の歩みが大きく花開いた瞬間となった。ベスト30に入った生産者は、研究会最年少の20代。取り組みの継続性からも大きな意義を残した。日本一の米産地へ。大きな一歩となった。

 ただ、お米のブランド化はこれで完成するわけでは無い。生産者と共に、研究会の運営、広報を担当する役場、流通、販売を担当するJAが連携しながら、生み出した価値の認知を広め、流通させ、その価値に見合った価格で販売し再生産可能な農業を実現していかなければならない。そのための生産者以外の役割は決して軽くない。しかも近年は、各地で高価格帯を狙った新しいお米が誕生し、「ブランド米の過当競争が起きています」。少しでも気を抜くと置いていかれるような状態だ。如何に商品を売っていくのか、プロデュースする力も求められる。高い商品力を持つものを高価格帯で売っていくには、さらなる高付加価値化も必要かもしれない。商品の背後にあるストーリー、誰が、どんなところで、どんな方法で作っているのか、情報もまた大きな価値になる。江府町では栽培地をドローンで空撮し、動画をインターネットにアップしている。視聴回数も多くプロモーションの一つの方法となっている。消費者に高い期待を抱いてもらい、それに応え続けていくこと。その積み重ねが競争に勝てる強いブランドを形成していく。


農業を通じて町の営みに参加

 「お米づくりが傾いてくると、地域コミュニティーも段々と廃れていきます。お米を守ることが地域を守ることです」。それが基本のスタンス。ブランド米の取り組みは、単に経済的なメリットを追うというだけのものではなく、研究会のメンバーが各自の集落でリーダーシップを発揮する事を通じて、地域農業の活性化に繋がっていく。

 各地、農業者の高齢化が進展することで、如何に担い手を確保するかが大きな課題となり、大規模農家の育成や公社、集落営農の設立などが図られる。しかし、地域の農業生産を維持することと、地域住民の活力を維持することは全くの別物だ。遠藤会長は「高齢化のため人に頼んでやってもらっている人もいますが、内心はやっぱり、自分の手で育てて自分で収穫したいというのが本心ではないでしょうか。私は農業を楽しいと思っています。人に作ってもらうのでは無く自分で米作りをする。そういう地域の農業ができればなと思っています」と言う。決して簡単なことでは無いがそれを実現しようとすることが大切だ。

 研究会のメンバーが一意専心お米づくりに取り組む姿は、集落の人々にとって、大きな刺激となる。収益を上げ、楽しんでいる姿は、それを見た者に自分も頑張ろうと思ってもらう契機となり、農業の持続に繋がる。現に、コンテストでベスト30に入った20代の若手農家は、研究会の活動を見て刺激を受け、「是非自分も入って日本一のお米が作りたい」と言って参加した一人。また80代の会員は新品種となるきぬむすめの導入にあたって「これは良い米だけん、わしと一緒に作らいや。わしが教えちゃるけん」と周囲の農家に働きかけ、仲間を増やしている。

 それが地域の活性化に繋がる。大規模農業によって、少人数で大面積の経営が行えれば、生産コストを低減し、利益の確保に繋がり、儲かる農業ということになるが、それは地域の人々が農業から遠ざかるということでもある。それでは農業で結びついた地域コミュニティーが失われ、結局は地域活力が減退していくのではないだろうか。規模拡大が容易くない中山間地においてはなおのこと、自分たちで農業を続けるための方策を諦めずに探るべきだ。農業を続けることは、自分の住む地域の営みに参加することでもある。それはそこで生きることの確かな実感に繋がる。地域の人たちから農業を切り離すべきではない。

 江府町には無いものが沢山ある。ショッピングモールもアトラクション施設も噂のスイーツ店も無い。しかし、ここにしか無い、何ものにも代え難い価値がしっかりと存在する。良質な水、美味しい食べ物、親密な人間関係、豊かな自然、日本一を目指す米づくり。生きる上で必要な、食べること、住むこと、働くことの基本的な部分が豊かだともいえる。それは喜びや健康、平安をもたらす。都会ではお金を出して買わなければならないものも多い。また江尾十七夜と呼ばれる500年続くお祭りもある。8月17日に行われる盆踊りで、その日は1万5000人もの見物客で賑わう。それらの価値は何か別のもので代替できるまがい物ではない。しっかりとした実感を伴うそこにしかない本物だ。それを甘受できるのは上質な暮らしだと言えるのではないだろうか。

 「顔を上げるとそこに大山があります。毎日見ているのに、気持ちが良くなり、元気がもらえます」。そう語る遠藤さんの表情にはここで暮らす喜びが感じられた。奥大山にある農業はそういうものを守る農業に違いない。大山の麓にある瑞穂の町の日本一を目指す志もそこに繋がる。今後の課題は他の環境王国との連携、こだわりのおにぎり開発などの6次産業化、奥大山ブランドのメジャー化など。それらを通じて持続性のある町づくりが図られる。たどり着く所が、町に住む一人ひとりが充実した暮らしを実感でき、住むことに誇りが持てる場所であることを願う


施設園芸で農業をコントロールする
一歩一歩前に進む農業で少しずつ“良くなる”                                                              取材先:宮城県東松島市 ㈱イグナルファーム   

  できることなら自分に関係する物事はコントロールしたいと思う。思わぬ出来事は幸運をもたらすこともあるけれど、年齢を重ねるごと、悲しいかな喜びよりダメージのほうが多いように思う。だから何とか日々の事々を掌握したいと思うが、なかなかどうして、人生の主人公は自分であっても運命を司るものは別にいるようで、思うようにはいかない。農業の営みも同じことで、順調に育った作物も時に荒天に痛めつけられ、市場価格に翻弄され、あるいは農政の方向転換に飲み込まれたりもする。できることならコントロールしたい。少しでも自らの意思の下に。そんな願いが施設園芸の根底にもうかがえる。より良い農業を営むために。施設園芸にそのヒントを探る。



 

 
▲立派な施設が立ち並ぶ▲契約で販売されるトマト▲キュウリの選別

 

もう一度農業で立ち上がる

 宮城県東松島市にあるのが㈱イグナルファーム。2011年の東日本大震災の年に設立され、今6年目のまだ若い農業法人だが、大きな困難を乗り越えてきたわけで、その内には、倒れても立ち上がり前を向いてあゆみを進める実直な強さがある。手がける作物は施設園芸を中心にイチゴ1.4ha、キュウリ0.8ha、ミディトマト0.5ha、これに加えて長ネギを露地で2.2ha。これを役員5名、社員8名、パート従業員42名で手がける。社長を務めるのは、阿部聡さん(39歳)。「本当に何にも無い所から始めました。マイナスからです」。大きな自然の脅威にさらされ、容赦のない仕打ちに翻弄されたわけだが、今では、地域で大きな存在感を発揮するまでになっている。

 このあゆみの原動力となってきたのが、震災復興という思いだ。「地域のためになりたいということで仕事を始めました」。社名となったイグナルは、この地の方言で“良くなる”ということを表している。関係する人々と共に、良くなっていくことを会社の願いとしている。

 2011年3月11日に起こった大地震は東北沿岸部の広範な地域に深刻なダメージをもたらし、その被害額は9兆円を超える。農業関連の被害も深刻で、用排水路、農道、倉庫、カントリーエレベーター、トラクタなどの損壊、農作物などの流失、農地の浸水など5500億円ほどにも及び、東松島市も甚大な被害があった。この地には航空自衛隊の松島基地があり、航空アクロバットを披露するブルーインパルスが所属していることでも知られているが、震災当時は、戦闘機が流されるなどの映像が流れ、津波の凄まじさをまざまざと見せつけた。

 「震災の時は、今のこの場所よりも少し海岸沿いの所で農業をやっていましたので、全て流されてしまいました」。沿岸部の農地は、塩水をかぶり、その上を瓦礫が覆う。もはや農地とは呼べない状況となっていた。

 それでも「震災前からずっと農業をやってきて、やっぱり農業で立ち上がるしかない」。阿部さんは高校卒業後しばらく農業とは違う仕事をしていたが、数年後、家業の仕事を手伝うようになり施設園芸で野菜の生産を行っていた。その頃から家族経営の農業に限界を感じ、ゆくゆくは法人化をしなければならないというのが頭にあり、その思いを実現するあゆみと重なった。東松島市を離れるという気持ちは全くなく、「何としてもここでもう一度」。未曾有の状況に対して、逆境をバネにするようにして立ち上がった。被災することで、悲しみや怒りに捕らわれ、あるいは、希望や意欲の喪失などに陥る人も少なくない。突如身に降りかかる理不尽な出来事に、これまでの世界が一変する。そうなるとそれまでの人生が分断されることとなる。「直後は、ただ呆然としていました」。それを再び前に進めるための一つの力が、この地で農業を再開するという思いだったのかもしれない。

 志を同じくする仲間と共に、農業を再開するための土地探しが始まった。「比較的被害の少ない場所で、基盤整備も済んでいる所」。土地取得後の負担が少ない場所を、あちらこちらに探してようやく今の場所に辿り着いた。震災の年の10月に土地の目処が付き、それから本格的に動いて12月26日に会社が設立された。「おそらく、一人なら、やっていませんでした」。被災した若手農家4人が役員となって「人、農業、地域、会社に関わる全てが良くなるように」と願いを込めた農園がスタートした。

 それぞれの役員にはそれまで携わってきた農業の専門分野があり、イチゴ、キュウリ、トマト、長ネギと作物毎に担当を決め、部署毎に生産から販売まで担っている。「各部署がライバルです。収量や売上などを競い合って、高め合っています」。それが農園の活力に繋がっている。


企業との契約で安定した経営

 イグナルファームの大きな特徴の一つが、企業との契約取引だ。イオン、ローソン、セブン&アイ、コストコなど大手量販店に農産物を出荷している。他にも原材料としてお弁当の付け合わせやキュウリならサンドイッチや冷やし麺の具材として、食品製造業者と直接取引を行い、加えてイチゴは自社運営の直売所でも、1割弱ほどの販売を行っている。

 企業取引をメインにすることで「市場に左右されずに収量さえ上げれば収入に繋がります」。それが安定した経営を実現することになっている。

またトマトなどは面倒なパック詰めをせずに、等級も分けず、そのまま段ボールに詰めて出荷することができ、労力の削減となる。「売り場ではバラで置いて量り売りしています。用途に合わせたサイズを自由に選んで買って頂いている」。

 企業との契約販売は安定した価格などメリットは多い。しかし一方で、当然企業として求めてくる事もあり、その一つが安定出荷だ。ただ、生産は自然環境と直面し、どうしても「収量は多い時と少ない時があって、波ができます」。それは仕方のないことで、その上でどのような対応をしていくかが問われる。収穫して初めて出荷量が分かるというのではなく、「事前に収穫量の見通しなどをしっかりと立て、先方と打ち合わせしておきます」。その見通しに合った収穫実績を積み重ねることで信頼が生まれていく。

 それでも、「天候の急変などで予測が外れることもある」。それが農業とも言えるが、そこに挑戦する余地もあって、「今イチゴでは、富士通さんなどと一緒になってICTの導入に取り組み、ハウスの環境制御などを行っています。栽培データをとって、次回の改善策を検討し、収量に結びつくようなことをしています。それにより初年度に比べ、若干ですが、少しずつ収量が良くなっています」。生産技術の向上が図られている。

 また企業との取引は契約に基づいて行われるが、それは永遠の取引を約束するものではない。それぞれの思惑の中で取引の見直し等もあり、継続されないこともある。もしそうなれば市場出荷に比べて収益変動のリスクは大きく、経営を安定させるための対策が求められる。イグナルファームでは1品種のみを出荷するのではなく、複数の作物で取引を行うことで、「企業とのパイプを太くし、関係を継続できるようにしています」。お互いが必要とする関係を構築することが経営リスクの回避に繋がる。

 また契約を継続していくためには、消費者の購入に繋がる作物を供給していく必要がある。その中で高級なブランド品を生産するのではなく、日々の暮らしの中で消費し満足してもらえる作物の生産に注力している。「日常の生活の中で選んでもらえるものを作っていければ良いなと思っています」。付加価値をつけブランド化するというのは一つの流れではあるけれど、消費者に選択してもらうためには、競合品に打ち勝つ商品力、飽きられない工夫が必要となる。しかしそれに傾けるエネルギーが続かず消えてしまうブランド品も少なくない。普段の食卓に並ぶ質の高い野菜を作る。それが長く続けていくためのイグナルファームの選択だ。

 その質の高い農産物を作ろうとする中でグローバルGAPの取得も行われた。「取得するのは大変です。お金もかかります。トイレを洋式に変え、シャワールームを設置し、手洗い場を整備するなど、施設の改修も行っていかなければいけません。そして毎年の更新でも費用がかかります」。しかしそれだけの価値がある。質の高い安全・安心な農産物を生産しているという、国際基準のお墨付きであり、それが取引単価に反映し、また、価格交渉力のプラスとなる。さらにコストコなど外資系の取引先を増やすことにも繋がっている。生産の基礎部分をしっかり固めることが、経営の強さとなっている。


農業をコントロールする

 グローバルGAPを取得するということは、生産工程を明確化するということであり、それぞれの生産者が持っていた技量、経験を見える化し、共有することが可能となる。イグナルファームの社員は20代で、ほとんどが非農家出身。若い社員の育成に役立てることができる。生産をしっかりコントロールするということが農業を持続していく上で大きな力となる。

 今、日本農業が大きな岐路に立っているが、それは従来の農業が行き詰まっているということであり、一つには、取り巻く環境を余りにも受け身的に捉えてきたということではないだろうか。伝統的に自然環境に対してはそれを受容していかざるをえないが、農政に関しても、販売に関しても、ただ状況に従うだけで、自らの意志を積極的に反映させるということをやってこなかった。そういう反省に立てば農業をコントロールするという考えに一抹の光が見える。イグナルファームの取り組みもそんな一つと感じた。施設園芸は元々自然をコントロールしたいという願望が根底にあり、大きな自然の脅威に曝された経験を持ちながら、それに真摯に取り組む姿は地に足の付いた強さがうかがえる。また企業との取引は、販売価格を安定させ、経営をコントロールしていこうとする意志を感じる。様々なものに翻弄される農業を自らの制御下に置こうとすること。これが農業を次代に繋いでいく、確かな一つの方法だと感じた。

 イグナルファームの目下の課題は、旺盛な需要に対してどう応えていくかということ。「今は取引先の拡大を断っている状況です。生産の方が追いつきません」。それに対する一つの対応策は「規模拡大です」。それに加えて進めているのが思いを同じくする農業者のグループ化。「イグナルファームを独立した社員たちなどと手を組み、協力していくことでキャパシティーを超える部分を賄っていきたい」。新しい仕組みを作ることで、取り巻く環境に対応していく姿勢に農業のこれからの形を感じることができた。

 状況をコントロールしようとすることは、運を天にまかせず、幸運や恵みを過度に期待せず、自分の足で前に進むこと。経営においても人生においても、それが昨日より今日、今日より明日へと、一歩一歩良くなる方法だと思えた。そうやって紡がれる先に、日本農業の明日があればと思う。



繋がる農業の可能性
多様な展開で50年後も続く農業を実現する                                                              取材先:兵庫県淡路島 チューリップハウス農園 髙詰雅秀代表取締役社長   

 「人は一人では生きていけない」と言うけれど、大昔に比べれば随分その結びつきは弱まってきている。農村を見てもそうだ。社会の発達と共に、他者との関係が希薄になっても生きてはいけるようになった。ただそれではつまらないという感覚も一方ではある。他者との関係で煩わされることも少ないが、結びつきがもたらす面白さも少ない。より豊かな暮らしとは何か。それを求めて、地縁、血縁の結束が緩む中で、新しい繋がりが生まれようとしている。通信やモビリティの発達が世界を広げ、同じ思いを抱く人たちを繋いでいく。それが農業の持続にも大きな力となっていく。積極的に繋がっていく農業の可能性を探る


 

 
▲鮮度命の畑▲レストラン「夢蔵」▲古民家を改装した店内

 

“鮮度命”で積極的な展開

 兵庫県淡路島で、“50年後も続く農業”を見据え、日々模索と実践を行っているのが農業生産法人株式会社チューリップハウス農園。その持続力の鍵となるのが、個の力を越えていく様々な繋がりだ。段々畑が広がる中山間地を舞台に島内でも良質とされるお米と多品種の野菜を作る。それを会員に向けたセット野菜にして宅配し、加えて店舗を借りた対面販売や卸売業者への出荷を行う。また農園で採れた野菜を使った加工品、レストランも展開。「農業だけで経営を成り立たせるためにありとあらゆることをやっています」と語るのは同社の代表取締役社長髙詰雅秀さん(33歳)。厳しい現実に直面しながらも決して挫けることなく、もがきながらも前へ前へと歩み続ける。「農業、農園を通して世の中を良くしたい」。その高い意気が、踏み出す一歩に力を与える。錯綜する現実の中で、向かっていく先を示す。

 同社は付近にあった全寮制の学校が作った社内ベンチャーとして出発。そこのスタッフをしていたのが髙詰さんで、農業体験の担当であったことから、農園に関わることとなった。2010年に目の前にあった豊かな自然を活用する事業として、農業生産法人がスタート。今は学校もなくなり資本関係もなく、独立した農園となり、地域の地所を冠した小山田村農場として活動している。「最初は大変でした。元々農家ではないので、近所のおじいさんやおばあさんに作物の作り方を教えて貰うところから始めました」。当初の作物はお米、イチジク、タマネギ。現在は1.3haでお米を作り、1.7haで、タマネギを始めとした季節の野菜を栽培。会員に送る野菜セットを作る必要もあって、年間を通じて25種類以上、多いときで40種類にもなる多様な作物を手がけている。

 「最初農業をすると言ったときは、付近の農家さんはやめた方が良いと言いました」。近年の農業を取り巻く環境を考えればごく当たり前のアドバイスだったと想像できる。その中で、思うように農地も集まらず、結果、飛び地になってしまい、作業効率の悪い圃場状況となった。そこで取り組み始めたのが休耕地の開墾。「将来的には、近辺に耕作地を集めたいと思っています。そのために土地を開墾して集めています」。小山田村農場は、島の中央部にあって、山間では耕作放棄地も年々増えている。また誰も住まなくなった住居がすっぽり草木に覆われてしまっているような所もあちらこちらに見受けられるような状況だ。地元の人達とも「このままではまずいことになる。休耕地が増えていけばイノブタの住処にもなるし、良くはない」との認識の共有があり、協力し合って耕作放棄地の再生が始まった。農道にコンクリートを張るなどの共同作業も行い、周辺環境の整備にも繋がっている。

 農業を続けること。それが美しい農村を維持する事にもなっている。そこにある整った景観が、この8年間、この地で農業を続けてきたことの成果とも言えそうだ。今では周囲の信頼も得て、農地を預かって欲しいという話も増えている。再生した休耕地は1ha。これから整備される休耕地は1ha。作業の効率という面から、再生した休耕地の活用が進められている。

 現在スタッフは髙詰さんを入れて7人。平均年齢は30歳を切り、生産、加工、販売の各部門で得意とする力を発揮している。「生産には基本的に全員参加ですが、各部門で中心となるスタッフがいます」。髙詰さんの上役だとよく間違われる販売担当者、プロのデザインソフトで広報を担う者、加工部門では調理師免許を持つ者が3人。7人がそれぞれの特性を活かすことで、従来の農業にはなかった多様な展開を可能としている。

 まず、要となるのは農産物の生産で、これがなければ始まらない。中心となるのは「現場が好きです」と言う髙詰さん。生産する農産物は「慣行より農薬を少なくした特別栽培」。季節の野菜を中心に、ゼブラナスやハバネロ、UFOズッキーニなど個性的な野菜も手がける。しかし農業を本格的に始めて8年。篤農家や名人と呼ばれる人々には技術的に及ばない所もまだまだ多い。そこで「栽培で心掛けているのは鮮度です。土作りも進めて力をつけていくつもりですが、まずは鮮度が命です」。その中で取り組んだのがレタスの朝採りプロジェクト。「朝の2時から収穫を始めて4時半にトラックがやって来て積み込み、卸売市場へ出荷します。朝の10時には百貨店などの野菜売り場に商品が並ぶというものです」。従来の農産物流通でこのスピード感を出すのは難しいが、取り引きしている卸売業者と連携し、若さと実行力でこれを可能にした。農園から生み出される農産物の大きな魅力となっている。今後の課題は機械導入による省力化。移植機などの導入などを検討している。その中でよく使われる農機の一つにホンダの耕うん機サ・ラ・ダFF300がある。「正逆転ロータリーなので、堅い地面でも爪が土に噛み込んで安定して作業が出来る」と評価は高い。


繋がりが利益を生み出していく

 農園が目指す一つの形は「農業に携わる暮らしの中で、子供を産み育て、大学に行かせてあげられるぐらいの収入を得て、40、50年続けられる農業」。それができれば農業の未来は明るい。

 そのためには如何にして利益を上げていくかが肝になる。どうやって売っていくのかということ。その中で様々な繋がりが利益に結びついていく。野菜セットの宅配を可能にする会員との繋がりは大きな財産だし、卸売業者との関係も朝採りプロジェクトを実現するなど発展的な展開となっている。「卸売業者はタマネギで1社、その他の野菜では神戸と大阪でそれぞれ1社と取引させて頂いています。その中で卸売業者の系列スーパーには専用のコーナーがあってそこで販売してもらっています」。また神戸市の湊川にある“ハートフルみなとがわ”という小売店が集まったショッピングセンター内に「元八百屋だった店舗を借り、毎週水曜日と土曜日に農産物を販売しています」。この対面販売の割合が最近大きくなってきている。農園の農産物の良さである鮮度を活かすことができ、「リピートしてくれるお客様が付いていますし、最近では、野菜が並ぶ前から来てくれます」。農園直送、直売の評価は高いようだ。また、「自分たちの農産物や加工品に加えて、周囲の農家さんから集めた農産物や、地元の海産物なども売っています」。消費者と直接繋がる場を最大限活かしている。またこの場は単に物をやりとりするだけではなく、情報をやりとりする場にもなっている。どういうふうに作ったか、また食べてみてどうだったか、互いに思いを分かち合うことで繋がりが強化されていく。それが口コミの評判になって売上に貢献し、消費者のニーズをつかみ、何を作って売れば良いのかのヒントにもなる。「互いに顔が見える取引は緊張感があります」。期待に応えようとすることが成果となっていく。

 対面販売と共に力を入れているのが加工。農園で採れた野菜を練り込んだベーグルやワッフル、“島のオーガニック”として淡路島五色町を中心に立ち上げたブランドで商品化したカレーなどを展開している。また2014年にはレストラン“夢蔵”を事務所横にオープン。古民家を改装したもので、雰囲気のある店内を演出。そこで鮮度にこだわり、農園の野菜をふんだんに使った料理を提供する。シェフとして厨房に立つのは加工部門の一人で、フランスの三ツ星レストラン、ポールボキューズで修行した経験も持つ料理人。オープンは土日祝のみでランチがメイン。観光やグルメの雑誌にも紹介され観光バスが立ち寄ることもある。「お客さんのワクワクに応えられるものを出して、また来ていただきたい」。生身の人間にしっかり向き合うことで口コミも広がり、農園のファンと呼べる消費者が増え、人気は上々だ。


可能性を大切にし成長していく

 スタッフの個性を活かし、多様な展開を図り、「どうにかこの8年、やってこられました」。その営みは鮮度を重んじる生産を中心に据え、繋がるものを巻き込みながら上へ上へと上っていく渦巻きのようだ。「農園のファンを作って巻き込んでいければと思っています」。そのためには繋がりを強固にしておくことが大切だし、また繋がりから回転する向きを定めていかなければならない。無理な方向に回ったのではバラバラになってしまう。

 その上で力強く回転する力が必要で、その源は「農業、農園を通して、世の中を良くする」という意志であり、あとは何と言っても若さだ。「若者が農業をするメリットは、一つに、先を恐れずに挑戦できるということ。怖いもの知らずということでもあります。体力もありますし。もう一つが、今迄農業の世界が経験してこなかった新しいことを受け入れる柔軟性があるということだと思います」。それが大きな力になっている。髙詰さんは「農業が好きです。やめたくない」と言う。その声は強い。その単純な思いがすべての始まりにあるような気がした。

 大きな変革が求められている従来の農業は、同農園に比べて“繋がり”というものの度合いが低いように思える。生産物をただ作るだけでそこから先の繋がりが乏しい。そのため、新たな展開、可能性を見いだすことが難しくなってきている。繋がること。それは可能性を見いだすことだと思う。可能性とは、新しい考え方であり、価値であり、場所であり、市場であり、成長の源である。同農園の場合、会員さんとの繋がり、消費者との繋がり、取引関係との繋がり、スタッフ同士の繋がりの中にある。またスタッフ個々人においても、自らの可能性を伸ばす取り組みを行っている。「私は農業スクールの講師もしていますし、加工部門の者は大阪の製パン教室に通っています。農業は百姓と書くだけあっていろんな物を吸収することができる仕事ではないでしょうか。可能性を切り落とさないことが非常に大事だと思っています」。それが新たな成長を生み出すことになるし、人を惹きつける力にもなっていく。

 「農業はやり方によっては明るい展望が抱け、非常に可能性のある意義のある仕事です」。その中で若い農家が元気よく地域で活動できれば、農業を通して地域の活性化に貢献できる。それが「世の中を良くすること」に繋がる。そしてそうでなければ50年続く農業は実現できない。可能性を大切にしながら成長する農業に期待したい。それが日本の農業の未来に繋がっていくことを切に願う。


瑞穂の国の志と誇り
水田で作った白ネギを若さで売る
取材先:福井市高屋町 小西農園

  自分の仕事に誇りを持つ事は大切なことだ。それが仕事を通して人生を前進させる原動力となる。しかし世の移ろいで仕事の意義が変わり、それまで抱いていた誇りを失ってしまうこともある。そろばんの腕前は電卓の前に、街角の紙芝居はテレビに、酒屋はコンビニに。そして今やAIが新たな脅威へ。存在意義を問われるのは将棋や囲碁のプロだけじゃない。取りかえのきかない仕事をしていたという誇りがいともたやすく失われる。さて、農業の世界はどうだろうか。移りゆく時代の中で、農業が持つ“志と誇り”を守っていくことができるのか、その意義を保っていくことができるのか。その中にある譲れないものを探る

 

 
▲水田を利用したネギ畑▲冬の寒さがネギを美味しく▲ブランド化を進める

 

水田の白ネギで経営安定化
 生産調整も今年まで。来年から経営所得安定対策によって支給されてきた米の直接支払交付金7500円/10aが削減され、新しい枠組みの米づくりが始まる。その中で課題になるのは、水田稲作農家の収益力確保。助成金の廃止が農業離れのきっかけになるとも懸念され、農業を続けるための利益をどうやって上げていくのかが問われる。そこで大きな鍵になるのが水田の活用。飼料米などの新規需要米に注力しようとする動きもあるが、より収益性を強化できるものとして、水田を活用した野菜作に注目が集まる。
 福井では水田園芸面積拡大を振興しており、それに伴う園芸特産振興の重点品目として白ネギがある。昨年の作付けは福井県内で94ha、福井市内で14haの作付面積となり、その存在感をじわじわと高めている。その白ネギ栽培に福井市内で取り組んでいるのが小西農園。家族経営のスタイルだが、栽培面積は4haで、市内で栽培されているもののおよそ4分の1に当たりトップの規模。県内でも有数の栽培農家だ。その中で白ネギ作りを担っているのが後継者の小西大作(28歳)さん。弟の健治(27歳)さん、20歳になる研修生と共に若い力で白ネギ生産に汗を流す。水田で白ネギを作る魅力や課題、これからの展望を聞いた。
 小西農園の周辺は平地が広がり水田で米づくりが行われているが、地域では伝統的に「昔から水田で野菜を作ってきました。高齢化は進んでいますが、お年寄りでも農業に熱心で元気に働き、耕作放棄地はありません」。小西農園も長年水田で稲を作りながら野菜作に取り組む、地域の一般的な農家だった。その形に少し変化が見られるようになってきたのは大作さんが就農した頃から。「私が就農したのは平成23年、22歳の頃です」。若い力が加わり経営内容に変化が表れ始めた。就農当時の野菜作は、「ブロッコリやキャベツなどがメインでした」。高屋町は北陸の降雪地帯にあり、野菜作りでは本格的な雪の時期の作業を避け、春と秋に収穫できるものが取り入れられていたが、そうなると「冬に仕事がない」ということになり、専業農家の後継者としては物足りなくもある。また「ブロッコリやキャベツは、収穫適期を逃せば次の日に規格外ぐらいの大きさになってしまい、気が抜けません。それに旬の時期が重なりますので、集中して出荷され相場が下落するリスクもあり、博打みたいなところがありました」。そこで農協と相談し、白ネギと出会った。
 「冬場の仕事を作ろうということで始めました」。旬が短くて収穫時期が重なるということはなく、生産者の都合で収穫ができ、8月から5月まで出荷が可能。価格は多少の変動があるものの、時期を通してみれば安定している。「計画して休みが取れ、収益が相場頼みになることもなく1年を通して仕事がある」。農業を経営として見る上で魅力的な作物だ。また、産地化して連作を続けると病害虫が問題となるが、「水田を利用してローテーションをしていくので、連作障害も起こりにくい取り組みとなっています」。水田で野菜を作る大きなメリットがここにある。
 しかし、同時に排水という問題も抱えることになる。「白ネギも同じことです。水はけが良くなければ育ちません。水はけの良い場所を毎年選んで作付けしますが、加えてサブソイラを行い、暗渠、明渠で排水します」。またここには地の利もある。圃場の横には九頭竜川が流れ、もともと河原だったこともあり、水はけは悪くない。だからこそ、昔から水田で野菜を作る産地でもあった。平成25年から白ネギに取り組み始め、今年で5年目。規模も増やし経営に大きく貢献している。
 デメリットは仕事の労働負荷が高いということ。「力仕事で収穫までに時間がかかり、手間が多くほぼ毎日何かしています。また、夏場の草取りも大変です」。その中での栽培規模の拡大は、経営的戦略に基づくものであると同時に、若さのなせる技とも言えそうだ。白ネギの作付けは前年に稲が植えられていた場所へ3月後半から8月いっぱいまで行い、その間、白ネギの白い部分を作るために土上げを行う。「6~7回で、段々土を盛り上げていきます」。収穫は8月から開始。5月いっぱいまで、毎日のように出荷する。その合間、4haの水田でコシヒカリとハナエチゼンを作っている。重労働であり「白ネギに取り組んでみたものの止める人も結構います」。
 その中で大きな力になっているのが野菜作の機械だ。定植機、乗用管理機、ブームスプレーヤ、収穫機、調製作業機が一通り揃い、効率作業に貢献している。また機械力を活かすために栽培体系の方をそれに合わせている工程もある。畦間が1m40㎝と余裕のある幅に取られ、野菜管理用の小型乗用トラクターがそこに入り、土あげのための耕うんができるようにしている。反収は落ちるが作業効率が格段に上がる。また逆に機械を使わずあえて手作業に切り替えるところもある。「雪が降ると、手による収穫に切り替えます。昔は無理をして機械でやっていたのですが、足場が泥でグチョグチョになり、手でやった方がスピードは速い」。稲作用の機械と違い、野菜作用の機械はまだまだ改良していく余地が多くあるようだ。

“べっぴんねぶか”を全国へ
 この地の白ネギの魅力は「みずみずしく深い甘みがあること」。特に冬場のものは雪のため糖度が上がり、高い商品価値を持つ。現在小西農園で作られる白ネギは“べっぴんねぶか”と名付けられ、「自分たちで営業して直接販売できたら面白いだろうと思って、仲卸や東京などの飲食店、地元の生協などと直接取引をしています」。東京の商談会に参加したおり、積極的に農業に取り組む周囲の農業者に刺激を受け、パンフレットやTシャツ、のぼりなどを制作し、更なるブランド化を進め、飲食店などへの「直接取引を増やしていきたい」と、意欲的だ。ただ作るだけではなく、それをどのように、そして誰に販売するのか。主体的に農業に関わっていこうとする意識の高さがあった。それを支えているものの一つは若さだ。柔軟な頭で新しいやり方を積極的に取り入れ、従来あったものやライバルたちと競い合うことで自分たちの居場所を自分たちの手で切り拓こうとしている。「トップになりたい。勝ちたいです」。兄弟とも元高校球児。大作さんは甲子園のバッターボックスに立ったこともあり、自らを鍛え切磋琢磨するのは習いともいえそうだ。パンフレットには“一葱入魂”とあり、「べっぴんねぶかを福井から全国へ」と、意気は高い。
 しかし、子供の頃から農業者になりたかったわけではない。「農家になるなんて全く思ってもみませんでした。ほとんど手伝いもしなかった」。その気持ちに変化が起こったのは高校を卒業し製造業で4年ほど働いてから。「工場では交代制の仕事をしていて、自分の替わりは幾らでもいました。その仕事は自分でなければ駄目だという理由がない。そこで自分しかできないことは何だろうかと考え始めました」。その思いの先で、他の何かと取り替えのきかない仕事として選んだのが家業の農業だ。「私で20代目です」。高齢化が進む日本農業にあっては若いというだけで希少価値があり、替えの難しい存在とも言えるが、農業というのはそれだけではない。農業そのものに大きな価値がある。

命を育む喜びと面白さ
 農業は、工場で規格品を作るのとは違い個人の工夫の余地が大きい。小西さんは後継者として農業に主体的に関わり白ネギの生産者として地歩を固め、誰がやっても同じというような替えのきく存在ではなくなってきている。その背景には「農業は好きです。やりたいことが何でもできる。それに野菜を作るということはやっぱり面白い。生き物を育てるということは毎年同じようにはいきません。先の見えない天候とか様々なトラブルを乗り越えて工夫して作る。そういうのが楽しい。作業はきつくても収益は上がりますし、やり方次第では夢も持てる」と、仕事に対するやりがいがある。
 農業は命を育むことであり、千変万化な自然に対応する中で、その時々のありうべき理想の状態を求めていく行為だ。常に挑戦であり、創造的な仕事と言える。そこに喜びがあり、面白さがある。また食を生み出す仕事は、人の命をも育むということであり、人を助ける仕事が尊いのと同じように、これもまた尊い仕事だ。“命を育む”ことへの喜びとそれに携わる誇り。これが農業の魅力であり、やりがいを感じる源にあるように感じた。その上で思う。もしこれがなくなってしまったら農業とは一体どのようなものになってしまうのかを。それは多様な試みの先に可能性としてあり、その姿を正しく言い当てることは出来ないが、つまらないものになることは想像に難くない。農業は時代のうねりの中で、大きく変わろうとしているが、その大切なものをもなくしてしまっては、幾ら農業が残ったとしても形ばかりになってしまう。様々な改革が進められているが、その果てにどこに辿り着くのか。そのゴールへ大切な物が伴われているのか。切り捨てても構わない選択肢に分類されてはいないか。
 今消費者が求めているのは物質的な“物”だけではない。価格や品質、規格など、数字で表せるものの背後に目を向け、そこに価値を見い出そうとしている。農産物で言えば、その商品が誰によってどのように作られているのか、品物の背後にあるストーリーに関心が向けられる。それは単に履歴を知って安全を確認したいという以上のものだ。そこにあるのは農業という行為を追体験したいという気持ちではないだろうか。命を育む喜びと面白さを知り、創造に感動したい。それに応えることが取り替えのきかない仕事に繋がっていくと思える。全てを数字で表せるものだけになれば、誰が作っても良く、恐らく取替えは可能なのだから。
 小西さんの目標は家族経営から会社組織での農業へと切り替え規模を拡大し、売上を上げ「若者を雇用できる強い集団を作ること」。これからの農業者の一つの成功の形と言えそうだが、その背後には「農業が好きです」という真摯な思いがある。その中には、きっと様々な気持ちが込められているが、“命を育む喜び、面白さ” も感じることができる。“取り替えのきかない仕事をしたい”。この世界に一歩踏み出す始まりとなった思いであり、小西さんの譲れないものだと感じた。それを実現させるためにも農業の喜びや面白さを大切に守っていかなければならない。それを分かち合うことが消費者を掴むことになり、自分の居場所を作る力になる。それが日本の農業の未来に繋がっていくことを切に願う。

地域からのメッセージ

在来種かぶらのブランド化

取材先:福井県若狭町 山内かぶらちゃんの会

  “知る”ことは幸福なのか、それとも不幸なのか。確かに“知の悲しみ”というものはあって、知ってしまったがためにもう喜べなくなってしまうということはある。同じ事の繰り返しでは楽しめない。しかし、知識がその人の可能性を増やすのなら知ることは選択肢を増やし幸福をもたらすことになる。では向きを変えてみて“知られること”の禍福の別はどうなのか。私たちは関係性の中にこそ生きているとするのなら、他者に存在を認識してもらうことは衣食住を満たすのに等しい。繋がりを持つことは生きることそのものだ。そこにどんな可能性があるのか。幸せがあるのか。さて今回はこれを切り口に産地のあり方を考えてみたい。生産者から情報発信し、農産物あるいは生産者を知ってもらう。そこに地域農業の持続を考え、生産者にとっての幸せを探る。

 

 
▲在来種のかぶらを生産▲山内かぶら▲地域の絆を深める

 

在来種のかぶらをブランド化
 福井県南西部、若狭湾国定公園に面した若狭町には、山内かぶらという特産の白カブがある。古くからこの地に自生してきた在来種で、その味は“甘くて、辛くて、苦味もあって”と、かぶらが本来持っている味を色濃く反映し、野生の魅力に溢れている。その生産に携わっているのが地域の生産グループ“山内かぶらちゃんの会”だ。女性ばかりで、下は68歳、上は84歳の生産者12人で構成され、地域活性化の力になっている。代表の飛永悦子さんを中心に、合わせて8名の生産者に集まって頂き、山内かぶらの取り組みについて話を聞いた。
 若狭町は、日本海に面し、隣には古くから港町として栄えた小浜市があり、大陸への玄関口として発展してきた。小浜を起点として、京都、奈良などの都に物資が運ばれた鯖街道が町内を通り、盛んに人、物が行き来する交通の要衝にあった。その混交の地で育ってきたのが山内かぶらだ。
 この地には「かぶらラインと呼ばれる境界が通っています」。日本にはヨーロッパからモンゴルを経て伝わってきたヨーロッパ系のかぶらとアフガニスタン原産で、中国を経て日本に伝わったアジア系のかぶらがあり、「シェフによると、その2つを混合したような味がする」とのことで、独特の味を持つ在来種として旧鳥羽村の山内集落に定着し、江戸時代頃から種取りを続け、先代から嫁へと代々かぶらが守られてきた。
 表面にえくぼがあり、ひげ根が多く、葉は長くしっかりして、肉質は締まっていて煮崩れしにくく、風味が良いのが特長。「収穫時期になると畑からその独特の香りが漂ってきます」。またその香りは、害虫や害獣を寄せ付けない効果もあり「サルが囓りに来ても、すぐに止めてしまいます。苦手なんでしょうね」。また病気にも強く、この地に適応し、在来種となり、残り続けてきた。一般量販店で市販されているかぶらとは一線を画す野生的な魅力がある。
 しかし、時代が進み、市場には見た目の良い品種が出回るようになり、この地でもそれに取って替わられるようになった。「普通のかぶらは表面が綺麗で、つるっとしています。私たちのはそうではなく、スーパーなどではあまり扱わないような類のものです」。消費者が商品選択をする上で得られる情報において、外観品質の良し悪しは大きな比重を占めるわけで、その部分で劣るものが市場で残り続けることは容易なことではない。また、種苗会社で作られてきたかぶらと違い、種取りによって100年以上も性質を繋いできたわけで、今の作物に比べ、出荷の基準を満たす農産物の歩留まりが圧倒的に悪い。「みなさんにお売りできるようなものを、どんどん沢山作るということができません」。歩留まり良く画一的なものを大量に作るという、市場出荷には向いていなかった。そんなこともあり、山内かぶらは一時表舞台から姿を消す。
 そんな中でも伝統野菜を守っていこうとする動きがあり、若狭町役場からも「昔から守ってきた伝統野菜を、町の特産物にしていきませんか」という後押しもあって、平成23年に、山内かぶらちゃんの会として、生産グループが結成された。この地域は稲作がメインで行われており、「畑仕事は女の仕事」。その延長でメンバーは全て女性となった。初期のメンバーは6人。「80歳に近かったのですが、後継者に入ってもらおうと思って、70歳前の方、6人に入ってもらい、今12名で活動しています」。この世界60代ならまだ若手であり、会にとって大きな力となっている。ただ後から加わった人たちは即戦力というわけではなく、ベテランの先輩に比べて農業との関わり方が違っていた。兼業農家の奥さんという形で、家で米を作っていても本格的に農業に関わることがなかった人達だ。「今迄畑のことはしてこなかったので、全部一から教わって、かぶらも最初はうまくできませんでした」。上の世代から下の世代へ農業を伝えていく。単に伝統野菜を作るだけではなく、地域農業を伝える役割を会が担いながら女性目線のブランド化が図られた。


野生の魅力に溢れるかぶら
 「何も難しいことはありません」。山内かぶらを作る上での感想だ。畑は左右に山を見る、谷にあって、朝霧深く、かぶらの生育に適した気候風土を持ち、自然が生産を後押しする。また、病害虫や獣の害が少なく、農薬が無くてもすくすくと育ち、種としての強さを持っている。栽培はその力を借りるということだ。
 ただ、それを商品として育てる場合、それなりの苦労もある。一つは間引き作業。「種は1~2㎜と小さく、一箇所に幾つも落としていきますので、間引きをしていかなければなりません。その仕事が大変です」。またもう一つ手間のかかるものは収穫調製作業。収穫は11月~2月にかけて行われるが、この地域は積雪地帯。「1月ぐらいからは雪の中を掘り出して収穫しなければなりません」。一つ一つ手作業での作業となり、これが重労働となっている。その後の水洗いも機械を使わず手間がかかり、楽な作業ではない。そして在来種ならではの作業として、種取りがある。「収穫時に山内かぶららしいものを選び、種用に植え替えます。またその時、他の種と交配しないようにハウスの中で育て、純血を保ち、5月の終わりから6月に種をとります」。在来種であり続けることの苦労もあるようだ。そいう手間はありながらも、山内かぶらを語る生産者の顔には笑顔が絶えない。自分たちの集落でしかできない特産物への愛着を感じる。昨年の栽培面積は個人と共同畑合わせて約80aで、2tほど。決して大きな規模ではないが生産者にとってその存在は決して小さくはない。
 出荷先は地域の直売所2軒と、学校給食、レストラン、料亭など。「地域の直売所より、飲食店への出荷の方が多いですね。その次は給食での利用です」。在来種として独特の味を持ち、生産量が少なく希少価値となっているが、その需要は地域外のほうが高い。給食では保育所、小学校、中学校などで山内かぶらを使用して貰い、地元の味を子供に伝えることで、食育に貢献している。
 飲食店等への出荷では、福井市内のフランス料理店、東京他各地に店舗がある高級惣菜店、京都の料亭に山内かぶらを供給。「フランス料理に合うとか、料亭ではお漬物にすると日本一だと、言って頂いています」。野生の魅力を秘めた余所にない味がプロの高い評価となっている。その期待に応えるため、品質の確保は必須の条件となるが、加えて要望に応えるためには収量の拡大も必要になってくる。その辺りが今後の課題となる。
 また収穫が終わった2月以降でも、山内かぶらを届けるため、秀品以外のものを使った漬物や干物などの加工も行っている。ただ漬物にしても賞味期限はそれほど長くはなく、メンバーの中にいる元料理人を中心に更なる展開も検討されている。
 そんな中、平成28年9月にGIの認証を取得した。地域で育まれた伝統と特性を有する農産物について、その結びつきが特定できる地理的表示(GI)を知的財産として保護する『地理的表示法』に基づいて、登録されるもので、現在登録産品は夕張メロンや前沢牛など30あり、山内かぶらがその一つになっている。「町や県の人に教えて頂いて登録しました。書類を書くのが難しく、何度も出し直しました」。法律的な用語で記述する事が求められ、普段なじみのない作業に苦労も多かったようだ。しかし、登録により得られるメリットも少なくない。「GIが取れたことで、東京の高級総菜店との取引が始まりました」。需要者が取引を始めるための有力な判断材料になっている。また、対外的なものだけではなく「私たち自身がプライドを持てたということです。当初私たちはこの山内かぶらを格好の悪い変なかぶらとして、遠慮しながら売っていました。しかしGIの登録を得て、このかぶらを認めて頂き、堂々と胸を張って、ここにしかないものを作っているんだという気持ちになれました」。その価値を知って貰うこと。そして認められる事。それが生産者に喜びと勇気を与える。
 またその世界の広がりは、新たな販路が見つかるということだけではなく、他の地域の生産者を知ることにもなる。「GIの登録を得た産地が集まるフェアなどに参加しますと、余所は株式会社や農協主体など大きな所ばかりで、対して私たちは零細な規模でした」。その比較の中で、自分たちは自分たちの農業を守っていくという認識が生まれる。「余所がやっているようなインターネットで販売するとかもできないのですが、自分たちのやり方で細々でもしっかりと地域の農業を守っていきたい」。そんな言葉から強い気持ちが窺えた。それが生産グループの歩みを更に進め、利益追求を超えて広がっていく。


仕事が個人と社会を繋ぐ
 山内かぶらを作ることによって、様々な人々との関わりが生まれている。それは自家用の野菜を作っていただけでは、あるいは兼業農家の妻として農業に関わらず生きていたのでは、決して得られなかったものだ。
 例えば給食の使用では、単にかぶらを食べてもらうというだけではなく、同時に農業体験も行い子供達との交流が生まれている。種まきや収穫を共に行い、またそのかぶらを使ったギョウザやコロッケなどを作り食べて貰う。「マーケットに行けば何でも買えますが、自分たちで作ったものを食べるということを通して農業の大切さや楽しさを知って欲しい」。近隣の人々とは「11月の最初の収穫後、収穫祭を開きます。集落の人に来て頂いて、山内かぶらを使った料理を出し、賑やかに収穫の喜びを分かち合います」。レストランや料亭への出荷ではプロの料理人との交流が生まれ、「1年に1回は必ず出荷先のフランス料理を食べに行きますし、その他にも美味しいところがあれば、食べに行きます」。農村で暮らす日常の延長ではなかなか体験できないことのきっかけになっている。GIの取得では関わる世界をさらに広げることになった。そして何よりも生産グループの中で、生産者同士の交流が充実したものとなっている。80歳を超えた生産者は「色々な所に連れて行って頂ける」「若い人と話ができるのが楽しい」、また70歳前の生産者は「ここに嫁いできて、会に入る前は、地域との関わりも少なかったのですが、繋がりが生まれて楽しい」。山内かぶらの生産という仕事を通して、それまで無かった交流が生まれ、それが楽しさや生き甲斐を生みだしている。「山内かぶらで、集落の皆が楽しく元気に過ごしていければ良いなと思っています。それが最初からの願いです」。仕事が個人と社会を繋ぎ様々な可能性が生み出されていく。
 山内かぶらは規模も小さく、地域経済に大きく寄与するというものではないが、地域の活性化においては大きな力となっている。地域の活力を測る尺度は様々ある。経済性や人口、或いは知名度など。その中でコミュニケーションの豊かさもその一つではないだろうか。互いが互いを深く知っていくということ。かつての農村には村社会として色濃くあり、その濃密な人間関係から距離を置こうとする向きもあったが、今また高齢化の進展などで農村の活力が失われる中、適度な距離感を保ちつつ、しっかりと繋がることは、集落に暮らす人々に喜びを与え幸福に繋がると感じる。そこに農業の果たす役割は大きい。単純に規模拡大を進めたのでは、農村に住む個人から農業を取り上げることになるかもしれない。それにより失われるものはあまりに大きい。
 ほんの限られた人しか知らなかった山内かぶら。一時は消えかかったこともあったが、関係者の努力により徐々に認知度が上がってきた。これまでの道程はその存在を知ってもらおうとする歩みでもあったのではないだろうか。生産、販売、加工、そしてGIの取得や食育、地域イベントなどを通して。その中で発せられてきたメッセージは、余所にない個性豊かな味という農産物そのものが持つ価値であり、同時に地域への深い愛が込められている。それを伝え、知ってもらうことは、作り手同士が深くコミュニケーションを図るのと同じで、新たな可能性の発見に繋がり、大きな喜びをもたらす。それが地域農業持続の大きな力になる。福井県若狭町山内にこれからの農村の姿があった。

土地利用型農業の選択

在来種のそば栽培で地域活性化

取材先:滋賀県米原市伊吹農事組合法人ブレスファーム伊吹 代表理事 伊富貴 務

  1970年から本格化した減反も本年産の生産をもって廃止。2018年からは農業者の自由な判断による生産へと移行する。これにより米価が下落すると予想する向きもあり、米作農家の不安は大きい。しかし来年以降も引き続き生産量の目安を設定するとしている自治体は40道県あり、自主的な生産抑制は残りそうだ。また、減反に参加した者に支払われてきた米の直接支払い交付金7500円/10aが無くなり、原価割れに陥って米作から撤退する者も現れるだろう。あるいは有望な転作作物に本腰を入れようとする者も出てくる。米の生産量が想定を超えて減少すれば価格は上がるかもしれない。さてどうなるのか、先行きは未だ不透明だ。ただ、漠然と米を作っていて農業が成り立つ時代が過去のものとなることは間違いなさそうだ。資源の乏しい日本がこれまで維持し発展させてきた強力な生産資源である水田を如何に活用するのか。日本農業を活性化させるための大きな鍵となる。それは地域の活力、日本の活力にも繋がっていく。


 

 
▲美しい田園風景▲そばの実▲人気のそば

 

集落営農で省力・低コスト農業
 滋賀県米原市にある霊峰伊吹山、その麓には姉川が流れ、両岸には管理の行き届いた水田が広がる。訪れたのは4月。川辺には満開の桜。昔話にでも出てきそうな農村の景色。その地で水稲、麦、そばの土地利用型農業を展開し、地域農業を守るために奮闘しているのが農事組合法人ブレスファーム伊吹だ。古くからそばが作られてきた産地であり、「米づくりだけではこれからの農業はやっていけない」とそばの転作に力を入れている。代表理事の伊富貴務さん(67歳)に話を聞いた。
 ブレスファームは今から20年ほど前の平成7年に伊吹農業生産組合として設立された1集落1農場形式の集落営農組織。それまでは兼業の小さな農家がそれぞれで生産を行い、土地を守ってきたが、高齢化の進展と共に引退する農家の農地を管理する受け皿が必要になり、また、販売価格に見合わない高い生産コストをかけた米づくりになっていたこともあって「こんなことをしていてはいけない」という思いで結束し、集落営農が始まった。
 まずは農地を集約して効率的な農業を実践するために基盤整備を実施。7a圃場が30a圃場になり、1ha以上の区画も誕生。今では畦畔を除去し高低差を均すなどし、大きな所では1.5haにもなり、省力化と生産性の大幅なアップが図られている。また、充実した農業機械を装備。6台のトラクタを始め、6条コンバイン、普通型コンバイン、6条田植機2台、レーザーレベラー、乗用中間管理機等、個人では導入が難しかったであろう大型農機が揃い大きな力となっている。「大変楽になりました。生産コストも全然違います」。集落で共同して農業を行うことで、重複して行っていたことが一度で済み、色々な所で無駄が省かれていく。経営として成り立つ農業の構築が進められる。また近年の農業を取り巻く生産環境の変化に伴い、地域の担い手としてより頼れる存在になるため、平成28年に農事組合法人となり今の名称となった。
 「現在は、米の作付けが21ha、大麦が11ha、そばが11haとなっています。また余所の集落でも転作部分でそばを作らせてもらっています。経営面積は32ha」。この中で、米づくりではコシヒカリを栽培。慣行栽培に加え、それを上回る量で減農薬・減化学肥料の環境こだわり栽培の米を手掛け、付加価値の向上を図っている。また、生産の省力化、コスト低減のため、乾田直播と密苗の移植栽培に取り組んでいる。密苗は「昨年70aで試しに栽培し、慣行栽培と比較して変わりがなかったので、今年は5.7haに拡大します。苗箱は10a当たり8箱、育苗期間は2週間ほど」。乾田直播は「種もみを播種機で落とすだけで一番コストが安くなります」。しかし反収は5俵ほどで栽培に適した乾いた田んぼも限られている。全てをこちらに切り替えることは難しい。全体の平均反収は7.5俵ほど。「安全安心を基本に品質を高めたいと思っているのですが、特Aランクまでには至りません。米の収量も最近は良くないですね」。米価も低迷しており、米づくりで利益を上げることは、簡単な事ではない。
 その中、水田の有効活用として転作に力を入れてきた。麦作では大麦を栽培し、収穫後はカントリーで乾燥して農協に出荷する。「経費もかかりますので補助金を加えて何とかという状態です」。この麦跡に作られているのがそば。「連作するとうまくできない」ことからしっかり輪作体系に組み込んでの栽培を実施。また水はけの悪い所では出来が悪くなるため、排水対策が必要であり、加えて「肥料が多いと実が減る」ことから、麦作で余分な肥料分がなくなったところに作付けする体系となっている。元々は大豆に取り組んでいたが、「栽培がうまくいきませんでした」。しかし、そばは朝晩の寒暖差が大きい伊吹山の麓の気候風土に適していた。そしてこの地で栽培されるものは、普通の一般的なそばからは一歩抜きん出たブランド力を持っていた。

在来種伊吹そばで活性化
 伊吹山は古くから崇められてきた信仰の山。多くの修行僧が訪れ、伊吹山の中腹にあった大平寺などが伊吹山護国寺を形成し、8世紀頃、大陸の北方から朝鮮半島に伝わったそばを「修行僧たちが持ち帰ってきたと聞いています」。それを育てた産地が大平寺の集落にあったと古い絵図に記されている。このそばは井伊家彦根藩から江戸幕府に献上され、“伊吹そば天下にかくなれば・・・” と、天下に銘を知られるほど。そばはこの地より美濃や甲斐、越前に伝わり全国で栽培されるようになったとされている。また大平寺のすぐそばには、薬味として欠かせない辛味の強い伊吹大根の産地もあった。しかし時は流れ昭和に入り、昭和27年に伊吹山南西斜面に石灰岩などを採掘する鉱山が開山。大平寺の集落ではそれでも暮らしが続けられていたが、昭和38年頃には山林の仕事では食べていけなくなり、冬場は雪崩の危険もあるなどで、鉱山に土地を売っての集団移住となり、その地でのそば栽培の歴史が途絶えた。
 そのそばを復活させたものが、 現在転作に取り入れている“在来種伊吹そば”となる。「生産組合で取り組む前に有志で町おこしとしてそばに取り組み、大平寺の奥の甲津原で種を保存している人から種を分けて頂いて広めていきました」。組合として取り組み始めたのは平成13年から。やや小ぶりだが、一般に流通しているものに比べて「香りが良い」と食した人の評判も良く、今では有望な地域ブランドとして他の集落でも“在来種伊吹そば”の栽培が行われている 
 「播種は7月の終わりから8月にかけて行われ、約3ヶ月後の10月の終わりから11月の中頃までに収穫します」。稲作と期間が重なることもあり、省力化は大きなテーマ。基本的に中間管理は行わず、整地、播種、畦畔管理、収穫で作業時間は10a当たり6.29時間。省力低コストの栽培が行われている。収穫したものは、2軒のそば屋と4社の製粉所へ直接販売している。収益性は高くブレスファームの売り上げに大いに貢献している。地元伊吹の集落と周辺3集落で土地を借りて栽培を行い、約30haの規模となっている。また、更に付加価値をつけるため、乾麺を委託製造し、地元の道の駅などから販売している。
 課題は反収。「10a当たり2俵収穫できれば良い方です」。そばは1俵45㎏。100㎏に満たない収穫量となっているが、排水対策をしっかりやらなければ収量は更に落ちる。「長雨や台風の影響は大きく、種そばがとれないこともありました」。売上の不安定要素となっている。また、作業の手間がかからないことが特長だが、それでも畦畔管理に10a当たり3.5時間かかっており、夏場の作業のため、従事するものの体への負担は大きい。

目標は直営そば店の展開
 集落営農を20年以上続ける中、テーマは一貫して地域農業の持続。そのためには安定した経営が必要であり、収益を残すための様々な取り組みが行われてきた。大区画圃場の整備や省力化を実現する機械装備、低コスト栽培に貢献する新しい栽培方法の導入、そして“伊吹そば”の展開など。しかしそれでも払拭できないのは組織全体の高齢化だ。集落営農は農地の受け皿として、地域の高齢化に対応する機能を持っているが、組織自体にも次代を支える後継者の確保が必要になってきている。その中で従業員の雇用も行われているが「従業員をただ増やしていくだけでは集落営農の理念が薄れてしまいます」。若者が後継者として参加したいと思う大きな可能性と将来性を持つ魅力的な集落営農になる必要がある。そのための一歩が法人化であり、自立した経営が模索されている。
そして更なるもう一歩として検討されているのは直営そば店の運営だ。「地元にはそばを食べるという文化がなく、今は収穫した玄そばを売っているだけですが、この周辺で自分たちが収穫したそばを製麺し、食べてもらう場所を作りたいと思っています」。福井や長野にはそばを食べる文化があり、それに付随した価値の創造が利益を生み出す。まずは地域でそばを食べてもらうこと。その先に新たな食文化の定着があり、可能性を広げることになる。農業の6次産業化であり、収益の向上に貢献する。
 それがうまくいけば「地域の雇用にもつながる」。集落の女性の力を活かすことにもなる。評判になるようなものを出していくことができれば、離れた地域から食べに来てくれる人も増える。「冬場は奥伊吹スキー場に向かうスキー客がここを通りますので、立ち寄ってくれるかもしれません。また別の集落でもそばの店を出してもらって姉川沿いをそば街道にすれば集客力が増す」。交流人口の増加であり、それがまた新しい可能性を生み出すことになるかもしれない。その地域にだけある魅力的な原料を使い、地域の人々の手による、地域限定で提供されるそば。食べに行きたいと思えるそばではないだろうか。そう思う人の数が多ければ多いほど事業は有望であり、事業に参加したいと思ってもらえる可能性を高めることになる。それが地域農業の持続に繋がっていく。
 しかし事業を起こすということは大きなリスクを持つということだ。それとどう折り合っていくかが肝となる。集落営農は積極的にリスクを取って収益向上を目指していく企業とはやはり異なる。どちらかと言えばリスクを避けながら失敗のない運営が求められる。「うまくいって当たり前です」。失敗に対する寛容性はそれほど高くはない。投じた資金の回収は絶対であり、その上で利益が出せるのか。「慎重に5年、10年の計画を立ててやっていかなければなりません」。提供する商品は食べに来てもらえる価値が本当にあるのか、消費者の期待を裏切らない運営を継続して行っていくことができるのか、そばが不作の時に対応できるのか。踏み出す前に問うべきことは多そうだ。
 そば屋が繁盛すれば、地域活性化の大きな力になる。消費者と繋がるということは、時代の流れに取り残されないようにするためのライフラインでもある。地域農業の持続に貢献するに違いない。
 そばは魅力のある作物だ。低コストで手間も少なく作ることができる。輸入物が多い中では国産というだけで大きな価値がある。またそば文化というソフト的な面があり、心に働きかける展開もできる。そばを食べるということは日本を感じることにも繋がる。心に響く食べ物は流行り廃りを超えて息が長い。これからの土地利用型農業を示す一つの選択がそこにあった。

瑞穂の国の志と誇り

中山間地でブランド米をつくる

取材先:群馬県川場村 ㈱雪ほたか 代表取締役 小林政幸

2017年4月号掲載 

 

 

   強い者が勝つのではなく、変化したものが勝つ。恐竜が滅び哺乳類が生き残ったように、それは時代の教訓。と、言うのは容易いが変化するということはそんなに簡単なことじゃない。強い理由に支えられた強い意志が必要だ。しかし、日本農業はその難しいことをやらなければならない大きな転換期を迎えている。農業を持続していくためには変わらなければならない。特に中山間地は座し待てば淘汰の波に晒される。今が切所。ではどうすれば、変化のための強い意志を持てるのだろうか。それともう一つの肝はどのように変化するかだ。生き残ることだけを理由に変化しては、その果てに辿り着くものが、只々食料を生み出すだけで、もはや農業と呼べるものではなくなっているかもしれない。それでは意味がない。変化しなければならないのは、生き残るためだけではなく、守るべきものを守るためのはずだ。それを理由とすることで、変化に対するより強い意志を持つこともできる。そこに生産者の“志と誇り”があるのではないだろうか。今回それを中山間地の米作りに探り、どうやって残していくのかを考える。


 

 
▲雪ほたか▲春を待つ田んぼ▲販売の主力となる道の駅

 

“雪ほたか”で地域を活性化
 生物の進化を促すのは常に生存本能。生死が問われる局面の中で変化が生まれる。社会環境への対応も同じ事で、変化する時代の中、その波に飲み込まれないように何とかしなければならないと、切実な意思が芽生える。助けるものがあればそれに頼り、なければ自分で何か方策を見つけなければならない。荒野の中で立ちすくんでいては、命がただ尽きていくだけ。活路を求めて一歩踏み出すこと。それが変化の始まりだ。今回お訪ねした川場村もそんなところから変化が始まった。群馬県北部に広がる山岳地帯、その南麓の中山間地にあり、存続に対する切実な危機感が村人の背中を押す。同村でブランド米“雪ほたか”の生産・販売に携わり、大きな存在感を放っている㈱雪ほたかの小林政幸(56歳)社長に話を聞いた。
 雪ほたか誕生の契機となったのは、そもそも平成の大合併の頃に遡る。「あの時、川場村は自主でいくと、村・村民みんなの総意で決まりました」。これが事の始まり。周囲の市町村と合併せず村単独での存続を選択した。しかし合併の話があるということは、独立して村を運営していくことが簡単ではないということの裏返しであり、強い力を持たない小さき身でふらふらと自ら荒野に彷徨い出たのと同じ事。「ただ決めただけで何もしなければ、どこかに飛んでいってしまうような小さな村でした」。川場村は昭和46年に過疎地域の指定を受けたものの、“農業プラス観光”を基本理念として地域振興に取り組み、昭和56年には東京都世田谷区と縁組協定を締結し、世田谷区民健康村を誘致するなど、都市部との交流人口の増加を図り、平成12年には過疎地域の指定を解除された。しかし、若者は都会へ働きに出て、住民の高齢化が進み、村の存続に対する危機感は通奏低音のように根底に響いていた。その中での自主独立路線であり、村全体で危機感を共有することになった。
「川場村は農業が主産業で、昔からお米が美味しいと言われてきました。村の方でこれをブランド化していこうという動きがあり、生産者がそれに応えていくことで始まりました」。生産量が少なく、多くが縁故米として作られ、限られた場所でのみ消費されてきたのがそれまでの川場村の米。ただ品質は高く、皇室献上米にも選ばれ、その品質と希少性から“幻の米”とも呼ばれていた。それをもう少し広く一般にも届けようと、平成17年に64名の組合員で“川場村雪ほたか生産組合”を設立。これまでの農業振興をさらに一歩進めた農業のブランド化が始まった。
 “雪ほたか”とは川場村で作られるコシヒカリのことで、標高2158mの武尊(ほたか)山より湧き出るミネラル豊富な天然水によって育まれる。生産地は標高300~650mの所にあり、大きな寒暖差などその地が醸す気候風土が品質の醸成に大きな役割を担っている。その核となるところは天恵によってもたらされていると言えそうだ。
 その上でブランド化を進めるための一つの方法として、お米の持つ能力、魅力を見える形にすることが試みられた。それがコンテストへの出品。「組合を設立した翌年の平成18年に、静岡で開催された“お米日本一コンテスト”で、第3席の優良賞を受賞しました。そして平成19年には米・食味分析鑑定コンクールに初出品し、金賞を受賞。それから金賞の受賞は連続8年続きました」。これがブランド化を進める上で大きな弾みとなった。外部の審査と機器による分析により自分たちが作るお米を客観化し数値化することができるようになり、これまで人の口から口に伝わっていた美味しいという評判をしっかりと裏づけることができるようになった。それが生産者の自信と誇りに繋がる。そしてそれは、生産だけではなく販売のことまで考えた展開において大きな力となる。初めて商品を手に取る一般の消費者にとっては、その物の善し悪しを計る重要なスケールであり、審査の過程で抽出された客観的なデータは商品について多くを語る。それが、これまで食べたことがなかった人に買ってもらうという、基本にして常に難題となる高い壁を超えるために力を添える。
 また客観化は、生産者の結束を高めることにも繋がっている。地域の中でも地区によっては味のバラツキがあり、長い間生産を続ける中で、“どこそこの場所で作ったものは美味しくない”という先入観もできていたが、「コンクールの中では、美味しいと言われていた地区だけが金賞を受賞したわけではありません。標高650mを超えた場所で作られたものが金賞を受賞したこともあります」。場所の違いによるだけではなく、生産者の力量も結果を大きく左右するということだ。また「1度金賞を受賞しても必ず2度、3度と取れるというわけではなく、非常に難しい」。それらの事が生産に対する謙虚な姿勢を生み出し、良いものを作ろうとする思いで地域が一つになっている。

会社組織にし、自分たちの力で歩む
 生産組合を立ち上げ、コンクールで賞を受賞し、雪ほたかの名前も知られるようになったが、その当時販売は村に任せたきりとなっていた。生産者は生産をするだけ。日本各地ではいまだ多くの生産者がその状況だが、農業を経営として見た場合、利益を上げるための思考を抑制してしまうこともあり、そのスタンスへの過度な固執は日本農業の可能性をたわめる一つの要因ともなっている。この地でもその範疇を抜け出せないでいた。しかし「将来を考えた時、いつまでも村にお米を売ってもらうのではなく、ある程度村から独立した組織にした方が良いのではないか」という議論が起こり、1年以上の検討を経て、様々な法人形態の中から「単純明快で一番分りやすい」と株式会社が選択され、平成23年9月に㈱雪ほたかが設立された。これにより、さらなる自由な事業展開と、意思決定の迅速化が図られるようになり、より消費に近いところで経営判断ができるようになった。ただ当然のことながら利益の確保は常に念頭に置かなければならない。それがなければ株式会社である以上、存続することができなくなる。守ってくれるものは何もない。「村に販売してもらうのと生産者自らが販売するのとでは危機感が全然違います」。リスクを背負うからこそ、その一歩一歩に持続に向けた強い意思がしっかりと宿る。各地で地域農業存続に向けた様々な取り組みが行われ、自治体の後押しを受け、個人から集団となって特産物の事業化や6次産業の展開が行われているが、自らがリスクを引き受け、独立して歩むという意志に欠ける所も少なくなく、結局、ある程度の所から前に進むことができなくなり、いつまでたっても荒野から抜け出せない状態となっている。それでは、詰まる所、一時しのぎの時間稼ぎに過ぎない。リスクを持って自らの足で踏み出さなければ、早晩、その場で朽ちてしまうことになるだろう。分かっていてもそこを乗り越えることはそんなに簡単なことではないのだが。
 「株式会社と生産組合では信用が違います。その分社長の責任は重いのですが、私が組合長をやっていた当時、3年間交渉してまとまらなかったものが、社長就任の挨拶に行った時、30分間で話がまとまりました」。リスクを持って初めて一人前。対等な立場での交渉が迅速な決定に結びついたということだろうか。
 また、この他にも会社組織にすることのメリットとして従業員の雇用がある。生産組合では生産者の中で様々なことを賄わなければならないが、会社であれば有用な人材を確保し、多様な事業展開、拡大が可能となる。加えて村内に雇用の場を創出することにもなる。「それが大きな役割だと思っています。若い人に働く場所を提供できれば、村に残ってくれるかもしれませんし、村外へと出た人が帰ってきてくれるかもしれません。雇用の場となること。それは大きな夢です」。帰ってきたいという人は多いが、帰っても仕事がないというのが現実。その中、今年2人目の社員が入社し、その夢へと一歩一歩近づく。
 ㈱雪ほたかは生産者71名が出資。その生産者が作るお米だけを雪ほたかとして買取り、乾燥・調製後、貯蔵し、精米、パッケージング、販売を行っている。これが事業の柱。この他、米粉を製造し、それを利用したこんにゃく麺などの加工品も手がけている。販売ルートは、村内の道の駅である川場村田園プラザがメインとなり、これに加えて、インターネット、スーパー、コンビニなどで販売され、レストランなどにも卸して高付加価値のお米として使用されている。
 会社の目的としては、「100年後まで川場村の美しい田園風景を維持する」という思いがあり、そのための地域農業の持続が大きな使命となっている。高齢化は他の地域と同様、「当然進んでいます。生産者の平均は60代後半ぐらいです」。その中で使命を果たしていくためには、まず米づくりが地域の産業として成り立っていかなければ続いていかない。しっかりと利益が出る経営が不可欠だ。それでも年齢のため、耕作から退く生産者は必ずいる。「毎年毎年少しずつですが、作り手がいなくなる田んぼが出てきます。今はそれを雪ほたかの生産者に割り振って生産を続けています。今地域で不耕作地はありません」。美しい田園風景が維持されている。しかしこの方法もそろそろ余裕がなくなってきているのも事実だ。この地の農業の基本は水稲単作ではなく、こんにゃく芋を始めとした野菜や果樹、酪農などを複合したもので、どちらかと言えばそちらがメイン。その状況の中で田んぼを増やしていくことは、同時に生産者の負担も増していくということで、これ以上受けられないという状況が「すぐ目の前まで来ています」。その限界を乗り越えるためには、「会社で田んぼを借り受け、従業員等の手によって栽培までやっていくという方法が考えられます」。ここに会社組織としての強味がある。またそうすることで、いよいよ耕作ができなくなった時の受け皿をしっかり作ることになり、農家の心配や無理をして続けるといった負担を減らすことになる。

ブランド化とは信頼に応えること
 全国各地でお米が作られ、その殆どが自慢のお米と言っても良いぐらいで、稲作に対する農家のこだわりは強い。しかし価格を付ければ、主観的評価とは別にした差が歴然と示されていく。必ずしも絶対的評価に基づいたものではないが、消費者がお金を出しても良いと思う価値がそこにはある。その価値を持つものがブランドということであり、一般的なものと一線を画したものとして消費者から峻別される。雪ほたかもそういうふうにして選ばれる側にあり、高いレベルでブランド化を成功させたお米だ。
 日本の原風景とも言える川場村の美しい田園風景を重ねたブランドイメージと、その地にある水と気候がもたらすお米自身の力、それを十二分に引き出すことを目指した細やかな栽培が、強いブランドの形成・維持を果たしてきた。中でも重要なのは「間違いないものを着実に作るということ。消費者の期待を裏切らない米づくりをしていくことがブランド化に繋がります。単純に食べて美味しいものでなければなりません。信頼を損なわないように、常に去年より今年、今年より来年と1年ずつ上を目指しています」。幾ら場所が良くてもしっかりとした栽培をしなければ良いものはできないということで、毎年栽培の始まりから終わりまでの間に5回の講習会を開き、しっかりと基本を確認し、慣れに流されないよう、一つ一つの作業の意味を考え、米づくりを突き詰めていく。これまで個々の生産者が蓄えていた経験や知識が共有化されることになり、地域農業全体の力となっていく。それが技術の底上げに繋がる。「レベルが上がり、トップとの差が縮まってきました」。これらの取組が品質のバラツキを抑えることになり、消費者の信頼を裏切らないものとしてブランドを強化していく。
 また、さらにブランド力を上げる事に役立っているのが、生産者の作る米を評価してランク付けし、それに応じた金額での買い取りだ。「トップの生産者に支払う額を1俵3万円にしたいというのが夢です」。今はまだそこまでは至らず、上は2万円半ばから、下は2万円を切る辺り。作るお米の評価が上がれば買い取り金額も上がる。等級別検査、食味計、栽培方法などを加味した総合評価で、主観的要素を省き、公平な評価で比較。それが生産者のやる気にもなっていく。
 主力の販売先となる道の駅川場田園プラザは年間180万人が訪れる観光施設。美しい田園風景の中に立地し、地場の特産物を豊富に揃え、強い集客力を保持している。その中の魅力の一つとなっているのが雪ほたかだ。互いに相乗効果を生み出し利益に繋がっている。この他にも村内には連携した取り組みが多数あり、雪ほたかの大吟醸、飲む米麹、おにぎり屋さんなど、川場村全体にとって、価値ある存在となっている。さらに村外の企業とのコラボもあり、服飾メーカーのJUNでは田んぼを一枚借り受け、そこで同社の社員が農作業に取り組む。収穫したお米はサロン米としてブティックに並べ雪ほたかの販売を行うなど多様な展開が進められている。この他にも、最近ではアメリカに進出し、ロサンゼルスのおにぎり屋さん、ニューヨークのお寿司屋さんで雪ほたかが使われている。
 現在生産量は3300俵ほどだが、村内にある田んぼの面積を考えれば、将来的に6000俵ほどが生産可能だと試算しており、販路拡大も含めてまだまだ可能性は大きいようだ。
 川場村が自主独立を選択し、自分たちで考え、行動し、発信した結果がここにある。村全体で危機を共有し、本気になったからこそ到達できたとも言える。その本気が新しい時代に対応できる進化を生み出した。今後の目標は自社栽培、直営店、加工場の運営など。中山間地の農業が生き残っていくモデルがここにある。
 美しい田園風景を何物にも代えがたい価値とし、それを守る取り組みは雪ほたかの生産そのものだ。そこにこの地に生きる生産者の“志と誇り”を感じた。守る志、自分の力で歩む誇り。それが村の暮らしを豊かにする。地域の農業を守るということは、考える以上にずっと重い。

土の中に地域の宝

幻のごぼう“はたごんぼ”で未来を紡ぐ」

取材先:和歌山県橋本市 農事組合法人くにぎ広場・農産物直売交流施設組合 組合長 岡本進

2017年3月号掲載 

 

 地方創生が掲げられ各地で様々な取り組みが行われているが、地域を活性化する一つの方法はその地に事業を起こすということだ。それにより利益が生まれ、人が集まる。それはある種エネルギーのようなもので、暖めれば水が沸騰するように、それまで停滞していた物事がにわかに動き出す。そして起こした事業が多くの者の利に適うのなら、これを存続しようとする動きが生まれる。それが時と共に朽ちていこうとしていた流れに抗う力となる。ではそんなエネルギーを呼び込むための事業とは。まず何よりもどんな価値を提供するのか、できるのかということが肝になる。余所になく、独自性があり、使う物に驚きや満足、豊かさを与えるような、それが事業の根幹。よく探せばどんな地域でも一つぐらいはどこかにあるはずだと、思うのだが。どうだろうか。


 

 
▲直売所▲復活した幻のごぼう▲太くて長いはたごんぼ

 

幻のゴボウ“はたごんぼ”を復活
 高野山への巡礼道は高野七口と呼ばれる七つの街道があり、その一つが昨年秋に世界遺産に追加登録された黒河道(くろこみち)。その道の始まり辺り、国城山の中腹に位置している和歌山県橋本市西畑には、“はたごんぼ” という特産物がある。長さ1m、大きいものは直径10cmにもなるゴボウで江戸時代から作られ、地域の歴史を記した“南紀徳川史”にはこの辺りのゴボウを『太く長くして中實して甘美この味ひ他に勝土地の名物なり』とその味を高く評価。戦後までは仲買人がいるほど作られ、名産として地域経済に貢献してきた。しかし生産には多大な労力と手間隙がかかり、次第に作り手が減少。みかんや柿などの果樹栽培に農業生産の主軸が移り表舞台からその姿を消した。それから数十年、農業を取り巻く環境が変化し、地域の高齢化が進み、地域農業の主力となった柿の単価も下がる中で“はたごんぼ”復活が図られた。そして生産からさらに一歩踏み込み、これをこの地域から提供できる“他では得難い価値”としての事業化が進められた。その中心となっている農事組合法人くにぎ広場・農産物直売交流施設組合の岡本進組合長(72歳)に話を聞いた。
 「太くて長いのが大きな特徴」と、普段、量販店などで見かけるゴボウとの違いは一目瞭然。太く逞しくワイルドな存在感に溢れている。しかし栽培されているのは一般的なゴボウ品種の“滝の川”。育む土壌に大きな特長があるのだ。「この辺りは砂地や火山灰ではなく粘土質の赤土です。そこに植えると土壌と抵抗しながら太く長く育っていきます」。加えて標高約200mほどの気象条件、大きな寒暖差、様々な環境が相まってここにしかできない地域独自のものが生み出されている。食味は「柔らかくて香りが良く、味が良い」。ワイルドな見かけとは裏腹に繊細な品質。高い商品価値を有している。
 一時生産が途絶えていたこの幻のゴボウ “はたごんぼ” 復活に取り組み始めたのは平成20年の事。「西畑の有志が立ち上がり、『幻のはたごんぼ塾』を開き、自家消費用に細々と生産をしていた古老の人達に作り方を教えてもらいました」。そして始まった“はたごんぼ”作りは徐々に規模を拡大し、耕作放棄地となっていた棚田の水田を再生して栽培されるようになった。「長年耕作していない放棄地は竹や灌木が生い茂り、それが3mほどにもなっていて、根を掘り起こして開墾し元に戻すのは、大変な作業でした」。しっかりとした排水対策も施し、平成28年は25aの栽培面積で2.5tの収穫量となった。
 種蒔きは3月の下旬。2粒ずつ畑に直まきしていく。それから収穫までの約半年間、気の抜けない日々が続く。「種をまいてから発芽するまでの2週間は毎日潅水しなければなりませんし、発芽したら虫に食べられることがないようにしっかり観察し、虫が出たら駆除。4月、5月ぐらいになると草むしりに追われ、間引きの手作業も大変です。半年間の間は本当に毎日目が離せない。それを怠ると良いものはできません」。その中で最も大きな労力を必要としているのが収穫作業。粘土質の土中深くへと伸び、しっかりと身を太らせたものを傷付けず折ることなく、掘り出さなければならない。昔は“はた(西畑)には婿にやるな”と言われていたそうで、機械などない時代の苦労は計り知れない。今、その苦労の幾らかは機械が肩代わりする。「ゴボウが植わっているすぐ横をユンボで深さ1mの溝を掘り、そこにゴボウを倒し、一本一本収穫していきます」。この他にも「トレンチャーを使用し、植える前に1mぐらい掘り起こして土を柔らかくして、その上に種をまきます」。収穫後の土作りでは堆肥を散布し、その時にはトラクタと堆肥散布機、ロータリーが活躍する。この機械化では和歌山県が実施した“企業のふるさと事業”を活用し、平成25年から井関農機協力のもと進められた。また耕作放棄地の整備でも土壌改良や排水対策などで同社が大きな力となっている。“はたごんぼ” 生産のマイナス要因となっていた“大きな労働負荷”が機械力を駆使することである程度取り除かれ、生産者にとっての商品の魅力を高めることになっている。
 生産の課題ではこの“大きな労働負荷”以外にも連作障害がある。「一般的には2年作って、4、5年あけます。本来は畑を回していかなければなりませんが、私たちが作っているのは山間の棚田であまり圃場に余裕がないので、できる限り同じ所で、連作障害が出ないように土壌消毒をしたり、土壌の改良を進めています」。現在使用中の畑は3年目。連作の影響はなく、収量は好調で豊作。今年4年目のチャレンジが行われる。

直売所を運営し、本格的に販売
 有志から始まった“はたごんぼ”は現在、農事組合法人のくにぎ広場が中心となって生産を行っているが、ただ、“はたごんぼ”を作るのではなく、収穫物の販売、加工も手がけ、それを商品として展開する直売所も運営。現在組合員は38名で、単なる生産から、事業の展開へと大きな役割を担っている。元々組合の設立は平成23年。それから“はたごんぼ”との付き合いが始まり、翌年からは仮設店舗にて土日だけの販売を始める。平成25年に組合は法人化を果たし、翌平成26年からいよいよ本格的な生産へと移行した。
 それと並行して地域では、集落の利便性を向上させ、高野山へ向かう新たなルートとしての紀の川フルーツラインの建設が進み、平成27年4月に開通。その時にこの紀の川フルーツラインに直売場を設け、そこを拠点に“はたごんぼ”の本格的な販売が始まった。
 また平成26年に和歌山県が優良な県産品を選んで推奨するプレミア和歌山において特に優れた産品に与えられる審査員特別賞を受賞。それを機に認知度も上がり売れ行きは好調。「選別してプレミア和歌山のシールを貼って売っているものは1kg1500円で店頭販売することができています」。この他、テレビなどで何度か紹介されることもあり「老舗旅館や人気のレストランなどから注文を頂くこともあります。また青空市場やショッピングモールなどでの出張販売もします」。和歌山県から神奈川県の湘南に出張販売をしに行ったこともあるそうで、自分たちで車を運転し売り子も行うなど、「大変です」とのことだが、新しい人との出会いもあるわけで、この事業に携わっているからこその充実とも思える。販売における課題は、需要に対する充分な供給量を如何に確保するかということ。山間にあって、生産に適した場所を確保をすることはそれほど容易なことではないようだ。
 販売拠点となっている直売所は“はたごんぼ” を栽培している畑のすぐ上にあり、紀の川フルーツラインを通る車が立ち寄り、ドライバーが休憩できるスペースとしてトイレと共に橋本市が整備した場所に、地域の人がお金を出し合って建設した。“はたごんぼ” の他、地域名産の柿や一般野菜、加工品を生産者から集めてここで販売している。また秋にはこの場所で“はたごんぼ”の収穫祭も開催。「シンガーソングライターなどを呼んだりしてイベントを開催し、橋本市近辺から人が来てくれる」。消費者との交流も積極的に行い、リピーターとなってくれる“はたごんぼ”のファン作りにも取り組んでいる。組合員が作り、組合員が運営する直売所には、随所に組合員の思いがあり、地域を愛する心を感じることができる。
 また、“はたごんぼ”は高野山への奉納も行っている。標高が高く、作物があまり育たない高野山へ参拝道を歩いて米や野菜などを運んだ“雑事のぼり”という古い風習を復活させたもので「17kgにもなる“はたごんぼ”を背負って世界遺産に登録された黒河道を8時間歩いて金剛峰寺へと届けます」。“はたごんぼ”の事業を通して農村にある文化の復活も果たした。

農業の事業化で地域を持続
 事業を成立させるためには収益の確保が必須。そのためには加工への取り組みがなくてはならない。そこを如何にうまく事業に取り入れるのか、魅力的な商品を如何に開発していくのかが、事業の行方も左右する。“はたごんぼ”の栽培では、様々な形状のものが育ち、規格外となったB品は加工にまわされる。そこで大きな活躍をしているのが組合の女性陣。様々なアイディアと粘り強さで多様な商品を展開。ごぼう茶を始め、ゴボウの中をくり抜いて作るお寿司、ゴボウ一本を使った巻き寿司、ゴボウ入りコロッケや炊き込みご飯などを製造し店頭で販売している。和歌山県立医科大学の研究調査によると“はたごんぼ”は一般のゴボウに比べて抗酸化作用やポリフェノールの含有に優れていると報告され、ゴボウを細かく砕いて作るごぼう茶は「腸の働きを整え、美容にも良く」、健康の増進が期待できると人気も高い。
 「加工品を作れば付加価値をつけることになり、収穫が終わった後も年中販売することができますので、これを積極的に進めていきたい」。ただ、加工には大きな労力を必要とする場面も多く苦労も多い。例えばごぼう茶なら、小さく刻んでいかなければならないが、“はたごんぼ”はその大きさのため、最初は手作業によってある程度の大きさにしないと機械に投入することができない。「刻む作業は大変です。長い時間やっていると肩がガチガチになる」と女性加工部員。労力の負担を軽減する機械化は、生産場面だけではなく、加工においても、強く求められている。
 「年々くたびれてくる」。山間の集落を基本にした事業であり組合員の高齢化は避けがたく、その言葉はこの事業全体を通した課題でもある。直売所は今年3年目。土日だけの仮設店舗から火曜日のみを休業とした本格的な営業に移り、その日々は充実でもあり、慌ただしくもある。「人員の配置にも苦労します。店番やレジはボランティアでやっている事も多い」。かかる負担を軽減する一つの方法は充分な収益を上げ、組合員に還元していく事。そのためには事業の発展が必要であり、「私たちの“はたごんぼ”の知名度を上げ、全国に展開したいと思っています」。名を知られることは携わる者の誇りになり、励みにもなる。それが事業を進める力にもなる。
 本格的な事業化は始まったばかりだが、この取り組みを通して県や市の応援を受けることになり、生産活動においては井関農機の協力なども得ることができた。何も始めていなければそういうことは起こらないわけで、事業を起こすことが、様々な人を集めることに繋がっている。今年は“地域おこし協力隊”として若い人もやって来る。地域が抱える最も大きな課題は高齢化だが、事業化が人を集め、また収益を生み、新たな就農者を生むことに繋がるかもしれない。世代を継ぎ、時間を超えていく力がそこにある。
 平場と異なり、中山間地では、農業が主となる産業であることが多く、そんな地域を持続するためには農業の活性化が必須となる。しかし、生産面だけの強化では十分とは言えない。もう一歩踏み込み、地域の農業を6次産業化も含めた事業にすることが大切だ。ただ農産物を作るだけではなく、販路を開拓し、認知度を上げるプロモーションを行い、廃棄率を下げ付加価値を上げる加工品の開発に取り組む。それらの活動を通して、収益を残して、人を養い、人を集める。うまくいけば持続性のある地域の形成に繋がる。
 そのためには何よりも起こした事業の成功が求められる。鍵となるのはその土地にある資源。その発見あるいは認識がすべての基盤になる。そしてその土地が育む魅力的なものをどのように活用していくのか。そこに知恵と工夫が求められる。“はたごんぼ”の場合、その独自性故に商品価値は高く、他のゴボウに比べて高い選好性を持っていると言える。ただ消費者にとってみればその資金を必ずしもゴボウに振り向ける必要はなく、代替となる野菜や食料は幾らでもあるわけで、どのようにして選択して貰うかは常に根本的課題だ。付加価値を高める方法は様々ある。その土地にしかないもの、その土地だからこそできるもの。棚田も、山手から望む景色も、黒河道も、そこに暮らす人達も、活用できる魅力はまだまだ多くありそうだ。高齢化が進む中で課題も多いが、その一つ一つに対して自ら主体的になりその可能性を探っていくことが、農業の事業化なのではないかと思えた。“はたごんぼ”が紡ぐ未来に豊かな農業の明日を期待したい。

耕作放棄地の眠れる可能性

「里庄まこもたけで地域農業を活性化」

取材先:岡山県浅口郡里庄町 農業委員会 廣末忠彦 会長 農業建設課 三宅卓志 参事

2017年2月号掲載 

 

 世界の人口は2050年に97億人に達するとも言われ、現在の73億人から計算すると33%もの増加となる。それに比べて世界の耕地は、塩の集積や砂漠化により劣化が進むところも少なくなく、栽培技術の向上による単収の伸びのみで、増大する食料需要に対応することは難しい。その中で我が国では耕作放棄地の増大が問題となっており、みすみす耕地を減らしていくことが、現状やむを得ないとしても、好ましい状況とは言えない。国土をどのように活用していくのか。日本は日本のやるべきことがあるはずだ。また2018年には生産調整が廃止。水田を如何に活用するかは農業の活力を左右する。現在行われている耕作放棄地の有効活用に明日の農業を探る。


 

 
▲田んぼで作るマコモタケ▲同好会の収穫作業▲里庄まこもたけ

 

耕作放棄地にマコモタケ
 耕作放棄地の再生事業が各地で行われているが、再生に伴う困難も多い。元々耕地に適さない場所から放棄地になっていくわけで、荒廃が著しかったり、高齢化などで人手が足りなくなっている所も増え、再生作業に都市部のボランティアなどの力を借りている。しかしこの事業、再生して終わりというわけではなく、その後どうやって維持、活用していくかが肝となる。放棄地には放棄地の、そうなった理由がある。それを覆していかなければならない。そんな状況の中、岡山県にある里庄町ではマコモタケに目をつけた。「耕作放棄地を解消しても放っておけば元の荒れ地に戻ってしまいます。放棄地は大体が湿地帯で水はけが悪く、そこで育てられる稲以外のものは何かと考えました」。岡山県浅口郡里庄町で農業委員会会長務める廣末忠彦さん(73歳)が取り組みの経緯を語ってくれた。
 マコモタケはイネ科の多年草で、水生植物であるマコモ(真菰)の茎に黒穂菌が付いて肥大化した部分。アクやクセがなく、淡白な味だが、「タケノコのようなシャキシャキとした食感が特徴で、ほのかに甘みを感じます」。中華料理では高級食材として使われており、どんな料理にも合い、食物繊維やカリウムが多く含まれている。
 分布は東アジアや東南アジアに広く、古くから食用や薬用として利用され、日本でも河川や湖沼の湿地に自生し、古事記や万葉集などにその名前が出てくる。また中国の古書では毒消しの効果があると記され、鳥がマコモタケの群生地に入って傷を癒すという伝承もあり、様々な魅力を持っている。見た目は稲を大きくしたようなもので、草丈は2mほどにもなり、がっしりとした株は20~30ほどに分けつして増え、そこから20~30本のマコモタケが収穫できる。育て方は「基本的には稲の栽培と同じで、水田に水を入れ、代掻きを行い、田植えをし、水を張ったままの状態で育て、9月下旬から10月に収穫します」。
 マコモタケは既に全国各地に産地があり、三重県菰野(こもの)町では名前の由来にもなっていることもあり、町を上げた取り組みを行い、福井県越前町では、昨年マコモサミットを開催するなど特産化に力を入れている。マコモサミットとは全国のマコモ生産者、加工業者、有識者などが一堂に会し、生産技術、販売流通、その他情報を共有することでマコモの普及に努めるもので、産地が持ち回りで開催地となり、第9回まで行われている。
 岡山県では瀬戸内市にも産地があり、里庄町ではまずはそこに視察に行き、マコモタケへの取り組みが始まった。里庄町はかつて、桃の産地としてよく知られ、「昔は桃で山がピンク色になり、里庄駅から汐留に向かって桃を積んだ60両編成の貨物列車が走っていった」ほど。しかし都市部近郊のベッドタウンでもあり、農業を継ぐ者が少なく高齢化が進展し往時の勢いは感じられなくなった。また圃場整備が進んでおらず、狭く不整形な田畑が多く、集約化も進まない。その中で耕作放棄地が目立つようになってきた。そこで里庄町では平成21年度から遊休農地解消対策として、耕作放棄地解消プロジェクトチームによるマコモタケの栽培実証実験を開始し、平成23年度から生産者による本格的な栽培が始められた。
 栽培地となった耕作放棄地は所有者から無償貸与の承諾を得て、農業委員を中心とする有志が再生作業を実施。20年近く耕作されていない土地が大半で、2mを超える雑木や草が覆い茂り、重機で根を引き抜いたりトラクタによる地均し行うなどを進め、荒れ地を田畑に戻した。マコモタケを植える前は草が伸び放題で、圃場の脇に通っている電車の姿も見えない状態。「車窓から見ても荒れた土地しか見えませんでした。それが今は1kmぐらい先まで見渡せるようになりました」。それまでの景観を変えた大きな変化を生み出している。現在マコモタケは2.3haの規模で栽培され、約8tの収穫量となっている。

町を上げてブランド化を推進
 この成果にまで結びついたのは、町を上げて取り組んでいることが大きい。里庄町役場農業建設課の三宅卓志参事(60歳)は取り組みの当初から参加し、事業の推進に関わってきた。「里庄地域全体で農家が高齢化しています。専業農家も少なく、農地の30%が耕作放棄地です。マコモタケの栽培によって解消されたのはまだほんの一部です」。それでも形のある確かな道程を歩んでいると言える。取り組み当初は、「農業委員会がベースとなっていましたが、農業建設課が関わり、平成24年ぐらいからは、企画課も加わり、取り組みが広がっていきました」。9月下旬から収穫が始まったマコモタケは“里庄まこもたけ”として、直売所や道の駅で販売され、町内を中心に近隣も含めた飲食店でも食べることができ、各店を巡ってマコモタケを味わうスタンプラリーも実施。「メニューに加えて貰えるように地道に働きかけてきた」成果が現れてきている。この他、JAを経由した市場出荷も行っている。旬の時期は町外から直売所にマコモタケを買いに来る人が訪れ、地産地消を中心としたしっかりとした需要が形成されている。
 その需要を後押しするためのプロモーション活動としてはイメージキャラクター“まこりん”の展開やイベントを通じた即売会を実施。またマコモタケを使ったレシピの開発も積極的に推進。地元山陽高校料理部による新レシピ開発やレシピコンテストなども行っている。加えて10月にはマコモタケを幼稚園、小・中学校で給食として提供し、子どもたちへの食育にも活用。小さな頃からマコモタケの味に親しんでもらうと同時に、各家庭への認知を広げている。
 これらの活動の中で役場が大きな役割を果たしており、生産においても、企業の参入などに対応できるよう生産マニュアルの構築などを行っている。
 現在地域内で生産活動を行っているのは、1団体、2個人、2企業。その中でいち早くマコモタケの栽培に取り組んできたのがマコモ同好会。廣末さんも所属し23人の会員でマコモタケを町の特産品にしようと大きな役割を担っている。平均年齢は70歳代半ばにもなるが、調製作業では女性陣も加わり、活気のある活動を行っている。「作業した後に皆でワイワイやるのが楽しい」。また、マコモタケの単価は、水稲に比べるとずっと高く、直売所に持って行けば1000円/㎏にもなり、それがやる気にも繋がっている。しかしこの活動を続けていくための後継者の確保は簡単ではないようだ。「60代でも勤めを退職してから入ってくれれば良いのですが、それがなかなか思うようにはいきません」。平均年齢は年と共に上がっていく。マコモタケの栽培は稲作のように機械化されていないため、田植え、収穫、調製は手作業。また除草剤が使えないため、年4回の草取りはロータリーをつけたトラクタを条間に走らせて埋め込んでいく。年齢と共に負担は重くなる。
 その中で中学校と連携した総合学習の時間でマコモタケの作付、収穫、出荷作業の体験学習を実施している。老いと若きの共同作業が労力の軽減に貢献し、また子供たちが将来を選択するとき、マコモタケ生産が選択肢の一つになることにも繋がる。こういった活動の積み重ねがマコモタケを地域のものにしていく。
 一方、企業による生産活動も大きな期待が持たれている。「本業はコンピュータープログラミングの会社とジーンズ加工の会社で、社員がマコモタケ生産に従事しています。その中から加工品など様々なアイディアが出てきています」と三宅さんの期待も高い。栽培はもとよりマコモタケを真空パックにして保存する加工品や“まこもバーガー”などを展開し、意欲的な活動で地域を引っ張る。

日本一の生産量を目指す
 今後の展開において定める目標は「生産量日本一になることです」と三宅さん。現在町ではまこもたけブランド構築推進協議会を立ち上げ、マコモタケの栽培がしっかりと持続できる事業になるように、銀行や商工会、農協、地元新聞社などを加えて、ブランド化を進めている。場当たり的な展開ではなく、先を見据えた展開に、生産量日本一への本気度がうかがえる。現在8tの生産量を3年後に20tへ、目標販売金額は3年後に1200円/㎏にする計画がある。「“里庄まこもたけ”を特産品として全国的に認知してもらいたい。そのために生産量が日本一になればと思っています」。その過程で、耕作放棄地の回復が進むということになる。またそれだけの生産量になれば、相応の利益が生み出されることになり、それが地域の活性化にも繋がる。
 生産量を向上させながら単価も向上させるということは、強固な生産体制を築いていくことに加えて、販路の開拓、付加価値の向上、的確なプロモーション活動などが求められる。そのためには高級食材として東京の市場を視野に入れることも一つだし、また付加価値の向上では、6次産業化の推進、食材としての魅力を引き出すことなどがある。岡山市で中華料理店を営むシェフが、オランダで開かれた中華料理世界大会に出場し“里庄まこもたけ”を使った料理で銅賞を受賞するなど、そのポテンシャルは高そうだ。プロモーション活動に関しては、よしもとクリエイティブ・エージェンシーの協力により、岡山県“住みます芸人”の江西あきよしさんを起用するなど、様々なPR活動を行っている。
 水田を水田としてそのまま活用できるマコモタケの可能性は高い。また、単価も良く経営的にも魅力的だ。近隣の町から里庄町にマコモタケの栽培を学びに来る若者もいるようで、水田の新しい形を垣間見ることができた。
 耕作放棄地は地域農業の活力を測るバロメータ。そこで利益を生むものが作れれば地域農業の活性化に繋がり、中山間地ならそれが地域の活力にもなっていく。しかし農業がなくてもやっていける地域ではどうなのか。そこに課題がある。なぜ地域で農業を残さなければいけないのか。本当の豊かさとは何かを考える問いとも重なるはずだ。“里庄まこもたけ”の取り組みにその答えの一片が潜んでいるように感じた。

耕畜連携で地域の力「良質な自給粗飼料でTMR」

〜肉用牛繁殖経営に貢献〜

取材先:鹿児島県 JA鹿児島きもつき、農業生産法人株式会社 肝付アグリ

2016年12月号掲載 

 

 農業を取り巻く環境が大きく変化する中、平成30年には生産調整も廃止され、個々の農家はより自由な経営と踏み込んでいくことになるが、見方によっては弱肉強食ということにもなり、その荒波を個人でかい潜っていくのは容易くない。幾ら奮闘としても巨大な流れの中で、刃折れ矢尽きるということもあるだろう。そこで助けになるのが力を合わせるということ。一つ一つは弱くても同じ方向に歩めば大きな力になる。しかし、野生にいる草食動物が力を合わせて肉食動物に挑むなんてことはないわけで、力を合わせるということはそんなに簡単なことではない。個々の間をどうやって繋ぐのか。今回は耕畜連携にその肝を探る。

 

 
▲粗飼料生産地▲集積地のWCS▲TMRセンター

 

地域の子牛生産を支援
 今回訪れたのは九州南端、鹿児島県大隅半島の中央部。平均気温が17℃と温暖で農業が盛んに行われているが、ここでも日本各地のご多分に漏れず、後継者が少なく、農業従事者の高齢化が進んでいる。その中で牧草作りに注力しているのが肝付町で活動する農業生産法人㈱肝付アグリだ。そしてそこで作られた粗飼料から発酵TMRを作り、地域の子牛生産に取り組んでいるのが鹿屋市に本所があるJA鹿児島きもつき。耕種農家と畜産農家の間を繋ぎ、地域農業の大きな力になっている。
 この辺りでは甘藷の栽培と畜産が盛ん。特に畜産が多く地域のJA鹿児島きもつきでは、黒牛の生産などが県内トップクラス。しかし、畜産に従事する者の高齢化が進み、農業を辞める人も多く、飼養頭数の規模拡大などは進んでいるが、繁殖母牛の頭数は減り、全体として減少傾向にある。現在、畜産農家の半分以上は65歳以上。ここ数年、全国的な子牛不足から、子牛の価格が高騰し、減少数にややブレーキが掛かっているものの、これからの10年を見ると大きな不安がある。そこでJA鹿児島きもつきで、取り組み始めたのが肉用牛繁殖経営における分業体制の構築。平成22年に家畜市場への子牛上場頭数の維持拡大を図るため、肉用牛繁殖雌牛1000頭の繁殖農場と哺育・育成施設をJA鹿児島きもつき、きもつき大地ファーム㈱、鹿児島県経済連が一体となって整備した。
 畜産における繁殖の部分は様々なリスクがあり、その経営は簡単にはいかない。まず根本的に出産そのものが命に関わる危険性を持っていることに加えて、出産は昼夜を問わず行われ、それに対応する従業員の苦労は多い。また経営的には、出産までに約10ヵ月かかり、その後 9ヶ月間哺育されて市場に出荷されることになり、収益が上がるまで19ヵ月間かかる。その上、出産が毎年続いていけば良いが、空白期間が生まれることもあり、中には1年以上の間隔となる母牛もいる。これだけのリスクを持って個人の畜産農家が、経営を続けることの苦労は想像に難くない。結果、後を継ごうとする者が少なく、高齢化で農業を辞めていくことになる。子牛価格の好調を背景に新規参入してくる者もあるが、その数が増えているという現状ではない。その中で、きもつき大地ファームの存在感は大きく、1000頭の繁殖母牛から、毎月80頭ほどが、きもつき中央家畜市場に出荷されている。
 そのきもつき大地ファームに餌を供給しているのがJA鹿児島きもつきのTMR(完全混合飼料)センターだ。TMRはTotal Mixed Rationの略で“家畜の要求する飼料成分を混合したもの”とされ、必要な栄養水準を持ち、不断給餌される。ここのTMRセンターでは1500頭相当のTMRを作ることができ、地域で生産された粗飼料に、地域特産の甘藷の加工に伴って農協のでん粉工場から排出されるでん粉粕や配合飼料が加えられている。TMRの約29%を占めているでん粉粕は地域の未利用資源でこれの有効活用に繋がる取り組みともなっている。また大半を占める粗飼料はTMRの63%ほどにもなり、これを地域から供給することで、農地の利用率を向上させ、地域農業の活性化にも貢献する。この3つの原料をミキサー車で撹拌し、圧縮梱包して約1ヶ月間発酵させたものが発酵TMRと呼ばれるもので、きもつき大地ファーム1000頭の母牛はこうしてできた餌によってのみ育てられている。
 このTMRの原料となる粗飼料生産を担っているのが地域の粗飼料生産部会で、4つのコントラクター組織からなり、最大の供給量となっているのが肝付アグリだ。

品質重視の粗飼料生産
 肝付アグリは今年10年目。この辺りでは昔から、農家が1頭、2頭の家畜を飼い、畦の草などを食べさせてきたが、その内、畜産農家というものがでてきて、20頭、30頭と規模を広げ、飼料作りが行われ、それと合わせ、輸入粗飼料の利用も進められていった。「設立の前に、400頭ほど牛を飼っていた農家さんが、夜遅くまで牧草の収穫をしていて、牛の面倒が疎かになり、作業が終わって牛舎に行くと出産間近だった母牛が難産で子牛と共に死んでいた。それを機に粗飼料を全量輸入に切り替えたという話を聞き、飼料作りという事業が成り立つのではと考えた」と肝付アグリの創業者、鶴田健一さん(58歳)が当時の様子を話してくれた。
 規模が大きくなればなるほど飼料づくりの負担は重くなる。そこで輸入粗飼料ということになるが、地元で供給することができれば、供与できるメリットは多い。ばらつきの無い品質や為替の影響を受けない安定価格、または防疫の面からも国産自給飼料の魅力は大きい。
 しかし、事業を始めた当初は「まわりの畜産農家さんから、そんな事業でどうやって経営が成り立つのかと言われ、まさにその通りで、最初の数年は苦労しました」。当時、農家は自前で飼料を作り、賄えなくなれば価格の安い輸入飼料を使う。少し時代の先へ行き過ぎていたのかもしれない。大隅半島の畜産農家をくまなく周り、「品質は良いね」と言われるものの、売上には結びつかなかった。苦しい時代が続く。
 しかし平成24年にJAのTMRセンターができ、経営が安定。「これでやっと救われたっていう気になりました」。現在は、イタリアンライグラス、エンバク、スーダン、WCS、稲わらを地域の甘藷農家と水稲農家の圃場を利用して200haの規模で粗飼料生産を手掛けている。従業員は鶴田さんを含めて4名。アルバイトなどが年間述べ200名ほど働いている。
 畑地の場合、甘藷の収穫が8月から始まり、収穫後、土地があき次第、期間借地を始め、翌年の5月一杯までイタリアンなどの牧草を生産する。「この辺りは焼酎用、でん粉用の甘藷を作る大型農家さんがいますので、その圃場を使用していきます」。水田の場合は収穫後の稲わら収集とWCS(ホール・クロップ・サイレージ)。WCSは作付から行う場合と収穫から行う場合があり、肝付アグリで生産する粗飼料の約半数がWCSになっている。地域ではWCSの生産が伸びており、「肝付地域にある水田660haのうち、300haちょっとがWCSになっています」。施策の推進もあり、水田の活用としてWCSを選択する農家が増えている。特にこの地域は畜産が盛んな事もあって肝属郡でのWCS生産は県内でも群を抜いて多い。
 粗飼料生産で気をつけていることはまず何よりも品質。「最初はたかが草だと思っていましたが、牧草作りは難しい。奥が深いです」。TMRの原料として最良な状態になるように試行錯誤が繰り返されている。肝付アグリの作業工程では「刈り取った後に、圃場で機械で撹拌して予乾し、水分を40~50%にしてから集草します」。でん粉粕と混ぜ合わせることなどを考えて水分量が調整されている。ただ圃場で予乾を行うということは、作業が天気に左右されるということでもある。「金曜日に牧草を切れば、火曜日か水曜日にロールにする。その間の月曜日に雨が降ると予想されていれば作業はできません」。望まれる品質を確保するためには苦労も多い。集草した草はロールベーラでロールにし、ラッピングマシンによりラップしてサイレージに。原料としてTMRセンターに搬入されるまで5ヶ所の集積地で保管される。最新の機械を導入し充実した機械力で200haの経営規模を効率よく作業している。また「普通の農家さんが機械を使う一生分を1年で使いますので、機械のメンテナンスも自分たちでやります」と、機械も含めた農業が展開されている。

連携することで地域農業活性化
 肝付アグリで作られた粗飼料はTMRセンターで繁殖母牛のエサとなり、きもつき大地ファームに供給され、そこで排出された糞尿は堆肥となり、再び肝付アグリへ。耕畜連携の綺麗な循環が作られている。「堆肥はマニアスプレッダーで10a当たり3t播き、硝酸態窒素などに注意した土作りを行っています」。また土地を借りて牧草を作っているわけで、その間にも連携があり、「刈取が終われば、深耕して綺麗に整地し農家さんに返します。農家さんは1回ロータリーすれば芋が植えられる」。後作の事もしっかり考えることが、事業のスムーズな展開に繋がるようだ。
 そういう心遣いもあって、経営面積は毎年増えていく傾向にある。特に宣伝などはしていないが、土地を借りてくれないか、WCSをするので協力してくれないかという農家が肝付アグリを訪れる。その中で課題になっているのは、畦畔の草刈。規模が拡大すればするほど、その手間は増大していく。また農地の分散も大きな問題。「平均して20a、30aの圃場が分散してあり、筆数にして400筆にもなる」。その移動と管理に大きな労力がかかっている。その改善を図るため、圃場管理にクラウドシステムの導入を進めている。さらに今後を見据え、人材の強化も必要になってくる。「私もずっと現場で作業できるわけではありませんので、次の世代を育てていかなければなりません。来年度から求人を出してみようかと考えています」。創業10年目を迎え、変化に対応した新たな形へ進化しようとしている。
 事業を始めた当初は、仕事も少なく「いつ潰れるのか」と不安を抱く日も少なくなかったが、「今は、農家さんがここをわざわざ調べてやって来てくれる。そして来年度からWCSを作りたいのだとか、相談してくれる。こういう時は誰かのために役に立っていると思え、地域に必要とされていることが嬉しいですね」。高齢化により農業を離れる人もいるが、農地の受け皿としての役割も果たしており、放棄地の抑制に繋がっている。
 「農業はやりようによっては面白い」。その一つの方法が連携していくという方法だと感じた。耕種農家と連携し、JAを通して畜産農家と連携している肝付アグリの現況にその証がある。耕種農家と畜産農家の間に入るということで、個々ばらばらにある農家を繋ぐことになり、一つの大きな力になっていく。その結びつきが農業を面白くしていく。鶴田さんの夢は「牧草の生産量で、日本一になりたい」ということ。それは連携の中で見る夢であり、その実現への歩みは、自社の発展に留まらず、地域の子牛生産量増加に貢献し、耕地の利用率向上にも繋がる。地域農業活性化の明日の形をそこに強く感じた。

ファイティング・アグリ・スピリッツ「中山間地農業の持続力」

〜中山間地で“いちご”栽培〜

取材先:くろしお苺生産販売組合 杉浦 仁組合長

2016年11月号掲載 

 

  野生の世界は弱肉強食。人の世でも往々にしてそれに倣い、歴史を見ればあちらこちらに。信じるものの相違や限られたものを巡って絶えず争いが起きる。事後顧みて悔い、弱き者に手が差し伸べられてはきたが、世界はどれほど変わることができたのか。見渡せば未だ昔の話だとばかりは言えない。その中で弱い者が見捨てられていく。生き残るためにと、勝つためにと、強い部分が残され、弱い部分が淘汰される。相対的な比較の中で例えば日本農業が、地方が、小規模農業が、時に置き去りにされるものに加えられる。取り残された者はどうすれば良いのか。座して朽ちるのを待つしかないのか、それとも闘うのか。生き残りの方法を探る。

 

 
▲中山間地で栽培▲まりひめ▲栽培ハウス

 

中山間地で“いちご”栽培

 ファイティング・アグリ・スピリッツ。今回訪れたのは和歌山県にあって、陸の孤島とも形容される那智勝浦町。その海岸から少し山手に入った旧太田村近辺で、小規模ながら“いちご”の生産地が形成されている。その主体となっているのが“くろしお苺生産販売組合”で、その組合長が杉浦仁さん(42歳)。就農10年の新規就農者で高齢化が進む地域にあって期待の若手。中山間地で農業を持続する難しさやその可能性を聞いた。

 那智勝浦町は遠い。「例えば東京に行くのなら沖縄の人の方が速いかもしれない」。紀伊半島の突端、串本町の東にあって、高速道路はいまだ繋がらず、辿り着くには深い山々の連なりを延々と超えていく道か、一部熊野古道とも重なる海岸線を縫うように走る道しかない。「県内を移動するのにも大変です」。当然大消費地からは遠くなり、農業においては、鮮度からも輸送コストからも不利となる条件不利地。また海岸線からはすぐに山が連なりいわゆる中山間地と呼ばれる地域となる。集落では農業が行われているが、平坦部が少なく、不整形地が多く、規模を拡大する農業は難しい。結果、後継者として集落に残る者は少なく、「もうそろそろ限界集落です」。集落を行けば、荒れた圃場や耕作放棄地が目につく。

 そんな中山間地で、地域農業の持続を図る鍵となっているのが“いちご”だ。この地でいちご栽培が始められたのはずっと古く、生産組合は45年以上前に立ち上げられていて、恵まれない土地条件の中、少しでも付加価値の高いものとして生産が続けられてきた。気候的には黒潮の影響を受け温暖で、日照時間も長く冬場の晴天が多い。「冬場でも比較的暖かいので、こちらでは、ハウス内を無加温で栽培することができます」。そんな優位もあって、当時兼業農家のお母さん達が、パートに行く替わりにと5aほどのハウスを建てていちご栽培に携わり、一時はそこら中にハウスが立ち並び、遠くは大阪の市場にも出荷し1億前後の売上げがあった。しかし5aのハウスでは農業を仕事として継いでこの地に残ると言うことは難しい。後継者がなく、農業従事者の高齢化が進み、規模がどんどん小さくなっていった。

 そんな中で就農したのが杉浦さんだ。「もともと勝浦で建設関係の仕事をしていましたが、平成18年に就農しました」。農業を始める前には町議会議員も務めるなど、地域のために何かできることはないかという思いは強い。その活動の中で「地域農業の現状を知り、視察もしていて、農業が面白いと感じました」。外で汗して働く事に性分が合っているということもあり、農業の世界に飛び込んだ。しかし「いざ農業をやってみると大変でした。だけど後には引けない。手応えを得るまでに3年ぐらいかかりました」。外から見るのと、実際にやってみるのとでは大きな違いがあったようだ。当初はまず取り組みやすい葉物野菜ということで、ネギを手掛けていたが、3年目ぐらいに「いちご農家さんが辞めるということで、施設などを引き継いで、いちごに取り組み始めました」。


地産地消で“まりひめ”を展開

 杉浦さんは現在、いちご20a、ナス10aを経営。力を入れているのは和歌山県のオリジナル育成品種のいちご“まりひめ”。“章姫(あきひめ)”と“さちのか”を掛け合わせたもので、余韻が残る甘味と広がる香り、ジューシーな果汁が特長。「美味しいですよ。全国的に知られているものより美味しいと思います。大粒で形は綺麗な円錐形、実は柔らか」。この地では平成11年から導入されている。TVでも取り上げられたことがあり、流通量の少なさから他の地域では簡単に手に入れることができない希少価値のあるいちごとなっている。「農協を通した共同出荷で新宮の公設市場に出しています。量は少ないのですが、取引単価は高く、“あまおう”の次ぎぐらい」。消費者の評価も高く、商品価値の高い農産物を手がけることが、条件不利地で農業を続ける大きな力となっている。

 まりひめは和歌山県下の各地で作られているが、那智勝浦町のある東牟婁郡では、くろしお苺生産販売組合が中心。ただ現在組合員は14件と規模は小さい。組合長の杉浦さんは組合員の中で最も若い42歳。「年長の方から、これからは若い人に任せると後を託されました」。期待を背にこれからの地域農業が模索されている。

 その中、現在、いちごはかつてのように大消費地に出荷することはなく、近隣にのみ出荷されている。「ネットを使って東京にでも売ってはどうかと友達に言われますが、僕は地元の物は地元で食べてもらうのが基本だと思っています。地産地消が農業を長く続ける秘訣ではないでしょうか」。地域農業を持続するための一つの方法がそこにある。地元の人に愛される商品は確実な需要が見込め、収益の安定化に貢献する。また品質が高ければ、価格的に量の少なさを補うことができる。他の商品と差別化して、如何に愛されるものを提供するかということがポイントだ。まりひめで言えば、その高い食味とオリジナル品種で余所では買えないという希少価値、加えて生産地から消費地までの近さによる鮮度の良さがあり、美味しいものを最も美味しい状態で提供することができる。まだこの地での栽培が始まって7年しかたっていないが、地元では少し高くてもそれに見合うものとしてしっかりと受け入れられているようだ。「地元を一番大事にしていく」。このスタンスのもと、専業農家としての地歩をしっかりと固めている。薄利多売なら大きな商圏が必要となるが、少量でも他と比べて鮮度の良さ、味の良さなど、品質の高さがあるのなら、小さな商圏でも充分やっていけるようだ。

 その中で今課題となっているのは、個々の生産量を如何に上げていくかということ。高齢化の中辞めていく農家もあり、それを引き継いで生産するという話もある。杉浦さんの場合、労働力のメインは奥様と2人。加えて「いつも来てくれるパートさんが1名。臨時の方が2名。70歳を超える超ベテランです」。この陣容で現在の20aがほぼ限界になっている。いちご栽培は手間がかかる。まりひめの場合、炭疽病などの心配も多い。またパック詰めでも、傷みやすい柔らかなものを、大きさや品質を見極めて詰めていかなければならず、作業量は多く、労力が必要となる。さらにこの辺りは「全国でも3位に入るぐらいの、台風の通り道。台風対策は大きな課題です」。対策としてはビニールを巻き上げたり、剥いだりして、ハウスが潰れないようにする。中にはいちごが植えられているが、それ以外に対策はなく、後は、傷がつかないように、防風ネットを掛けるだけ。「それ以上はどうしようもない」とこの地域ならではの苦労がある。

 その中で、いちごの生産量を増やすのなら、更なる省力化、効率化を進める必要がある。そこで杉浦さんは土耕から高設栽培への移行を進めている。「今は高設が6割。体への負担が違います」。その上で秀品率を上げていくことも必要になってくる。それらを進めながらさらに栽培面積を拡大するのなら「雇用も考えていかなければならないと思っています」。産地は今、新たな段階に差し掛かろうとしている。


地元に働ける場所を作る

 まりひめは「子供が実家に戻ってきた時に、お土産として持たせるものとして売れています」。少しだけ上等な日用品という位置付けだろうか。一定した需要が根づいている。しかし、まりひめの名前は知っていても、実はそれがどこで作られているかを知らない人も多いとのこと。「産地の認知度は低く、和歌山でも農業が盛んな紀北や“くろしお”の名前から四国で作っているのかと思っている人もいます」。そのため今後は、地元ブランド定着のプロモーション活動にも力を入れていきたいとしている。「組合のキャラクターとしていちごの着ぐるみの“まりりん”を作りました」。それを持ってこれからは地域のイベントや祭りに積極的に参加したいとしている。農産物と産地を合わせてしっかりと認識してもらえれば、産地としても選んでもらえるようになる。それは地域農業を持続する大きな力になる。この他、観光農園を始めて地域に集客したり、まりひめを使った商品の加工所を作る計画やそれらを地域で提供するカフェのアイデアもあるようだ。

 それらを実行に移すには、地域のまとまりが必要だが、中山間地という農業的には決して恵まれない地域にあっては、なおのこと組合員の「団結力は高い。人数も少なく、もう家族みたいです。助け合おうという気持ちが強く、病気が出たら苗を無償で提供したり、ビニールの張り合いも組合でやっています」。

 また平成23年には、台風12号がもたらした豪雨で紀伊半島に甚大な被害がもたらされたが、「この辺りでは、太田川が氾濫し付近一帯は床上浸水。僕の所も床上1m。その時ハウスも全部水につかり、既に幾らか植えていたいちごの苗は全て炭疽病。そのシーズンは殆ど利益がなく、復旧作業のバイトで凌ぎました」。自然は時に容赦がない。しかし農業を諦めることなく、「農業が好きです」という気持ち、そして「郷土愛が沢山あります」という地域に対する愛着で乗り越えてきた。組合員も同じ状況を乗り越えてきたわけで、この地で、農業を営んで暮らしていくのだという強い思いを感じた。

 農業を巡る環境変化の中、競争力を強化しようと様々な施策が設けられ、恵まれた条件の所では大規模化による生産コスト削減、収益確保などが進められているが、その流れから取り残されていく地域も少なくなく、特に中山間地域では地域農業の持続が難しくなっている所も多い。その中で、この地には、状況に対して闘う意志があり、地産地消をもとにブランド農産物を展開する闘う方法があった。

 杉浦さんには中学生の子供がいるが、これからの農業に対する想いは、「その子に地元でも仕事はあるなと思ってもらえるような農業を目指したい。農業で食べることができ、この地で暮らしていけるような、農業で地元に働ける場所を作りたい」。それが地域を存続させることにも繋がる。豊かな自然、働く場所、助け合える仲間、そんな魅力的な地域が少しでも増えることを願う。



女性の視線が農業を変えていく

取材先:愛知県碧南市 鈴盛農園

2016年9月号掲載 

 

  男と女は違う。物の見方、考え方、感じ方、対人関係のあり方。楽しみ方にしても、例えばお洒落をして買い物に出かけ、友達とおしゃべりを楽しむ。お酒を飲みながらスポーツなどの勝負事に熱くなる。女性は日常を楽しみ、男性は日常を離れようとする。優劣を付けるようなものではないけれど、そうやって互いに年を重ねた末に、平均寿命は女性の方が勝っている訳で、生物学的には女性が勝者と言えるのかもしれない。過去、男性中心で営んできた日本農業が行詰まっている。それを打開するためには中心メンバーを変えてみるのも一つだ。女性の存在が大きな鍵となる。今、農業女子に大きな注目が集まる中、彼女達の視線の先に農業の明日を探る。

 

 
▲鈴盛農園▲直売所の商品棚▲女性農場長の鈴木薫さん

 

“これからの農業”を実践

 “農業で活躍する女性の姿を様々な切り口から情報発信し、社会全体での女性農業者の存在感を高め、併せて職業としての農業を選択する若手女性の増加を図る”としているのが、農林水産省主導の農業女子プロジェクト。これに参加しているのが鈴木薫(30歳)さんだ。夫の啓之(32歳)さんが代表の鈴盛農園で農場長を務めている。互いが役割を果たし、相手の影響を受けながら成長を重ねていく。啓之さんが見つめる農業の明日、薫さんが感じる農業の豊かさ。それらが交わって織りなす形に、農業のこれからの姿が見える。

 鈴盛農園があるのは愛知県の碧南市。「農業が盛んな場所でニンジンの指定産地。後継者のいる農家も多く、160戸ぐらいが農業を行っています」と、地域の概要や農園の取り組みについては、啓之さんが教えてくれた。

 現在は2.1haの農地で露地野菜を少量多品目で年間約30品目栽培。メインとなるのはニンジン、タマネギ、ジャガイモ、サツマイモ、里芋で、有機質肥料を使い、無農薬に近い減農薬栽培を実践している。販売ルートは「5割ぐらいが道の駅などの産直施設で、今は県外のものも合わせて20店舗ぐらいに卸しています。残りは仲卸、インターネット通販、農園倉庫で行う“ハタケマルシェ”などの直売。その他、東京などのレストランにも販売しています」。生み出される野菜はどれもこれも個性豊かで、祖母のりりさんの名前にちなんだ“スウィートキャロットリリィ”、オレンジ・赤・黄・紫・白・黒・ベージュの7色を持つ“しあわせのカラフルにんじん”、玉葱ステーキに合う“素敵(ステ〜キ)なたまねぎ”、有機質肥料をたっぷり与えた“贅沢ポテト”、百年前から受け継がれた種芋で育てた“百年里芋”など。高い品質と共に、農産物に物語があり、他の何かでは代替できない付加価値でブランド化を展開している。その農産物の品質向上において、大きな効果を発揮しているのが鈴盛農園独自の“塩農法”。「実が大きくなる時期に、塩水を畑に散布することで、農産物の糖度を上げています」。フルーツトマトなどは塩化ナトリウムを入れて糖度を上げる取り組みも行われており、「農産物のブランド化を図る上で、甘くて食べやすいニンジンを作ろうと思い、色々調べていて塩の力に行き当たりました」。碧南市の南東にある三河湾で幻の塩と呼ばれる“饗場塩(あいばじお)”を作る鹹水(かんすい)を真水で薄め、海のミネラルと共に海藻エキスなども加えて散布し、他にない農産物を生み出している。この取り組みは平成22年度の愛知青年農業者大会において発表され最優秀愛知県知事賞も受賞するなど、農案物に付加価値を付ける方法として高い評価を受けている。

 そんな農業を実践している鈴盛農園は平成24年4月に設立。自動車関係のサービス業で働いていた啓之さんが25歳で新規就農を決意し、愛知県の農業大学校、地元の生産法人を経て、祖母が持っていた20aほどの農地を引き継ぎ、28歳の時に独立就農を果たした。農業に携わりはじめて今年で8年目。“日本の農業をカッコよく”をテーマとして、現在は生産の他、農産物の加工事業や、加工プロデュース、イベント出店なども行い、それに加え啓之さんは全国農業青年クラブ連絡協議会の第61代目会長を務め、安倍首相との官民対話や小泉自民党農林部長が主導する会議に参加するなど、わずかな年月で“これからの農業”の形を示す大きな存在感を発揮している。


子育てと農業を両立する女性農場長の仕事

 その啓之さんの行動に引っ張られる形で農業の世界に足を踏み入れたのが妻の薫さん。「最初は、農業をしたいと思っていませんでした」。元々ペットショップでトリマーの仕事に携わり、結婚、出産で仕事をやめていたが「復帰する可能性もありました。それが、思ってもみない方向に進むことになりました」。ニンジン作りの手伝いを始め、啓之さんの独立就農2年目、2人目の子供が1歳の頃、本格的に農業を始めることになった。「最初の1年目は分からないことばかりで、とにかく厳しくて、叱られながら、毎日泣いていた感じです」。笑顔で当時の様子を教えてくれたが、言葉の運びに、ニュアンスにその時の苦労が伺えた。楽しみや遊びのためにやるわけではなく、これで食べていく、そしてもっと先を目指していく。まだ何者でもなかった現状と思いの間にあったギャップを超える苦労だったに違いない。ただ「夫が向かう先を常に示していました」。それは歩みが止められないと言うことだが、涙には意味がありそれが報われる場所があるということでもある。啓之さんが思い描いていた農業が少しずつ形になる中で、日々を乗り越え、実力を蓄え、農場長の役割をしっかり担えるようになっていった。「今は農業が面白い」とスタッフやパートも抱え、積極的に営農に取り組んでいる。

 農場長の仕事は多岐に亘る。啓之さんは農業に関連した会合やイベントなどで農園にいないことも多く、その時は「全てお願いしていますので、生産現場では欠かせない存在です」と啓之さんの信頼は厚い。圃場の見回り、スタッフの作業指示、直売所の管理運営、作物の管理作業、収穫などなど。「作付けの計画も考えます」。薫さんの思いが農園に広がる。

 中でも楽しい仕事は「畑の見回りです。畑毎に様子が違い、その変化、作物の生長を見るのがすごく楽しい」。常に変化して止まない自然を相手にする仕事の喜びと言えそうだ。「外で働くのが面白い」。圃場での栽培管理では自ら耕うん機を駆って、中耕作業に取り組む。使用しているのはホンダのガス耕うん機ピアンタFV200。これを女性向けの専用機として使い、軽快な作業を行っている。「使っていて気持ちの良い機械です。操作が簡単で負担が少なくすごく楽。パワーもあります。少量多品目の農業では重宝します。それに可愛いし、女性なら使ってみたいと思う」と、女性に合った農機が農作業の大きな力になっているようだ。またこの他、ホンダの小型耕うん機F410が活躍している。

 農機を使用して肉体労働をこなし、作物の状況を把握してスタッフに指示を出すなど、男性農家と代わらぬ働きをする薫さんだが、女性農家ならではの悩みもある。その一つが子育てと仕事の両立。この世界でも他の業種と同じで、如何にその問題を解決していくかは、社会で女性が活躍する鍵ともなる。特に新規就農者を増やそうと思えば、夫婦で働く例は少なくないわけで、重要なネックと言える。薫さんは現在、7歳、4歳、0歳と、3人を子育て中。家で面倒を見てくれる人はなく「仕事中は保育園に預けて、その送り迎えもしています。ぎりぎりまで働いて家庭のこともしなければなりません」。女性農場長の負担は重い。

 また女性農家としては、服装にも気を遣う。農園周辺では非農家との混住化も進み、作業を見られることもあれば、直売所でレジに立つこともある。また「着替える間もなく保育園に迎えに行くこともあります」。見られても恥ずかしくない格好で農業をする。それは社会との繋がりをしっかりと意識していることでもあり、“カッコいい農業”に近づく一つの方法とも思えた。


生活者の視線を農業に

 女性はコミュニケーション能力が高いと言われ、鈴盛農園でも薫さんの存在が地域での対人関係を円滑に進めている。「一緒にいると、付近の農家がどんどん喋り掛けてくれる」と啓之さんの実感。また仕事が丁寧、袋詰めが綺麗など、男性農家に比べ得意なことも多い。その背景に生活者の目線を男性よりしっかりと持っているという事があるようだ。「袋詰めは店先で実際自分が手に取りたい物を想定しながら作業します。また形が悪くても味が変わらない物など、値段との関係でどこまでだったら許せるのか、その度合いを、買って下さる人と同じ視線で、感覚として分かります」。生産者が実需者でもあるわけで、より買い手の気持ちになった商品展開が可能となる。ニンジンの生産では独自の農法で糖度の甘い物を作っているが「子供が食べてくれるものを考えれば食べやすくて甘い物が良いなと思っています」。その生産に生活者としての気持ちが広がっている。その上で「これからは、マイクロキュウリ等、可愛いものを作りたい」。実需者の指向と自分の気持ちを重ねて感覚的に捉える。また加工においても、同農園の代表的製品である“にんじんジャム”は薫さんの発案。「毎日ニンジンを食べているのに、まだまだたくさんあって、それで何か出来ないかなと思って作り始めました」。有る物を無駄なく使う。生活者の感覚が活かされている。

 啓之さんは前職のサービス業での経験を活かし、需用者の立場になって商品展開を行い、カラフルニンジンの導入も進めたが、それでも「最初は自分だけでやっていて、何でもかんでも男っぽいものだったかもしれません」と自戒する。2年目に薫さんが農園に入ってきて、「常に意見を聞けるようになり、段々と実需者の女性に歩み寄ったものになった」。様々なことを薫さんというフィルターを通すことで、生活者の目線を真に感覚として取り入れた農園に変化していった。「世に出す前の門番です」。それが実需者の共感を呼ぶことに繋がっている。男性的なものが女性的なものを取り入れることは、あるいはその逆もまた、成長の一つの過程といえる。それが変化する社会に対応するための方法でもある。農業が女性の力を取り入れていく意義がそこにある。

 農業の世界に入ることは、薫さんの人生にとって思わぬ展開だったが今では「これが本当の生活だという実感があります」と気持ちが変化している。「畑に出て、太陽の下で働いて、野菜を作って、それをご飯にして食べる。その繰り返しで季節が変わっていく。そこに本物の生活が持つ厚みがあり、豊かさがある」。薫さんの語る情景に農業の持つ大きな魅力が伝わってくる。

 啓之さんの目標の一つは「農業をもっと身近なものにする」こと。その上で、「観光農園や直売所を集約した農業テーマーパークの様なものに辿り着くかもしれません」。その中で展開されるものの根底にはきっと薫さんが感じるような農業の豊かさがあるに違いない。本物の生活、現実の実感、そのようなものを伝える施設の価値は決して小さくない。

 女性農家は単なる労働力ではない。経営に参加することで、経営の質を変えていく。相克する者が互いの利点を取り入れ、乗り越えていくことで、新たな成長へと至るように、日本農業が女性農家を取り入れることで、持続性のある明日の農業へと変わっていく。そんな景色が目に浮かんだ。


“なると金時”のブランド力「生産者が競い合うことで強いブランドをつくる」

取材先:JA大津松茂 松茂支所甘藷部会 土佐晃 部会長
2016年8月号掲載

 

  “ブランド”と言っても様々な意味合いがあり、一口でその全容を指す事はなかなかできないが、プレミアムであることは、ブランドが持つ一つの側面には違いない。価値が高く、類似品から抜きん出て、独自性があり、他の何かで代替することが難しいもの。平凡なものと一線を画して区別されるもので、そうなればある種の“お宝”と言っても良いかもしれない。それを持続的に提供する事でしっかりとしたブランドが形成されていく。それは農産物でも同じことで、各地でプレミアムを提供する様々なブランドが形成されている。そこに日本農業が生き残る一つの道がある。

 

 
▲生産地▲移植作業▲なると金時

 

プレミアムブランド、なると金時

 “できれば高く売りたい”。誰もがそう思う。せめて費やした時間、労力に見合うだけのものを得たいと。しかしままならないのが現実で、一般的な農産物は基本、他の何かと代替可能で、供給サイドの意向だけで値段を上げていくのは難しい。また、日本経済がさらされてきた長年のデフレ傾向もあって、需給状況によって短期的に上がり下がりはするものの、長期的には約20年前に60kg2万円を超えていた米価が凋落していった軌跡に沿うようなものもある。しかしその中でもブランドを形成し、他から抜き出た価格で取引されているものもある。徳島の“なると金時”もそのひとつだ。その秘密を生産現場に探る。

 「なると金時は徳島県北東部に位置する鳴門市、北島町、松茂町、徳島市で生産されたもので、徳島の温暖な気候と海のミネラルをたっぷり含んだ砂地によって育まれ、高い糖度と栄養を含んでいます」。JA大津松茂の松茂支所で甘藷部会の部会長を務め、家族3人で約2haを経営している土佐晃(60歳)さんに、なると金時について、その実際をお聞きした。

 この地での甘藷栽培は徳島県鳴門市で明治初期に既に200ha以上を超え、昔から海砂が堆積していた鳴門市里浦地区や大毛島地区が中心となって生産していた。その後、昭和29年に、現在なると金時として栽培されている高系14号が、徳島県で試作され、昭和32年頃から普及。昭和46年度から米の生産調整政策が本格的に始まると、海砂を客土して水田を砂地畑に造成し、産地が周辺に拡がっていった。土佐さんが農業を営む松茂町ではその頃の5年ほどで栽培面積が約4倍に拡大した。また昭和56年頃に現在の系統の始まりとなる表皮の赤いものが優良系統として選抜され、これを“鳴門金時”と呼ぶようになった。その後「平成19年には地域団体商標制度に基づいて、“なると金時”の名称になりました」。

 また松茂町は他の産地に先んじて徳島県農業試験所が実用化した「甘藷苗のウイルスフリー化にいち早く取り組んだ」。ウイルスの防除が行えると同時に芋の肥大がよく、赤みが増し「表面が真っ赤っかになる」。この系統を他のものと差別化するために平成7年に“松茂美人”として商標登録を行い、現在はこの地で生産されるさつま芋のブランド名は“なると金時 松茂美人”となっている。

 「今では全国のさつま芋がウイルスフリーとなりましたが、畑、気候によって出来るものは様々。我が家で作っているものを山に持っていって育てたら、水分の多いべちゃっとしたものになります」。徳島のこの地域が持つ特有の気候風土のみが “なると金時”を育めるということのようだ。「この色、艶、形は余所で真似ができない」。現在、松茂町では約200ha、徳島県全体では1000haほどの栽培規模で、さつま芋の生産は全国5位。年間約2万4000tが栽培されている。

 なると金時の特長は、艶のある赤紫色の外観と上品な甘さのあるほくほくとした肉質。「市場に行って並んでいるのを眺めると、私たちの芋は光っています」と土佐さん。まるで宝石について語るかのようだ。芋の内部は薄く黄色みがかり、粉質で、口に入れると品のある甘さが広がる。見た目と味わい、それらが合わさって、他のものでは代え難い上質さを醸し出している。

 近年、そのなると金時に続けとばかりに、さつま芋の生産を導入する産地が増え、また安納芋や、紅はるか、シルクスイートといった新品種がその特性を前面に出して台頭してきたが、依然なると金時のブランド力は高く、取引単価は他のライバルを引き離している。「さつま芋の中では一番です。これだけの単価を出せるものは、なると金時の他にありません」。市場での信頼は厚い。


葉っぱと話をする高い営農技術

 そのブランドを支えている力が、知恵と工夫を積み重ねてきた日々の営農の中にある。

 「大体のスケジュールを言いますと私の所ではツルを4月7日に定植し、7月7日の七夕から収穫開始。それが12月24日のクリスマスまで続きます」。この他にも大根を手掛け、さつま芋を収穫した後、9月ぐらいから大根を植え付け、12月末から2月まで出荷。大根と芋の出荷時期が重なる12月が繁忙期となるが、効率的な畑の活用ともなっている。

 「栽培で一番難しいのは植え付け。手作業で1反約3000本、水平ざしというやり方で植えていきます」。ツルの植え方により、芋ができる数や大きさが変わってくるので、手作業の重労働をこなす体力と共に、長年の経験と技術が要求される。「早く掘るものや遅く掘るものなどがあり、微妙に間隔を1㎝単位で調節していきます」。他のさつま芋の産地では斜めざしというやり方で、一反に5000本を植えるところもあり、それを考えると明らかに量より質を重視した戦略であることが分かる。

 「さつま芋は地面の中に出来ますので、良い芋かどうかは掘ってみないと分からない」。それがさつま芋の難しいところでもある。定植から収穫までの3ヶ月の間、どのような気候にさらされるのか。またどのような土質で育てられるのか。「畑のpHは皆違います。6.5~7.5ぐらいまでがベスト。貝殻が入っている所は何年も貝殻が溶けていってpHが上がってしまい、土壌改良剤などが必要になります」。隣の畑とこちらの畑ではできが違うという事だ。それでも上の葉っぱだけを見て、その色などから中の様子を考えなければならない。「葉っぱと話ができなければダメ」。そこにブランド農産物を手がけるプロ農家としての技量が問われる。ただ、完全にコントロールする事はできない。人事を尽くして収穫という天命を待つ。

 収穫では機械が活躍している。まず収穫に邪魔となるツルを処理機によって芋と切り離し回収していく。その後に掘り取り機を畑に入れ、芋を掘り上げていく。土の中からは大きさや形もまちまちな様々な芋が現れる。「作る方としては大きくて形の良いものを沢山作りたい」。その思いに基づいた日々の営みがどこまで反映されたのか。掘り出して初めて価値が分かる。まるで宝探しのようでもある。「とびきりのものは、1~2割」。この後選別、調製して出荷となるが9月、10月くらいからは貯蔵を始め、収穫が終わった後も5月いっぱいぐらいまでは出荷することができ、収入の安定化が図られている。


価値を高め、市場で一番の単価

 ブランド品としての信用を守るためには、高い品質を安定して提供することが重要。なると金時の場合、比較的似たような色形のものが多数できる農産物とは異なり、多くの項目を設けて選別し等級分けすることが大切になる。

 まずは形状として、長さ、曲がり程度、二次成長の程度、肌の状態があり、色沢として、艶、色のりがある。合わせて6項目の外観品質があり、それがそれぞれ特秀、秀、優、格外の4段階に分類される。それと合わせて大きさの選別があり4L、3L、2L、L、M、S、2Sの7段階が設けられている。単純に掛け合わせれば168通りもの分類となる。それらを一個一個、人の目によって形状、色つやを判別し、重さを量り、ひげ根の処理を行い、高圧洗浄機で表皮を綺麗にしていく。「水をかけてブラシで磨けば、表面が真っ赤っかで、てかてかに光る」。細かな選別を行い、磨き上げていくことで価値を高め、市場で一番の単価へと結びつけている。その手間暇が農産物をブランド化していく。露天で掘り出してきたダイヤの原石を等級分けし磨き上げていくかのようでもある。

 販売は農協を通した市場出荷となっているが、特長は個選の個販を行っている所。「農協から先の出荷先について、自分たちで決めています。例えば特別良いものばかりを箱詰めして、高値で取引されている市場へ送ったり、市場が得意とする、長めであったり、丸いものであったり、そういう形状を集めて地域の求めに応じたりします」。荷を積めた箱には生産者番号が記載されているので、市場と個人がそれぞれ個々に信用を築いていくことになる。「真面目に誠心誠意取り組んでいかなければなりません」。それが、なると金時全体のブランドイメージを高めることになる。また、売り先を自分で決められるということは、出荷した市場で同じ地域の生産者同士の競合が起こることもある。そうなると「ライバルは隣人」。その関係は優劣を競うという事だが、互いに切磋琢磨するという事でもあり、少しでも良い物をと、栽培技術の向上へ結びついている。それは与えられた技術ではなく、自らの意思で獲得していったもので、ブランドの強さとも言えそうだ。

 一方で競い合うだけではなく、互いの技術を教えあう情報交換なども行っている。個々の畑によって、言われた通りにはならないことも多いようだが、地域の力を蓄えることになる。「少ない面積で良いものを沢山作り高い単価をとる」。それが理想だが、「そんなに甘くはない」とのこと。難しくもあり、またそこに伸びる余地が潜んでいるとも言えそうだ。

 なると金時を生産するということは、土の中からお宝を掘り出しているようにも思える。ただこちらの場合、お宝をタダで手に入れられるわけではない。プレミアムな農産物としてしっかりとした生産コストがかけられている。土壌消毒に使う薬液、機械装備費、暗渠などの圃場整備、水路の設置など、「一番の単価を取るだけのものが必要になる」。その中で如何に収益を出していくが課題だ。また地域では、勤める工場なども多くあり、都市化が進み、幹線道路の近くでは畑が姿を消していっている現状もある。「それをそのままにしておいてはいけない」。確固たるブランドを築いてきたが、それをこれからも持続するためには取り組まなければならないことも多いようだ。

 最近は市場から輸出向けに出荷もされ、台湾、香港、シンガポールなどアジアの富裕層を中心に販売し、販路拡大で、ブランド農産物としての広がりを見せているが、その根底にはプレミアムなものの強さがある。その強さは自然の恵みを受けた農産物にだけあるのではない。それを育んだ地域の人が努力して獲得したものでもある。農産物のブランドとはそれを作る人も含めて形成されるものに違いない。その2つの掛け合わせに日本農業の大きな可能性を感じた。


ファイティング・アグリ・スピリッツ「埼玉をヨーロッパ野菜の産地に」

取材先:埼玉県さいたま市岩槻区 さいたまヨーロッパ野菜研究会 副会長 小澤祥記
2016年7月号掲載

 

 TPPの発効が視野に入る中で、海外からの農産物がより競争力を増すと警戒を強めている生産者は多いが、ただ身構えているだけでは農業を守れない。目の前にある脅威に向き合い、立ち向かっていくことが必要だ。とは言え、正面からの力比べだけでは少々分が悪い。やり方を工夫するのも闘いの内だ。方法は多々ある。進化の歴史を見ても明らかで、大きくて力の強いものだけが生き残るわけではない。新しい環境に対応できる術を身に付けたものが生き残る。埼玉では国産のヨーロッパ野菜を作ろうという試みが行われている。外国の野菜を国内で作ってしまおうというもので、そこに新しい時代の新しい農業が始まっている。

 

 
▲生産者▲ヨーロッパ野菜の圃場▲印象的なカラフルな野菜

 

埼玉でヨーロッパ野菜を栽培

 「ヨーロッパ野菜を“さいたま”のブランドにしていきたい」と語るのは、“さいたまヨーロッパ野菜研究会”の副会長を務める小澤祥記さん(37歳)。2013年に設立され今年4年目を迎える研究会で、ルーコラ・セルバーティカやカリフローレ、フェンネルなど、聞き慣れない野菜が現在50品目ほど栽培されている。1年目にまずこの地で作れるかどうかの試行錯誤が行われ、2年目にはビジネスとして成り立つための採算に合う方法を探り、3年目には販売先の確保が行われ、そして4年目の今年は、安定出荷を大きなテーマとして取り組んでいる。その中で今年の4月に農事組合法人FENNEL(フェンネル)が設立された。組合員数11名で研究会に所属し共同出荷・販売を行う。個々の生産者が一つの法人となり、新たな段階に踏み出している。

 ヨーロッパ野菜に取り組むきっかけになったのは2013年の1月。さいたま市農政課の主催でイタリア野菜勉強会が開催され、そこに小澤さん達生産者が出席した。「埼玉でレストランを経営するノースコーポレーションの北社長やそこで総料理長を務める人の話がありました」。市内にはイタリアンやフレンチのレストランが数多くあり、国産のものを是非使いたいと思っているという話で、それを受け「それならばやってみよう」とヨーロッパ野菜への挑戦が始まった。実際さいたま市ではワインやチーズ、パスタの1人当たりの消費額が日本トップクラスであり、それらを背景に「ヨーロッパの野菜を栽培して地産地消する」試みが始まった。

 そしてその年の4月に“さいたまヨーロッパ野菜研究会”が結成。小澤さん達生産者に加えて、需要者となるノースコーポレーションなどのレストラン、日本向けに品種改良したイタリア野菜を普及させたいとしていたトキタ種苗、流通を担う業務用食材卸・青果卸の関東食糧、IGSなどで構成され、レストランを基本にホテル、結婚式場、介護施設、病院などに販売されている。レストランや卸は生産者から優先的に収穫物が供給され、生産者は、種苗会社から栽培方法などのアドバイス、新品種の情報提供を受け、レストランからは実需者としての意見や評価を得る仕組みとなっている。

 「1年目は生産者4人から始めました。種苗会社から種の提供と技術指導を受け、何度も勉強会をして頂いた。そして暑い夏といくつもの台風を乗り越え、11月ぐらいから収穫が始まりました」。ただ、商品として出せる歩留まりは3割ほど。「家庭菜園レベルで利益は全然上がりませんでした」。しかし、鮮度がよく、シェフによる味の評価も上々で、ここまでできるのかという声もあり、それならば「もう1回」と悔しさをバネに評価を励みに取り組みが続いた。

 そして研究会の生産者も2年目には4人から7人へ。栽培技術の向上と共に秀品率が向上。次は生産コストを考え採算がとれる栽培方法の確立が課題となった。3年目は生産者が10人となり、生産量も増え、4年目は11人に。その体制で、取引の拡大が進められ、その売り先に対して如何に安定的に供給していくかが大きな課題となっている。「最初の2年間は大変でしたが、とても面白かったですね。仲間で集まって作ったことのないものを作りあって、サークルのようでした。しかし、次第に先々の苦労と不安が増えてきました。多くの人に支持されていく中で、失敗ができなくなってきました」。期待する声は大きくなり、それに応えるプレッシャーは高まる。

 しかしそれは事業の成長を意味してもいて、旧態依然とした農業の中で厳しい状況に陥っている農家が少なくない中、農業を明日へと繋げている。

作れるかどうか、売れるかどうかも分からないリスクの大きさゆえ、農家として実績を積んできたベテランはあまりやりたがらなかった取り組みだが、後継者を中心とした若手が集まった同研究会では「親とは違うことがしてみたかった」との思いもあり、新しい事に踏み出す後押しになった。また学校を卒業して一旦一般社会で働いた経験を持つ者が殆どで「農家以外の生活を知っている」ことも、従来のやり方ばかりに捕らわれない柔軟な発想の一助になっているのかもしれない。現在は専業農家として親の世代が培ってきた農業にヨーロッパ野菜の栽培を取り入れる方法で、農業に取り組んでいる。さらに一歩進め、中には全てヨーロッパ野菜に切り替えてしまった生産者も1人いる。

 小澤さんの場合、長ネギの栽培をメインに季節の野菜を生産し、それらを量販店のインショップで販売するという農業経営を展開する中で、「連作障害を避けるため」もあってヨーロッパ野菜の導入が図られた。


地産地消を基本に展開する

 現在、研究会の事業規模は「年間で50品目ほど栽培し、埼玉県内の1000店舗、都内の120店舗で使って頂いています」。ヨーロッパと埼玉では気候が違い、土質も違う。当然同じものは作れない。だから、「真似をして同じものを作ろうとするのではなく、こちらに合ったもの作れば良いんじゃないかと思っています。埼玉の人が食べる、埼玉のヨーロッパ野菜です」。地産地消を基本に気候、風土そして食べる人の味覚にあったものが目指されている。シェフの評価は「幾つかの野菜はもう本場と変わらない」というものもあるし、あるものに関しては「香りが弱い」と指摘されるものもある。それらの意見を聞きながら肥料や管理、土作りの工夫を行っている。加えて生産者の顔が見えることによる食への安心、生産地と消費地が近いことによる鮮度の良さが魅力として付加されている。

 今、1000店舗を超えて同研究会のヨーロッパ野菜が供給されているが、その流通で大きな力となっているのが会員として加わっている卸の存在だ。出荷作業は大変手間のかかる作業で、多くの店舗に個別発送していくことは難しい。「今は月、水、金、土、と週4回の出荷で、分荷にも手間がかかります」。その中で運送会社使った発送や卸による集荷が行われている。流通に係る手間をなるべく削減し効率化していくことがより多くの生産物を出荷していくことにもなり、売上を伸ばしていくことにも繋がる。


安定出荷が大きな課題

 4年目を迎え、栽培技術が向上し、品質の良いものが作れるようになり、売上が出せるようになってくる中で、会員となっていた生産者11人で農事組合法人FENNEL(フェンネル)が立ち上げられ、生産部門の会員が個人から一つの法人になった。「大手さんとの取引における信用の問題や、共同使用する施設への投資ができるなどメリットは大きいと考えています」。また一方で、法人組織としての責任もしっかりと果たしていかなければならない。求められる一番大きな役割は安定出荷だ。「大切な事は確かな品質のものを予定通りに作って出荷するということです」。現在1人5品目程度を分担して作り、作物を専門化して栽培の習熟を早めるなどの取り組みを行っているが、1人しか作っていない野菜も何種類かあり、そこで生産計画が狂うと予定の出荷量を満たせないという事も起こる。また、どこにでもあるような野菜ではないので、他の産地で不足分を補うということもできない。「大きな案件を頂くことはありがたいのですが、失敗できないというプレッシャーもまた大きなものがあります」。今後の大きな課題だ。

 品質の高いものを安定的に供給する上で、各生産者の技術を等しくレベルアップすることも大切になってくる。「共同でやっているので、この人の野菜は良いけれど、この人のは駄目という事では、組合にした意味がありません」。出荷日に集まった前後や夜に行う定例会などで情報交換を密にし、レベルアップを図っている。仲間でやるからこそお互いの技術を高めあうこともできる。

 この他、共同で冷蔵庫を購入したり、集出荷場を設けたり、事務を担うスタッフを雇用することなど法人化するからこそできることも多そうだ。

 展示会などに出展すると、ヨーロッパ野菜に関心を持ってくれる人も多いようで、「今年3月には、興味を示して頂いている卸さんにお声がけをし、こちらで商談会をしました」。研究会に所属している2社の卸だけでは売り切れないものを流通させる販路の開拓となり、取引先が拡大。可能性と同時に責任も大きくなった。その先にヨーロッパ野菜の産地になる“さいたま” の姿があるに違いない。

 法人名となったフェンネルは日本ではウイキョウと呼ばれ、地中海沿岸が原産で、香味野菜として利用される。「作るのが難しくて販売も難しい野菜です。だけど、会員の皆がこの野菜が好きで取り組んでいます。それは私たちの取り組み全体にも似ているところがあります」。取り組む人が少なくて難しいけれども大きな魅力があるということだろうか。「これがうまく作れ、フェンネルと言えば埼玉のヨーロッパ野菜研究会と言われれば、この取り組みは成功だと言えるような気がします」。それは新しい作物がしっかりと根づいた証に違いない。

 小沢さんは子供の頃、農業が嫌いだったと言う。「遅くまで働いていて大変そうで、小学生の頃はやりたくなかった」。しかし農業を継ぎ、今となってはそういうイメージを次の代には、持ってもらいたくないという思いが強い。「泥臭くて大変で稼げないというイメージを、格好良くて稼げてクリエイティブなものにしたい。何でもできるんだよというプラスのイメージを持ってもらいたい」。フェンネルの取り組みがまさにそういうものであり、新しい作物への挑戦、柔軟な発想、売ることをしっかり考えるビジネス感覚、展示会での野菜のディスプレイも元フラワーデザイナーや花屋さんの経歴を持つ生産者が携わり他の展示とは一線を画すセンス、新しい時代の新しい農業が始まっている。従来の“その土地で作りやすいものを作る”から、“求められるものを作る”へとスタンスを変え、その上で新しい物を生み出すクリエイティブさを発揮。強い意志のある物づくりに格好良さを感じた。そこに環境変化に立ち向かうことができるファイティング・アグリ・スピリッツがあった。


新たな市場への挑戦「シンガポールでリンゴを売る」

取材先:長野県松本市ベストアップル輸出専門組合副組合長 榑沼 均
2016年6月号掲載

 TPPが大筋合意となり発効に向けての動きが進められている。品種によっては、すでに外国産農産物と競合しているものもあるが、新たに熾烈な競争を予想されるものもあり、安価な輸入農産物が日本農業にとって大きな脅威になることは間違いない。一方で、農産物を輸出する取り組みにとっては好機到来。当たり前のように消費していたいつもの食卓にある農産物が海外に持っていけば高級品となることもあり、良食味、品質の高さから日本産農産物の人気は高い。その上で関税がなくなれば強い追い風になる。新天地に農業活性化を探る動きを追う。

 

 
▲大規模なリンゴ畑▲シンガポールでの販売▲加工品にも取り組む

 

海外輸出という選択

 長野県松本市でリンゴの輸出を手がけているのがベストアップル輸出専門組合(二村守組合長)。同市の梓川地区22戸のリンゴ農家によって組織されたもので、リンゴの輸出を平成26年から始めて、今年で3年目。シンガポールに向けて自慢のリンゴを出荷する。2シーズンを経験したばかりで、まだまだ手探りの状態だが、現地での評価も良く、今後の大きな可能性が秘められている。同組合で副組合長を務める榑沼(くれぬま)均さん(59歳)に話を聞いた。

 同組合のある梓川地区は長野県有数のリンゴ産地。「この辺の専業農家はほぼリンゴです」。安曇平の南に位置し北アルプス連峰のすそ野、標高700m前後の段丘にリンゴ果樹園が広がる。「品種はシナノスイート、秋映、名月、サンふじ、サンつがるなど」。無袋栽培を主流に太陽の光を一杯浴びた品質の高いリンゴが作られている。

 この地では昭和5年にリンゴが導入されて以来、津軽、乙女の新品種を導入し、ワイ化栽培では、民間で初となる試験圃場1.1haを設置するなど、進取の気風に富み、SSなどで作業の機械化を図り、灌水施設の有効利用、土壌改良、着色技術の研究、優良系統の積極的導入、無袋栽培の完全実施などを進め、省力化と規模拡大によりリンゴ産地としての確固たる地位を築いてきた。昭和58年には日本農業賞を受賞し、翌年にはリンゴ栽培では全国初となる天皇杯を受賞している。

 そんな産地で育った榑沼さんが就農したのは20歳の頃。「地域でリンゴ栽培が盛り上がっていた時分で、新品種のふじが出始めて少し経った頃でした」。地域の産業としてリンゴ栽培が大きな存在感を持ち、農業と地域が緊密に重なるなか、その発展とともにリンゴ農家として歩んできた。当時を語る榑沼さんの表情にその頃の活気が窺われる。市場が成長していく中で如何に供給していくかを考えれば良く、生産者は作ることに専念することができた。しかし時代は移り変わり、「40年近くリンゴを作り、それまでは農協に出すだけで食べていけました。しかし段々と価格が安くなり、そうなってくると、ある程度自分で売らなければならないという時代になってきました」。そこで地域農業を発展させていくための一つとして、海外輸出という選択が浮かび上がってきた。


ベストアップル、シンガポールに見参

 「国内だけで売っていても先が見えている感じがありました」。成熟した市場の中で更なる発展を目指すためには、シェアを奪い合うか、市場を拡大させるかとなるが、より大きな可能性を持っているのは後者の方だ。何と言っても世界は広い。

 長野県では県内産農産物の販路開拓として海外に目を向けていたこともあって、県内で輸出に興味のある農業者を募っていた。そこに梓川地区のリンゴ農家が応じた。平成26年4月には梓川地区の農家22戸で輸出を目的にしたベストアップル輸出専門組合を設立。そして「シンガポールに輸出する話があって、幾つかの団体がシンガポールに行って話をし、私たちが選ばれました」。平成26年7月に行われた長野県主催のシンガポール商談会に参加し、輸出が決まった。ベストアップルにとって、シンガポールが新たな可能性を持つ新天地となったのだ。

 受け入れたのは、シンガポールにある日系高級百貨店高島屋で高級果物などの店舗を出す現地企業の㈱巨峰。それまでも富裕層向けに日本の他県産リンゴを扱っていたが「私たちのものを扱いたいと言って切り替えてくれました」。商品の魅力や商談に赴いたベストアップルの二村組合長の力が大きかったようだ。「英語を喋れるわけではないが、堂々と日本語で思うことを述べ、しっかりと気持ちを伝えた」とのこと。もちろん通訳はいるが、そういう言葉を超えたコミュニケーションも互いの理解を深めるためには必要で、輸出を成功させる秘訣なのかもしれない。

 平成26年9月にサンつがるを10㎏入りで85ケース初出荷したのを皮切りに、10月下旬に長野県オリジナルブランドである秋映、シナノスイートと共に同地区特有の蜜入り完熟名月を輸出。11月には現地フェアを実施し、翌年1月末までに蜜入りサンふじを含め1400ケース余りを輸出した。

 現地での値段は大きさにもよるが、2個入りで平成27年2月の販売価格が23.9シンガポールドル。平成28年5月17日現在のシンガポールドルは1ドルが79.7円なので、日本円にすると1個が950円ぐらいになる。国内の値段と比べ大きな差となるが、日本ブランドとして品質が認められ富裕層に向けた高級品として受け入れられている。我々の身近にある農産物の価値に改めて気付かされる。平成27年も順調に輸出を行い、今年で3回目のシーズンを迎える。規格に合わないものはジュースに加工され、これも昨年は120本ほどがシンガポールに輸出された。

 また、ただ品物を送るだけではなくベストアップルの組合員が持ち回りで現地に赴くこともあり、生産者として消費者に対面し商品説明を行いながら販売も行っている。榑沼さんも「1年目にシンガポールに行きました。日本語しかできませんが、売り場に立ち、トライ、トライと声をかけて試食してもらいました。一度買ってくれると引き続き購入してくれる人が多いようです」。また渡航の際には、梓川地区のある松本市からの助成もあった。渡航費や英語のパンフレット作りに利用し、松本市の観光案内を配るなどのPRも行い、市との連携も行っている。

 ベストアップルのリンゴは現地での評判も良いようで、「シンガポールの高島屋以外でも扱っている所はないのか」と、更なる購入機会を求める消費者の声も聞かれるとのこと。生産されるリンゴは「ごく普通の栽培方法です」というが、先人から積み重ねてきた智恵と努力の結晶がそこにあり、海外から見れば尚のこと、それは当たり前の物ではなくなる。また、標高700m前後の栽培地がもたらす「寒暖の差が気候的にリンゴ栽培に向き、その分糖度がのります」。栽培環境の優位は余所が容易く真似のできない価値であり、海外で充分通用する高い商品力となる。それはこの地のリンゴに限らず、日本各地の様々な農産物に当てはまることでチャンスはある。ただ、日本人の味覚と少し異なる部分もある。「シンガポールでは酸味のある物より甘いものが好まれます。酸味がある方が味わい深いと思ますが味覚が違います。ですから糖度の高い名月などがよく売れます」。食文化の違いを少し考慮に入れる必要がありそうだ。


農業のグローバル化をチャンスに

 輸出は9月の下旬から始まり、1月の半ばぐらいまで続く。「先様のオーダーに従って1シーズンに5回ぐらいの輸出を行います。現地まで船便で2週間」。そこでまず大きな課題になるのが鮮度の保持。ベストアップルでは作物のエチレン受容体に作用して果実の呼吸と成熟スピードを遅らせるスマートフレッシュ処理の施設と冷蔵保管技術を導入し、収穫後はこの処理を行って貯蔵し、神戸港から冷蔵コンテナでシンガポールに向けて出荷する。これにより食感、硬度、味、及び外観の保持に努めている。スマートフレッシュは品種によっては傷みが出る場合があり注意とのこと。シンガポールの消費者は、果物の傷に敏感で、「しっかり確認してから買っていきます。傷物があればお店から単価が引かれます」。日本よりその辺りはシビアだ。

 海外で農産物を販売しようとする団体や地域が直面するもう一つの大きな課題は、輸出の手続きだ。複雑で難しい書類作成などがあり、多くの知識とノウハウが必要なようで、経験のない者にとってはハードルが高い。ベストアップルにとっても同じことで、その難題を乗り越えるために取った方策は、輸出経験が豊富な企業との連携だ。「シンガポールの商談の時、組合長が、そこに来ていた和歌山の人から、輸出の手続きなどを代行してくれる業者を紹介してもらった」。和歌山県ではその業者を通してみかんなどを輸出していて、ベストアップルのリンゴも扱ってもらえるようになった。ここが書類作成から通関手続きまで全てを行っている。商品代金もこの業者を通じたものとなっているので、「入金もスムーズで全く不安はありません」。生産者が輸出に踏み出す場合、全てを自らが行っていたのでは負担が重く、大きな不安とリスクを伴う。自分たちに無い専門知識やノウハウを補う、頼れるパートナーを如何に見つけるかが大きな鍵になりそうだ。

 それがうまくいけば新たな展開が可能になってくる。「最近は円高が気になります。輸出する前は、全く関係なく円高を直接感じることはありませんでした。しかしいざ輸出を始めてみると、円高とはこういうことなのかと実感します」。円高になれば、価格競争力が低下し、円安になればその逆。為替の動向が生産者の収入に影響を及ぼす事になるわけで、まさに農業のグローバル化と言えそうだ。この場合グローバル化に巻き込まれるのではなく、それにあえて飛び込んでいくという感じで、この先TPPが発効し、関税が無くなれば追い風にもなる。日本農業が生き残る一つの道が見える。

 榑沼さんの夢は「輸出する国を増やして、手があいた時期にその国を訪れ、販売などを通して現地の人と交流し観光もしたい」ということ。シンガポールでの輸出事業が成功すれば大きな実績となり、その可能性は広がり、夢を実現することにも近づく。そんな楽しい農業の姿を若い人達に見せることができれば、農業のイメージは変わる。後継者として地域に入る人も増え、地域農業の持続に繋がるのではないだろうか。

 農産物を輸出するということは単なる物流の話ではない。生産者の意識を変え農業を国際化していくということになる。新天地に何が待ち受けているのか。もちろん危険もあり、行ってみないと分からないことも多いが、助けようと手を伸ばしてくれる人も少なくない。うまくいけば、大きな利益に繋がる。もちろんリスクはあるけれど、行ってみるだけの価値はありそうだ。今、日本農業におけるちょっとした大航海時代が始まっているのかもしれない。未知に挑む勇気が日本農業の明日を開いていく。

 



新しい産地をつくる力「若さを武器に魅力ある産地をつくる」

取材先:JAあづみ夏秋いちご部会 堀井勇司部会長(市場用)原口知明部会長(業務用)
2016年5月号掲載

 何事でも挑戦する姿は格好いい。新しいことであったり、高い目標であったり。研究や開発、記録の更新やアイデアの実現。それまで世の中に無かったものを生み出すわけで、目標までの過程は時に地味で歯を食い縛るようなこともあり、スマートじゃないことも多いが、未踏の地に足を踏み出していく姿はやっぱり格好いい。それが、新しい価値を生み出すことになる。農業でも同じことで、各地で新しい挑戦が行われているが、それは地域の活力を生み出すことに繋がったり、農業の魅力を高めたりしている。今回は長野県の安曇野を訪ね夏秋いちごを取材。その取り組みに地域農業の活性化を追う。

 

 
▲ハウスの中で育成▲安曇野の夏秋いちご▲豊かな自然が育む

 

夏秋いちごの産地、安曇野

 高い品質を誇っているのが日本のいちご。一般的には冬から春に収穫されるものが主流で、高い糖度と適度な酸味で輸入物に比べて格段に味がよく、果物屋や量販店では、各地のいちごがしのぎを削っている。栃木県の「とちおとめ」、福岡県の「あまおう」を始め熊本県、静岡県、長崎県など各産地が自慢のいちごを展開し、その切磋琢磨の中で品質も上がっていく。中には高級いちごと呼ばれるものもあって、独自にブランド化し一粒1000円を超えるような物まで売られている。しかし、一年を通して需要があるにも関わらず、これらのいちごは年中収穫できるわけではなく、夏から秋にかけてはアメリカなどからの輸入物がメインで、菓子メーカーやケーキショップ、スイーツを提供する店などの需要に応えている。

 その中で近年、国産の夏秋いちごが存在感を増してきつつある。かつて9割あった輸入物の比率が最近では8割ぐらいになり、いちごを扱う仲卸の中には、輸入物から国産に切り替えるという所も出てきているようだ。値段的には輸入物のほうが安いが、やはり国産の方が、品質が高く、安全・安心、安定供給、歩留まりの良さもあり、確かな引き合いに繋がっている。

 夏秋いちごは6月頃から11月頃まで収穫・出荷されるいちごで、北海道を一番の産地として東北及び関東以西の高冷地など夏場に冷涼な地域で生産されている。

 いちごの品種には冬春どり用品種の一季成性品種と、長日条件で花芽分化しやすい性質を持ち、夏秋期に人為的操作なしで花芽が分化して実をつける四季成性品種があるが、夏秋いちごはその2つを利用した方法があり、1つは一季成性品種を利用してクーラーなどで温度を下げ、さらに遮光材で日長を短くして花芽を誘導する方法。もう1つは、四季成性品種を使う方法。一般的には後者が主流となっている。また年間を通じて開花する四季成性品種でも夏場の高温には弱く、栽培コストを考えれば緯度の高い所や高地などの冷涼な地域が適している。その条件下、長野も栽培適地として、夏秋いちごの積極的な栽培に取り組んでいる。その中でも安曇野は県下1の生産量を誇る産地として大きな存在感を示している。

 中心となっているのはJAあづみ夏秋いちご部会。元々管内は米とりんごの産地だったが、10年以上前に長野県に夏秋いちごを普及しようとする動きがあり、その中で、安曇野でも新規作物として取り入れ、今では蔬菜部門の販売金額トップとなっている。


期待に応えて安定供給

 その部会で部会長を務めているのが、堀井勇司さん(35歳)と原口知明さん(39歳)だ。2人の部会長で、堀井さんが市場向け出荷用を担当し、原口さんが業務用の契約出荷を担当している。平成18年に設立され、今年10年目。若き部会長の元、今年は36名の部会員を擁し、平均年齢も30代半ばと若く、伸び盛りの勢いがある。当地の夏秋いちごは四季成性で長野県が育成した“サマープリンセス”と北海道で育成された“すずあかね”。現在の栽培面積は285.6aで、115tの生産量があり、出荷金額は1億8900万円になっている。

 「品種構成はすずあかねとサマープリンセスが約7対3の割合。すずあかねの方が収穫の量が比較的安定していて、栽培面積が多くなっています」と堀井さんが教えてくれた。「今年の収穫は6月の上旬ぐらいから始めて、一般的には11月末から12月頭まで続きます。夏秋いちごはその間、如何に安定して出荷するかということが重要になります」。

 堀井さんは地元出身で、大学の農学部の時から夏秋いちごの研究に携わり、卒業後香川県で1年間、冬いちごの研修を行ったあと、長野県にできた夏秋いちごの実証圃場の管理を2年間行い、部会ができた翌年の平成19年に就農した。「大学を卒業する時から安曇野をいちごの産地にするという目標がありました」と、夏秋いちごに対する思い入れは強い。

 堀井さんが担当する市場出荷では、今のところ関西方面が中心。心がけているのは鮮度の保持。しっかりとした選果が行われ、種一粒でもそのまわりが黒くなっていれば良品から取り除いていく。「収穫の時にチェックし、選別の時にチェックし、農協でチェックして出荷です。その後仲卸でチェックして実需者に届いていきます」。また、冷蔵庫の中で検品して保冷車で大阪まで送るなど、温度管理には細心の注意が払われている。「夏場ですので、ちょっと外に置いておいただけでも真っ赤になってしまいます」。それらの取り組みを積み重ね「パックで買ったら100%使えるように」することで、市場からの信頼を構築している。現状は生産量の制約から大阪方面に送るもので手一杯の状態だが、産地として力が付いてくれば「東京で勝負できるようになりたい」と、意欲は高い。

 業務用の出荷は原口さんが担当。大手洋菓子製造販売のメーカーへ契約販売し、経営の安定化が図られている。「業務用の場合は選別という作業がありませんので、一番大変なのは収穫になります」と原口さん。夏場のいちごを安定的に供給する産地として取引先から頼りになる存在となっている。通常市場出荷の場合、高値で売れれば利益も大きいが変動の波があり、生産環境の変化により価格が不安定になることもある。それに対して契約販売は実績を積み重ねた信用が変動を吸収することになり、産地の持続に貢献する。

 原口さんは、りんごといちごの複合経営。農業以外の仕事を経験した後、7年前に就農した。「実家は地元のりんご農家なのですが、周囲の耕地利用率が高く、面積を増やすことが難しい所です」。そこで、目に留まったのが夏秋いちご。早くから取り組んでいる人が近辺にいてそこで研修を始めたのがきっかけとなった。現在は父親がりんごを担当し、ご自身はいちごを担当。実家の農業をそのまま受け継ぐのではなく、新しい作物を採用することで経営の拡大と安定化を図っている。


団結が産地の力に

 今産地に求められていることは「6月から11月までのシーズン中、如何に安定して供給するかということです」。まだまだ成長の段階にある市場で、しっかりと生産に注力し継続的に安定して商品を出していくことが必要とされている。「そのためには栽培面積を増やすということが一つの方法です」と堀井さん。周囲に面積を拡大する余地はまだ充分にあるようだが、「それに伴ってどうやって労働力を確保していくのか」。考えなければならないことも多い。一方、5戸で発足した部会も10年で36戸。ここ1年では9戸の増加。若手生産者を中心に規模が拡大している。産地としての成長が安定供給に大きく貢献していきそうだ。

 「私たちの部会は農業一筋でやってきたという人が少ない。Iターンで東京から来た人もいますし、結婚相手の実家を継いだ人もいます」。多様な人材を惹き付ける魅力があるようで、JAあづみでもこれほど若い人が集まる部会はない。会議をやっても活発な意見が出るとのことで、「他の業種から入ってきている人の目がありますので、消費者の立場に近いのかもしれません。農家が持つ暗黙の了解的な所がなく、改めて指摘することで考え直す機会になります」。固定概念に縛られず、何でも試してみようとする自由さがあり、それが若い活気と相まって、端から見れば楽しそうに見える。そういう所に人は集まる。

 今課題となっていることは、生産面では1つに防除作業の省力化がある。「栽培の中で一番大変なのは収穫と防除。特に夏場、害虫の防除が週一であります。パートさん任せにせず、私自身が一株ずつ手振りで防除していきますので、かなりの重労働ですが、一番大事なところでもあります」と堀井さん。手が抜けない作業である反面、体力的にできればやりたくない作業でもあり、作業を省力化するための機械などの導入も検討されている。薬液をミクロの超微粒子にしてハウス内をくん煙するような機械もあり、うまくいけば労力と時間の大幅な削減に繋がる。

 また販売面の課題としては、規格外品をどのように有効利用するかがある。「加工に向けて部会単位で考えています。県の補助で新しい6次産業化商品を作る事業があり、昨年は試しでイチゴシュガーを作りました。部会が材料を提供し、地元の業者が加工するもの」。新しいことへのチャレンジが果敢に行われている。

 部会全体の挑戦もあれば、先述の新しい防除法を試すような個人単位の挑戦もある。しかしその成果は個人内に留まることなく、部会全体で共有されていく。「情報交換は日常的にやっていて、基本的にやり方を隠す人はいません。だから例えば10人がいてそれぞれ新しいことを試してその成果を持ち寄れば、1人で10年かかる試験を1年で終わらすことができます」と堀井さん。部会内の団結力は強くそれが大きな力になっている。

 “夏秋いちごなら安曇野”。そう言われるようになるのが産地の思いだ。全国的に夏秋いちごが少ない時でも、安曇野なら手に入る。そういう産地になるための努力が重ねられている。「それが目標でもあります。欲しいと言われるものに対して私たちが如何に答えを出していくのか」。そこに信頼できて頼りになり、地元では雇用を生み出す強い産地への道がある。

 しっかり自立し、固定概念に捕らわれない自由さと若さを持ち、確かな結果を出していく。それは“格好いい産地”と言えるに違いない。その取り組みを楽し気に進めていく姿は大きな魅力だ。その魅力が人を引きつけ産地を大きくする。それが新しく産地を作っていく上での大きな力になると感じた。


ファイティング・アグリ・スピリッツ「思考を重ね、改善を進める強さ」

取材先: 有限会社 エフ・エフ・ヒライデ 平出賢司代表取締役
2016年4月号掲載

 お腹を満たすものが充分あるのなら、それを巡る争いは起きない。しかし、私たちはエデンを追われ、古来より命を繋ぐ闘いを繰り返してきた。それは今も続いていて、ビジネスでも同じこと。限られた需要のもとで競争が生まれていく。生き残っていくためには強くなることが必要だ。自らを鍛え、技能を高め、知識を蓄える。農業も例外ではなく、それを取り巻く環境が大きく変わる中、競走がより熾烈さを増そうとしている。農業の持続を図るためには状況と向き合って闘わなければならない。日々挑戦を続けている農業者を取材し、そこにファイティング・アグリ・スピリッツを探る。

 

 
▲ダッチライトハウス▲大規模なユリ栽培を実践▲つぼみで出荷される

 

農業の数値化が大きな力に

 今回お訪ねしたのは栃木県宇都宮市で花卉の生産活動を続ける有限会社エフ・エフ・ヒライデ。ユリの栽培を大規模に展開し、国内生産量に対して1%弱となるシェアを確保している。「第1から第3圃場まであり、ハウス栽培で規模は約1.5ha、年間で約100万本になります」。強い農業を展開し明日へと歩みを繋げている。代表取締役の平出賢司氏(40歳)にこれまでの経緯やこれからの展望を聞いた。

 社名にあるエフ・エフとは生産者(Farmer)とフローリスト(Florist)を表し、花のプロフェッショナルを意味している。法人化は2001年だが、元々は米の専業農家。現会長で先代社長の平出孝司氏が1970年に家業である農業に就き、水稲単作にトマトの施設栽培を始め、裏作にフリージアを導入した所から花との関わりが始まる。「高度成長期の中、花の需要が爆発的に伸びていく時代で、先見性を持って花を導入しました」。作物もテッポウユリから、スカシユリ、オリエンタルユリへと様々な物を手がけ、花専作となり、栽培規模も着実に広げていった。背景となる時代も経済が伸び、消費の様も食べることだけではなく、次第に娯楽や文化へと広がり、花に対する消費も伸びていった。しかし、バブル経済が崩壊し、その後の長い経済停滞の中、花市場も低迷を始めた。ちょうどその頃の2000年、現社長の平出賢司氏が24歳で就農した。「私たちはロストジェネレーションの世代です」。経済が長く縮小していく中で青春時代を送った人達で、シビアに物を見ることを慣らいとし、その中で実際の農業と向き合うことになる。翌年の2001年に法人化。花の業界はすでにエデンの外にあり、如何に生き残っていくのか、厳しい闘いの中でのスタートとなった。

 そこで取り組んだのが、それまで営んできた農業をデータベース化して解析すること。「経験では先代にかなわないので、私が武器にしたのは数字でした」。当時、20~30種ほどのユリが栽培され、植えた時期、収穫した時期などの記録はあったものの、そこから有用な意味を見いだし、関連性を取り出すような分析は行われていなかった。そこで栽培履歴に販売実績や、球根の単価、流通経費といった生産原価の情報を結び付け、「本当に儲かっている部分はどこにあるのかを自分なりに探って解を求めていきました」。儲かっていると思っていたものが儲かっていなかったり、その逆であったり、漠然としたものがはっきりとし、新たな品種導入にも効果を発揮した。賢治氏は大学から大学院に進学し園芸学部で農学系の基礎研究を行っていたとのことで、ファンダメンタルな部分を重視し、原因と結果を明らかにしていこうとする姿勢がバックグラウンドに感じられた。

栽培環境を制御することで周年出荷

 そして次の大きな契機になったのが、オランダ製のダッチライトハウスとそれに付随した統合制御コンピューターの導入。「温度、湿度、照度を統合的に制御し光合成を最大化するように全ての機械が連動して動きます」。その制御システムが持つロジックから先進の栽培ノウハウを学ぶことができ、技術をワンステップ押し上げることになった。また細やかな栽培管理がコンピューターによって自動で行われ、省力化を実現しつつ、「少し離れた圃場で、誰かがいなくても栽培環境を制御できます。それにより急な環境変化が起きて植物が大きなダメージを受けるということがなくなりました」。さらに軒高約4.8mの大きな空間が急激な環境変化を吸収する余地となっていて、植物のストレス緩和に繋がっている。「特に夏場はユリにとって厳しい時期ですが、細霧冷却装置や自動で日差しを遮る自動シェーディングで夏場の生産も歩留まりが良くなりました」。栽培リスクを減少させると共に、品質の向上が図られている。

 それまで、周年栽培が実践され、ハウスには年間を通じて作物が育てられていたものの、面積的制約と夏場の品質低下などにより、年間を通じた商品の出荷はできていなかった。しかしこのダッチライトハウスとそれを制御するシステムを導入することにより、周年出荷の実現となった。「年3~4回の出荷」とのことで経営効率は高く、年間を通じて一定量の作業となり、周年雇用により労働力の安定と技能の維持にも繋がっている。現在労働力は本人、父、母の役員と社員1人、パート従業員12名となっている。また効率的な生産は賢司氏の栽培技量を向上させることにも貢献している。「年間100万本で15年間、約1500万本のユリ栽培に携わってきました」。年齢に対する経験値は高い。導入するためのコストはかかるが、それにより様々なメリットがあるようだ。

 栽培に関してはこの他に、有機肥料による栽培にも取り組んでいる。「温室は移動ができませんので土は財産です。特にユリは土耕ですので、土を傷めず維持しつつ、少しずつ良くしていく事を考えています。一作毎に腐植の部分は減っていきますので、最終的に辿り着いた答えが有機物だけで回した方が効率的だという事です」。また連作障害に関しては、「ユリは比較的少ないと言われていますが、園芸種では交配を重ね、弱いものも出てきます。それで当初は、薬剤による消毒を行っていましたが、今は温湯で土壌消毒しています」。圃場にシートを敷いて、土に温湯をかけ、土中の細菌、球根を含めた残渣を消毒していく。お湯で煮るような状態で「玉ねぎを炒めたみたいにドロドロになり、何日かするとワラのようにパラパラになります」。土に過度な負担をかけず、必要なものを手当しながら、10年後、20年後もしっかりと栽培できる土作りとなっている。農業の持続という観点ではこの他にも太陽光発電に取り組んでいる。球根の貯蔵や切り花の予冷など温度帯の違う冷蔵庫が複数必要で、将来を考えた場合「漠然と電力会社から電気を購入して消費しているだけで良いのか」という自問があり、電力の買い取り制度が始まったのを機に、ハウスの前や事務所の屋上にパネルを設置し発電を行っている。

 それらの取り組みの一つの結果として表れているのが、花卉の総合認証プログラムMPS-ABCだ。オランダで環境負荷低減プログラムとしてスタートしたもので、世界55ヶ国以上が参加する国際認証。環境負荷に対してどのようなアプローチがなされているかなどが細かく問われる。「2009年から参加し、昨年最高位のA認証を取得しました」。これがたちまち花の単価に反映されるということではないが、「グローバルスタンダードの中の自分たちの位置が測れ、内部改善に繋げてことができます。今できるベストをちょっとずつ積み重ねていきます」。それが未来を見据えた、強い経営へと繋がっている。

ニーズを把握して生産を行う

 販売ルートは市場出荷も含めた業務取引が9割り、エンドユーザーに向けたものが1割り。BtoBの部分では安定出荷が心掛けられ、BtoCの部分では花束やアレンジメントの製作も行っている。賢司さんの母がフラワー装飾技能士1級の資格を持ち自身も2級を取得している。「質の良いものをより安く提供していきたい」。その方針の中で必要な時に必要なものが出荷できる体制になっている。花の卸売市場に対しては、値付けやまとまった量の受け流しを期待するよりも、「決済とお客様とのマッチング、そして物流を求めています。特にお客様を繋げて欲しい」。ただ作ることだけを考え、販売は市場任せにしてしまうような方法が、農業の活力を削いできた原因の一つでもあるわけで、それらとは一線を画している。プロダクトアウトからマーケットインへ、そしてユーザーインへ。「お客様が何を求めているのかを把握した上で作る」。それを実行するための強さが、農業のデータ化や最新の生産設備導入などによって培われている。「私たちはこういう花がいつ頃出荷できかといった生産情報を、単価を含めて提供することができます。逆にお花屋さんからこの時期にこういう花が欲しいと仰って頂ければ、球根の購入から遡って対応し、またイメージに合った品種の提案をすることもできます」。生産環境、市場環境をしっかりと把握し、関与が可能なものに対しては積極的にコントロールを試みる農業が、そういった細かなニーズにも対応できる力を産みだしている。「色々難しいこともありますが、PDCAサイクルを回して少しずつ改善していくことです」。計画、実行、検証、改善、その軌跡が今の形を作っている。現在栽培しているユリは約70種類。オランダから球根を輸入し、オリエンタルユリ、スカシユリ、LAハイブリッドユリを手掛け、周年栽培で周年出荷、年商は2億1000万円。状況に向き合い、自らに問い、一つ一つの課題に挑戦してきた姿がそこにある。

花をもっと日用品に

 エフ・エフ・ヒライデには“花を通じて人々の豊かな生活を支えましょう”という経営理念があり、心の栄養として花を届けたいとしている。そのためには花が高級品ばかりでは、多くの人に届けることは難しい。花を愛でるのは文化であり、それを支えるためには、手に入りやすいものであることが必要だ。「花をもっと日用品にしたい」。それを実現するための高品質・低コスト生産でもある。「今花が売れなくなってきている中で、もうちょっと皆さんに花を手に取ってもらいたいなと思っています」。賢司氏が以前訪れたオランダでは「皆さん週末になると花を買ってきます。日本とオランダでは家にある花瓶の数が4倍ほども違うそうで、そういう余裕のある生活が素適だなと思いました」。春のお花見を見ても分るように日本人は花を愛する国民でもあり、需要を伸ばしていく可能性は充分ある。如何にマーケットを広げていくのか、智恵の出し所だ。「文化として花を飾ったり、花を送ったり送られたりすることがもっと広がれば良いなと思っています」。

 限られた需要をただ奪い合うのでは、産業自体の発展はない。競い高め合うのではなく、競い落とし合うような闘いは、互いの疲弊を招くだけだ。「産地間競争はつまらないことです」。闘うべき相手は別にある。消費者が生活を楽しむために使う限られた資金の中で、どれほどを花に使って貰うことができるのか。ライバルは、旅行であり、ゲームであり、スマホであり、ペットであり、それらと魅力を競い選ばれることが花産業の未来に繋がる。そういう努力を生産者だけではなく「バリューチェーン全体で考えていくべき」。一つの方向を向くことで大きな力になるはずだ。自らを鍛え、思考を重ね、改善を進め、そうやって獲得した強さが花産業の可能性を広げることに向かう。そこにファイティング・アグリ・スピリッツが見えた。

 


6次産業が地域を変えていく植物の力を引き出し地域を元気に

取材先: 株式会社 香寺ハーブ・ガーデン  
2016年3月号掲載

 農産物を原料にした様々な加工品が生み出され、それが私たちの暮らしを豊かにしている。小麦はパンになり、うどんになり、ブドウはワインになり、トウモロコシは燃料にもなる。花から蜂蜜を根から生薬を。農産物はお腹を満たすためにあるが、そのためにだけあるのではない。加工とはある状態のものを別の状態に変換していくことで、先入観に捕らわれない自由な発想で様々な見地から臨めば、多様な魅力を引き出すことができる。本質を捉え、それを価値として形にすると言い換えることができるかもしれない。農家は何も無いただの土から農産物を生み出すわけで、子を知る親のように農産物の本質を身近に知る立場にある。そこに6次産業の大きな可能性がある。

 

 
▲ハーブの収穫風景▲加工品を売るショップ▲充実した品揃えの店内

 

ハーブの魅力を引き出す

 今回お訪ねしたのは兵庫県姫路市香寺町の㈱香寺ハーブ・ガーデン。香りや薬効がある有用植物であるハーブを中核に様々な加工品を展開している。例えばハーブから抽出するエッセンシャルオイル(精油)を製造しているが、食用としてお腹を満たすものではないけれど、香りが神経に働きかけ、気分を調整し、生活を豊かにしてくれるものとして人気だ。日常では視覚と聴覚からの情報に頼り、それらから楽しみを受け取ることが多いが、犬など見ても分るように嗅覚も負けず劣らず多くの情報を伝達することができ、原始的な感覚系として、心身に直接的な働きかけを行うことができる。まだ充分開拓されていない領域であり、香りを効用とする製品の可能性は高い。エッセンシャルオイルなどは原材料の本質をしっかりと見極め、それを価値あるものに変えていく加工法で、農産物を育つままに任せるのではなく、そこに秘められた力を引き出すやり方と言えそうだ。子供の才能を伸すようなイメージだろうか。そこに農業が持続するための一つの道がある。

 香寺ハーブ・ガーデンは1985年、代表を務める福岡讓一氏(58歳)が脱サラをして設立した。当時は、ハーブに対する理解が充分とは言えず、レストランでも主となる食材の単なる添え物として扱われていたが、福岡氏は「何故ハーブを添えるのか」と興味を持ち、あちこちのレストランを回って勉強し、世界中も回った。ハーブを文化としている外国では、ある農家に宿泊したおり、「風邪をひかないようにとカモミールティーが出され、その茶がらを子供たちが引き取ってさらに香りとして利用している」など、ハーブの文化がしっかりと根付き、世代を越えて伝わっている現状を目にした。その中でますますハーブの魅力に曳かれていき、ついには福岡氏の父がお米を作っていた香寺町のその場所にレストランを開店。自ら栽培し、収穫したハーブを使った料理やハーブパンを提供し、フレッシュハーブを他のレストランなどに販売する事業をスタートさせた。

 しかしハーブの探求はそこに留まらず、「研究開発型のハーブ園」としてもっと深くへ、さらに先へと進み、大学の研究者などの協力も得てハーブからエッセンシャルオイルを抽出する装置を開発した。それによりハーブの香りを形として取り出すことができるようになり、6次産業へと大きく踏み出していく。

 同社で総務課長・企画課長を務める黒瀧陽子氏にこれまでの経緯や展望を聞いた。現在は農薬や除草剤を使用せずにハーブを育て、独自の発酵技術を組み合わせながら、エッセンシャルオイルを抽出している他、ハーブティーやパン、ケーキ、化粧品などを製造販売している。またハーブを使った“素肌美人茶”も開発するなどラインナップを広げている。

 その中で商品のブランディングも進め、地元播磨産の原材料にこだわり、しっかりとした生産履歴の元、安心して使用できるものを播磨物語として展開している。例えばゆずは隣町の安富ゆず組合から無農薬のゆずを調達し、“ゆずハーブティー”や“ゆずのエッセンシャルオイル”を作っている。地元生産者と連携することで、地域の活性化にも繋がっている。

 販売に関しては本店ショップ、姫路や大阪の直営店、ネットショップの他、大手量販店の東急ハンズ、医薬品メーカー、総菜製造会社等に及び広い取引となっている。商品の購入者層は、普段の生活や健康に高い関心を持っている人が多いようで、既存の商品では求めるものが得られず、心身の不調を解消したいとハーブの効用に期待している人も少なくない。「そういう方々に安心して使って頂きたい」との思いが無農薬栽培原料を使う等の商品作りに反映されている。それに応えて「ずっと使って頂けるお客様が多く、商品情報やイベントの開催が口コミで伝わっていく」。ユーザーに商品や企業に対する強い愛着を感じる。少しでも良いものを作ろうと研究を重ねている姿勢が評価に繋がっているようだ。また、海外の展示会にも出品し、その折に現地の人たちと交流を重ね、現在はフランスにも販路を持っている。高い商品力や「地域と連携している取り組みに共感して頂いている」とのことで、それもまた商品の魅力になっている。

ハーブを中核にした地域活性化

 ハーブの栽培に関しては自社農園で栽培しているほか、主力は近隣の夢前町山之内地区での委託栽培。「現在は1haの農地が露地で10ヶ所ほどになり、20種類ぐらいのハーブが育てられています。自治会が管理し、ここで作られたハーブはほぼ全量、香寺ハーブ・ガーデンが買い取っています」。元々は2011年に、廃校となった山之内小学校を姫路市から借り受け、そこで化粧品などの製造を始めたことがきっかけ。操業を続けていくうち、しだいに地域との関係が深まっていった。

 山之内地区は山間にあって、集落を後にする人も多く、若い人が減少する中で高齢化が進み、「限界集落と呼ばれる地域」になっていた。その中で耕作放棄地も目立つようになり、そこを活用する形で無農薬によるハーブの栽培が始まった。香寺ハーブ・ガーデンにとっては、ハーブの需要量を確保し、製造と販売に注力することの助けになる。山之内地区では集落内の荒れ地を減少することに繋がり、加えて利益を得ることにもなり、限界集落に仕事を生み出す取り組みとなっている。現在は工場の目の前でカモミールなどが栽培され、それを小学校内の工場で加工し、化粧水などが作られている。「鮮度が落ちないうちに抽出することで品質を高める」ことができ、また目の前に工場があることから、運送代などの「コスト削減」にもなっている。また「ハーブは栽培する場所、収穫の時期によってその香りが異なってくる」。加えて「空気と水が綺麗で、あまり暑すぎないのでハーブには良い環境」ということで、山之内地区ならではの個性豊かなハーブが生み出されることになる。余所にないものが作れるということで、商品にとっては、大きな魅力になる。これらを山之内シリーズとしてブランド化し、「その商品によって得られた利益の半分は山之内連合自治会へ還元しています」。6次産業を進める企業活動が地域の活性化にも大きく繋がっている。

本質を見据え現状を変えていく

 地域に対する取り組みは、それだけに留まらず、大きな広がりも持ち始めている。「毎年5月ぐらいに収穫体験として、地区で育てたカモミールを摘んで下さるボランティアを募っています。200人ぐらいが来てくださり、このときは、地区の平均年齢が10歳ぐらい若返る」。都市部と農村の交流が積極的に進められている。若者が集落を離れ、子供の数が減り、学校が統廃合し、近くの診療所がなくなり、バスも本数を減らしていくという、集落の存続が危ぶまれる限界集落の状態だが、農業の活性化が地域再生のきっかけにもなっている。「様々な連携活動を行う中で地区の皆さんに忙しいと言ってもらっている」。そこに漂う楽しげな活気が伝わってくる。

 ただ、70代、80代の高齢者が多いことは事実。仕事は喜びに繋がるが、大きな労働負荷は負担にもなる。ハーブは軽量な作物で、ミントなどは移植作業もなく、「地下茎を通して勝手に生えてくる」が、「現在収穫は全て手摘みで行っていて、収穫を省力化する機械などがないかと考えています」。加えて、除草剤を使わずに栽培しているため、下草の処理も大きな負担となっている。如何に作業を軽労化していくかは事業を継続拡大するための課題だ。

 またそれと共に地域を持続していくためには、地区に人を増やすことも必要だ。現在、香寺ハーブ・ガーデンと山之内地区では「ヒポクラテスビレッジ構想」に取り組んでいる。“食べることによって病を治す”という医学の父と呼ばれるヒポクラテスの考えに由来したもので、“農と医と食の融合”を掲げている。「神戸大学の医学部などと協力し、健康をチェックする施設を設け、それに基づいて食事などを提供する」。それぞれの人に合った食事・適度な運動・心の栄養・土に触れることで更なる健康増進を図るというもので、地域資源を有効に活用しながら多様な展開が検討されている。Uターン・Iターンした若者が農業で食べていけるような農業のイノベーションを考え、廃校となった幼稚園や小学校を活用した農家レストラン・農カフェを作るなど、外部との交流を積極化し、仕事を作り、若い力を呼び込む。地区が持続していくための仕組み作りが進められている。

 これらの取り組みの要となっているのが人と人との繋がりだ。山之内地区との繋がり、山之内地区を応援してくれる人達との繋がり、ユーザーとの繋がりなど、それは人が人を呼ぶように拡張し、海外への販路にも繋がっている。また研究者との繋がりも深く、様々な商品開発の原動力となっている。その中から生まれたものに、野菜から抽出した不凍タンパク質がある。「関西大学様との共同研究で、大根から不凍たんぱく質を抽出することに成功しました。でんぷんの老化を防止する作用があり、冷解凍時の水分離水を減らして冷凍食品の品質を保持したり、これまでの食品添加物に変わる様々な可能性があります。また壁紙の糊に添加してシックハウス症候群を防ぐことや臓器の保存液など医療関係でも使えるかも知れません」。様々な利用が考えられ、将来性のある有望な技術として商品化を進め、本格的展開を図っている。

 食品を単に食べるものとしてだけ考えるのではなく、本質を捉え、それを価値として形にすることに6次産業の大きな可能性があると感じた。その発想が商品に新たな魅力を見いだし、見慣れたもの、当たり前のものを、新しいもの変えていくことになる。それは地域に対しても同じ事で、地域を加工することとも言えるかも知れないが、本質を見据え、その中にある魅力を多様な角度から形として取り出していくことで、既存のうまくいっていなかった現状を新しいものに変えていくことになる。その歩みを重ねることが地域の活性化に繋がるに違いない。自身が作る作物、住んでいる地域、その現状にも可能性は潜む。

 


農産物の売れる仕組みを考える「地元野菜を高い鮮度で安定供給」
取材先:株式会社滋賀有機ネットワーク、栗東有機栽培グループ
2016年2月号掲載

 物がない時代に物を売っているのではない。加えてTPP以降は多くの国々から安い物が集まってくるわけで、まさにその状況が加速する。多々ある選択肢の中で、需要者から選び続けられることは容易ではない。食糧難の時代の農産物ならば出せば売れる。車やテレビが世に出た時も似たようなもので、その時は如何に効率良く大量に生産するかが重要で供給サイドのあり方が問われる。しかし今は需要者の気持ちが大切。ただ作るだけでは利益に繋がらない。分かっていても旧態を改めることは難しいのだが。農業を持続していくためには、売れる仕組みづくりを如何に構築するかが問われる。滋賀県で契約栽培を基本に、質良く鮮度の高いものを生み出す農業を取材した。期待に応え続けることで農業存続の場所を確保する。

 

 
▲有機農産物が作られるハウス▲水菜▲出荷前のほうれん草

 

環境にこだわった農産物などの契約栽培

 ㈱滋賀有機ネットワークは県内生産物の販売窓口として生産者の有志が出資し1994年に設立された会社。“食の安全”、“健康のための農業”、“環境保全型農業”を目指す農業者ネットワーク組織の生産と販売を統括的に行い、提携した生産者の“滋賀県環境こだわり農産物”などを『顔が見える、声が伝わる、産直』として、“生活協同組合コープしが”が展開する無店舗形態の宅配サービスをメインにして販売を行っている。“コープしが”と共同出資して建設した青果産直センターを集出荷の拠点として活動し、ネットワークには県内の生産農家約80戸が登録。消費者への産直を後押している。

 同社が出来る前から、各農協が県内の生協と産直取引を行っていたが、「21年前に県内4生協が合併することになり、それに伴って、消費者団体が大きくなるのなら、生産者も大きくならなければと各組織が連携して販売会社を作ることになりました」。同社の代表取締役を務める田井中年人(54歳)さんが教えてくれた。現在ネットワークには栗東有機栽培グループ、大中の湖産直連合、安土産直部会などの生産者グループが所属し、栽培技術の向上、産直流通の拡大と農産物の安定供給を進めている。

 出荷する作物は小松菜、水菜、ほうれん草、ミニトマト、トマト、ブロッコリー、キャベツ、大根、人参、玉ねぎ、信長ねぎ、豊浦ねぎなど多彩に取り揃え、その上で所属している各産地が競合しないように生産物の棲み分けが行われている。収穫された野菜は“コープしが”をメインに出荷されるが店頭には並ばず、「チラシなどを見て消費者の方が欲しい物を注文する形です」。地元でとれた鮮度の良いものが宅配で届けられる販売方法の中で展開されている。「21年やってきて、最近、数字的には順調です」と、生産者とのネットワークで質良く鮮度の高いものを契約栽培し販売する事業がこの地でうまく成り立っているようだ。ただ、ネットワークに属する産地の中には、後継者が少なく高齢化が進んでいる所もあり、根菜などの重量野菜は負担が大きいと農業を離れる人もいて、品目によっては減ってきているものもある。一方で小松菜、水菜、ほうれん草など葉物をメインに栽培している栗東有機栽培グループでは、20代後半の若手など非農家からの新規就農者もいて、20名が所属し、意欲的な農業経営が行われ、小松菜などの栽培規模も拡大している。

 変化していく農業環境の中で、良い材料も悪い材料も受け入れながら、ネットワークが持つ多様性を発揮し、全体としては明日に繋がる展開となっている。

 取り組みを始めた当初は、環境へのこだわり等が付加価値として大きかったが、時代と共に安全安心ということが「段々と当然のこととなってきていますので、最近はどちらかと言えば鮮度の高い産直という切り口です」。地元で作ったものの安心感、収穫から販売に至る流通距離の短さなど、地産地消のメリットを活かした販売が行われている。それは需要者の気持ちに寄り添ったものともいえ、その期待に応え続けようとすることが、売ることを意識した生産に繋がり、農家を単なる生産者から農業経営者へと変えていく事にもなる。

 ただ、期待に応えていくことは簡単なことではない。生産者サイドの課題としては、「契約栽培なので出荷量を安定させなければなりませんが、天候によって左右もされます」と、栗東有機栽培グループで会長務める藤田真吾(35歳)さんがその難しさを教えてくれた。「契約販売ですから例えば100の商品を持っていって、その中の一つが基準を満たさないものだったら、すぐに基準を満たす新しい商品を持っていかなければなりません」。最近は滋賀県の他、四国や北陸、関東などとも取引があるが、クレームがあれば「小松菜を5袋積んで、四国まで運送の人に走ってもらうということにもなる」。元来、農産物は様々な自然条件によって左右されるわけで、常に安定的な出荷を求められることに対するリスクは少なくない。しかしだからこそ、その課題に挑んでいくことが付加価値を産むことに繋がっている。

 藤田さんは非農家出身の新規就農者。現在は5年目でハウス1ha、路地4haで、小松菜、ほうれん草、水菜を栽培し、「専業農家として食べていける」状態だ。農業経営が難しい時代の中で、そういう状況にあることが、物を売る仕組みが有効に働いていることを示している。それが安定した農家経営を実現している。栗東有機栽培グループでは、新規就農者が継続的に入ってくる状態で、グループとしての活力は高い。若い新規就農者に幾ら情熱があったとしも、単独で一から農業を始めることは多大な困難を伴う。この地の取り組みのように、安定した価格で売る仕組みを持った組織に属することのメリットは大きい。

選ばれるためのマーケティング

 しっかりと売る時のことを考えてから生産を行う。これからの農業においては無くてはならない考え方だ。土地の条件に合うからと言って闇雲にどこにでもある当たり前の作物を作り、後はただ共同出荷によって市場の需給に従っていたのでは、時々の価格に翻弄され、持続的な経営は難しい。つまり農家としてやっていくためには売れる仕組みを意識して、生産を行っていくことが求められる。どのような生産物を、どのように作り、どのように販売していくのか。他の産業ではマーケティングとしてやっていることが、農業を経営として見た場合には必要になってくる。

 例えばマーケティングを実行するためには4Pという考え方があり、製品政策(Product)、価格政策(Price)、流通チャネル政策(Place)、広告・販売促進政策(Promotion)の4つの要素(頭文字がP)を組み合わせて実行していく。それに沿って、滋賀有機ネットワークの取り組みを考えてみると、まず製品政策として、他の農産物との差別化が行われている。“滋賀県環境こだわり農産物”などを基本にして、安全安心を確保し、地元産としての親しみや鮮度の高さを特徴として、消費者の選択を求める。また、実際に使われる場面を想定し、近年増えている「小家族向けに、少量のグラムバリエーションを設ける」ことや、「水菜などは、夏はサラダ、冬は鍋用と用途が違うので、それに合わせて、茎の太さを調整して栽培しています」と、ニーズに合わせた展開を行い、買ってくれる人の気持ちを反映させている。課題は、ネットワークとして「他の生産者団体とも組織的に広げていければと思っている」と、今扱っている品目以外の農産物を増やし、品揃えを充実させることなどが考えられている。

 価格政策においては、「契約栽培という形の中で価格が決まっていますので、経営の見通しが立ちます」と予め決められた価格の中で展開している。市場に出荷するのなら、需給動向を見ながら、品薄で値が上がる時を見計らい、“一発当てる”というように大きな利益を追求する方法もあるが、一方で価格が下落し、生産コストを割ってしまうリスクもあり、長期的な見通しを立てることは難しい。ギャンブル性を除くことで経営を安定化させ再生産を確実なものにしている。それは調製作業でパートとして働いている地域の人達にとっても、安心して働ける雇用先となる。ただ価格の柔軟性が少ない分、「大手量販店などでは、小松菜の値段を下げて、お客の呼び込みに使うこともあります」と、競争志向型の価格設定を行う量販店と消費者の選択を争うこともある。

 流通チャネル政策(Place)は、どのような経路で、どこに売るかということになるが、“コープしが”との強い繋がりを基本にした無店舗販売が大きな特徴になっていて、その方法が商品価値を高めることになっている。まず、地元で生産した物を地元で売るということが、生産物に対する信頼感の醸成に役立ち、鮮度の高い物を提供することに繋がっている。また店頭に並ばないことで、他産地の品との直接的な競合を避け、価格の維持に貢献している。課題としては柱となる流通経路が太いため、その環境変化の影響が大きくなるが、現在は京都、奈良、大阪、北陸、四国、関東にも販売先を広げリスクヘッジと売上げの拡大に繋げている。

 最後はコミュニケーション政策。どんなに素晴らしい商品でも消費者に知ってもらわなければ販売には結びつかない。どんな場所でどんなふうに作っているのか。産地では年に数回、産地見学として消費者に畑を見学して貰い、収穫体験などを実施している。また「学習会としてこちらからお伺いし、生協の組合さんとの交流会も行っています」。それらの取り組みが注文数にも反映する。

売るための仕組み、戦略が必要

 様々な工夫が売れる仕組み作りを構築しているが、キーとなるのは、“安心で新鮮な地元産を食卓に届ける” ということになりそうだ。これをしっかりと抑えることで、農業を経営として持続する道を確保している。また、地元産のメリットを活かすということは、他産地からの参入をしづらくさせるという効果もある。同品質の農産物であれば、親近感、鮮度の問題で地元の物が選ばれる可能性は高い。それを強固な流通チャネルの中で展開することで経営を安定化させていく。それが新規就農者を迎える素地ともなり、地域農業の活力に繋がるに違いない。

 物がない時代に物を売っているのではない。つまり幾らでも周囲に代替するものがあるということだ。消費者はその中で少しでも有利な選択を行う。価格や品質、利便性、あるいはステータスや人間関係も購入における検討項目になる。日本農業が持続していくためには売ることまでしっかり考えた農業が必要になるが、そのためには需要者、消費者に選択してもらえる、しっかりとした仕組み、戦略が必要だと強く感じた。


WCSの生産で耕種と畜種をサポート
取材先:滋賀県 株式会社グリーンサポート楽農、和田喜蔵さん、株式会社ウッドベル鈴木牧場
2015年12月号掲載

 それぞれの活動がお互いの利益に繋がっていく耕畜連携において、存在感を発揮しているのがコントラクターだ。両者の間に立つことで、連携を取り持ち、地域農業の維持や耕作放棄地の解消に貢献している。今回滋賀県でJAの子会社として設立されたコントラクターを取材し地域をサポートする活動を追った。その中から耕種・畜産・コントラクターそれぞれの三者の立場から見える耕畜連携が目指すものを探った。

 

 
▲機械を使って効率よく生産▲刈り取り、ロールの生産▲牛の喰いも良い

 

耕種と畜産を繋ぐコントラクター
 滋賀県にあって東を鈴鹿山脈、西を琵琶湖に接する南東部湖東平野を管内に置いているのがJAグリーン近江。その100%出資子会社が株式会社グリーンサポート楽農だ。JAと共同して地域の耕畜連携をサポートしている。グリーンサポート楽農がコントラクターとして、耕種農家や畜産農家から作業委託を受け、WCSの収穫作業を行い、収穫後のWCSはJAグリーン近江が畜産農家へ向けて販売している。滋賀県は麦・大豆を転作作物としている地域が多いが、グリーン近江管内の山間地は湿気が多く、麦・大豆が栽培しにくい。そこで、飼料用米やWCSでの転作を促している。グリーンサポート楽農設立以前も一部地域では耕畜連携が行われていたが、それほど活発ではなく、麦が作りにくい地域の農家からの“お金になる転作をしたい”や畜産農家の“もう少し飼料が欲しい”との声が形になっていなかった。そこで販売先を見つけるので取り組んでみてはどうか、と飼料用作物栽培の提案も行っている。
 グリーンサポート楽農は平成18年に設立されたものだが、設立時は今の形態ではなく、転作助成に関して小規模農家が要件を満たすための役割を担っていた。当時、規模の小さな農家は条件が合わず、転作をしても助成の枠組みには入れなかった。そこで同社が小規模農家をまとめ、制度の対象となってきたのだ。ところが、政権交代後、民主党政権が2010年度より農業者戸別所得補償制度を実施。認定農家でなくても助成対象となり、そこで新たな役割として「小さな集落や点在している農家に対して今までとは違う形で還元していくのはどうだろうとなり、WCS専用機や田植機などを購入し作業受託組織となった」とJAグリーン近江営農振興課兼グリーンサポート楽農職員の和田洋さんが教えてくれた。
 平成22年度よりWCS収穫作業の受託を開始し、当初は約5haだった受託面積は平成27年度には約42haと年々拡大している。8月下旬~11月中旬には収穫・ラッピング・納品作業を行い、280~300・/ロールほどのWCSを生産。タカキタの細断型ホールクロップ収穫機WB1030と自走ラップマシーンSW1110Wを使用している。収穫時期が長いのは、「青い内に刈ったものでも良い」や「しっかりと田んぼで乾かしてからロールにして欲しい」といった販売先である畜産農家の声に耳を傾けているからだ。また、従業員は専属ではなく、JAグリーン近江の職員が兼任で作業しているほか、アルバイトとして地域の農家にも作業を依頼している。現在ではWCSの収穫以外にも、畜産農家が作った堆肥を肥料として販売・散布したり、田植えや播種、耕うん作業なども行っている。その実際を知るため管内でも有数の栽培面積を手掛け、グリーンサポート楽農でオペレーターとして活動している和田喜蔵さん(67歳)を訪ねた。


WCSは機械化されて栽培しやすい
 和田さんは東近江市で、WCS9ha、主食用米36ha、酒米18ha、その他大豆、麦、ねぎなどの野菜を栽培している。飼料用として育てた稲がWCSとなって畜産農家にわたり、替わりに得た堆肥を1反当たり2tを播くなど循環型の耕畜連携を実施している。
 3、4年ほど前からグリーンサポート楽農にWCSの収穫作業を委託している。収穫は9ha全てを委託しているが、ロールの販売については、自己流通とJAグリーン近江への委託を半分ずつ分けている。以前は県の貸し出し作業機を使用して自らWCSの収穫作業を行っていたが、「委託するこで、コストは多少かかるが、作業機の保管場所とメンテナンスの必要性がないことがメリット」と話す。管内では、ロールの販売作業を独自に行い、収穫作業だけを委託する事例が最も多い。専用作業機を持っていなかったり、あったとしても経年劣化が進んでいたり、加えて作業者の高齢化などが主な理由だという。WCSの栽培に対しては「甘いものではない」と厳しい。現在1反当たり8万円の補助金が交付されているが、販売価格自体が安く、専用機を所有するにしても委託するにしても経費がかかるのが現実だ。しかし利点が多いのも事実だ。「栽培すると減反面積に数えることができ、収穫時期をずらすなど作業の分散にもなる。あとは麦・大豆が適地でない所でも作れ、放棄地にもなりにくい」。和田さんの周辺には耕作放棄地がなく、「むしろ取り合いになるほど」らしい。また、WCSの栽培作業は全て機械化されており、主食用米ほど品質を問われないことから栽培もしやすい。さらに、耕畜連携として国産の飼料を畜産農家に提供することで、安全安心な飼料の確保に貢献し、自給率向上に貢献している。その国産飼料を管内で最も多く購入している畜産農家にも話を伺った。
先進的経営の中にWCSを取り入れる
 近江八幡市大中町で酪農を営んでいるのが株式会社ウッドベル鈴木牧場。現在ホルスタインを215頭飼育し、先進的な取り組みを行っている。飼育方法としては、従来のような1頭ずつを柵で隔てて、紐で繋げる方法ではなく、小屋内で放し飼いを行い、牛にかかるストレスを軽減させることで、良好な健康状態の確保に努めている。搾乳作業に関しては1頭ずつ搾乳する方法ではなく、牛の一群を搾乳装置のある場所へ移動させ、1度に20頭を同時に搾乳する。この仕組みでは、オペレーターは屈まなくても作業が出来、腰を痛めず、作業の省力化、効率化も実現する。また、牛は1頭ずつ識別され、事務所のモニターには各牛の搾乳・繁殖状況などが適時表示されている。新しいことを積極的に取り入れた、酪農経営が行われている。
 その鈴木牧場では飼料として自作飼料を栽培しているほか、JAグリーン近江からWCSを購入し、月間120ロールほど使用している。通常、販売したロールは直接畜産農家へ運搬されるが、鈴木牧場のように大量に必要な所へは一時的にJAグリーン近江の各倉庫に保存される。そんなふうに施設を利用できるのはJAの利点だ。WCSの品質について同牧場の鈴木隆良さん(63歳)は「当初からしたらかなり良くなった」と話す。グリーンサポート楽農がコントラクター事業を開始した当時は、WCSの品質も各耕種農家によって異なっていた。そこで畜産農家の要望もあり、グリーンサポート楽農が耕種農家へ栽培指導することで品質向上に繋げた。また、ロールの購入だけでなく、同牧場は糞尿を堆肥化し、耕種農家へ販売している。鈴木さんは「堆肥化は畜産と直接関係ないが、耕種農家としてはコスト面などから堆肥を使うことが良いのでは。そのかわりWCSを安くして貰っている。持ちつ持たれつ、それが耕畜連携だと思う」と語る。同牧場では牛床に堆肥を播くこともあり、堆肥化する際には菌を注入し発酵を促している。「糞尿はそのまま処分できないので、使って貰って土地に還元できたら嬉しい」。
それぞれが目指す所は同じ
 この地域では一連の耕畜連携に携わる耕種農家、畜産農家、その間を繋ぐJAグリーンサポート楽農それぞれに取り組みの狙いがあり、それがうまくかみ合って連携が出来ていた。
 耕種農家は減反政策への対応と耕作放棄地の解消を目指し、畜産農家は安全安心な国産飼料の確保と糞尿処理を目的とし、その間を取り持つグリーンサポート楽農は耕畜連携を通して地域農業の維持を図っている。JAは地域の農家をサポートするのが役目であり、それを果たすためにも作業受託が大きな役割となっているようだ。各農家との繋がりを緊密にすることで、地域のつながりは深まっていく。グリーンサポート楽農の和田さんは「今は作業受託などの実作業を通して農家さんのお手伝いをしている。それがきっかけで足繁くやり取りする所も増えてきています」と繋がりが深まっていることを実感しているようだ。
 地域の課題としては米価や乳価の下落のほか、後継者不足が大きな問題となっている。耕種農家の和田さんは「地元で生産グループを作って、大手スーパーなどに野菜を卸せるようになり、若い人が取り組めるような農業を行うのが夢」とし、「かつては3Kと言われていたが、これからの農業は、みんなでたくさん給料を貰って戦わないといけない。農業は栽培や販売など課題も多いが、それを楽しみながらできる環境になれば」と話してくれた。
 畜産農家の鈴木さんは、目に見える形で周囲の同業者が減っていると言い、後継者がいないことが一番の理由と述べる。同牧場では現在、鈴木さんの息子さん3人が従事しており、「うちは後継者がいるから心配ないけど、酪農全体で見ると不安。酪農に夢が持てるというか、若い者にもやりがいが持てる仕事になれば、新規就農などで入ってくる人も増えるのでは」。同牧場は法人化したこともあり、「1週間に1度交代で休みを取っている。昔と違い今は休みをきちんと取れるようにしないといけない」と働く環境の改善も必要とした。
 耕種・畜産ともに、“夢を持てる職業”にすることが後継者不足を解消する一つの手段であり、現在の作業環境や経済状況の改善が望まれている。それを踏まえて「大規模でやらないとやっていけない時代になっている」と和田洋さんは言う。もっと組織的で効率を重視した集落営農を作らないといけないという。高齢化や後継者不足に加え、TPPが迫る中、個で立ち向かうことは心許ない。これからの農業では、力を合わせることが重要な要素となってくるようだ。
 また連携は生産者の効率や利益だけを重視していくのではなく、地域との繋がりも必要。「地域社会との繋がりが薄くなればそこに軋轢が生まれます。農業と縁が切れた人にとっては騒音や臭いが問題となり、農業がしにくい環境になる」と和田洋さん。農業は他の産業に比べ、地域環境への依存度が高い。それを十分踏まえて、地域に対する貢献や環境の維持が重要になってくる。耕畜連携はまさに、その取り組みをより積極的に行う活動とも言えそうだ。耕種には耕種の、畜産には畜産の課題があり、それを乗り越えるために懸命な努力が行われているが、目指す所は繋がっていると感じた。そこに辿り着くための方法として耕畜連携があり、地域農業の持続に大きな貢献を果たすに違いない。

 


スマート農業への挑戦
スマートを現場の力に 情報活用で地域農業を強く                        
取材先:滋賀県守山市JAおうみ冨士 ファーマーズ・マーケットおうみんち出荷農家パナソニック株式会社アプライアンス社
2015年11月号掲載

 街角で独り言を言っている人が実は小型のイヤホンマイクで携帯電話の最中なんてことがある。100年ぐらい前の人が見たらどう思うだろうか。まるで魔法だと思えるようなことが現実化している。小さな無人ヘリコプターは飛んでいるし、掃除機は自分で考えて勝手に仕事をする。その流れは農業の世界にも広がり、お米の品質は収穫とともにタンパクの含有量が判明し、圃場では無人のトラクタが動き始めた。スマートな農業が始まろうとしている。日本農業をどんな世界に導いていくのだろうか。生産現場に実証導入された事例を元に生産の現場で実際に役立つ力を考えたい。

 

 
▲小松菜をスマートフォンで撮影▲農業が盛んにおこなわれている▲指導員がタブレットでチェック

 

 

生産者と営農指導員を繋げる
 スマート農業とは何だろうか。あちらこちらでその名を聞くようになり、便利な農業というイメージだが、ハウスに自動扉をつけることではないし、エンジンをモーターに変えることとも違う。新しい技術を単に取り入れただけではスマートとは呼べない。しかし、温度を自動的に感知し、ハウスの窓をそれに応じて開閉するのならスマートだ。賢い農業とも言える。大きく捉えれば栽培から販売に至るまでの情報をデータ化し蓄積して利用することがスマート農業と言えるのではないだろうか。これまでの農機が手足の拡張とするならば、スマート農業は機械化に情報化を加え感覚と知性の拡張も備えたものと言えそうだ。それが農業の新しい扉を開いていく。
 滋賀県のJAおうみ冨士でスマート農業の実証試験が始まった。パナソニックが開発したクラウドシステム「栽培ナビ」を利用したもので、スマートフォンなどの端末を使用し、営農指導員と生産者を双方向に繋ぐもの。営農指導を強化することによって、生産者の技術力をあげ、それが所得の向上に繋がれば、地域農業の活性化にも結びついていくとして、この秋から60人超の生産者で実証試験が始まっている。大規模農家向けというよりも、中小規模農家の営農をきめ細かくサポートしていく。
 開発に当たったパナソニック株式会社アプライアンス社の新規事業開発部に所属する若林勇文課長は、「これからの日本を考えた場合、農業は欠かせない」と、農業分野に製品展開した意義を示す。開発したシステムは、“栽培日誌、栽培計画、農薬管理、営農ひろば”などから構成され日々の営農をデータ化し、効率的なコミュニケーションを図るものとなっている。
 例えば栽培日誌は作業の予定、実績を記録するだけではなく、音声データや画像も記録し、非言語的な記録も効率的に行うことができる。また圃場別、作物別に使用した農薬履歴も管理し、しっかりとしたトレーサビリティーの確保に貢献する。栽培計画では戦略的な立案を支援し、現場農家の実際に合った畝単位での年間栽培計画も可能となっている。農薬管理は生産者に使用できる農薬を推奨したり、地域に適合した農薬のデータベースとなる。そしてコミュニケーショに関しては、営農ひろばの活用があり、営農指導員と生産者を相互に結び付ける。
 従来病害虫が発生した場合は営農指導員がその都度現場へ駆けつけ状況を確認し、適切な対処を施してきたが、「現在1人の指導員が数百人もカバーしなければならない状況で、しっかりと対応する負担が多くなっています」と、今の現状についてJAおうみ冨士食育園芸部の川端均部長が教えてくれた。「不測の事態があれば、営農指導員と生産者がひざを突き合わせて相談するのが基本」だが、どうしても時間的に対処することができないこともあり、そこでICTの活用が大きな力となる。例えば圃場に虫が出たということであれば、生産者はスマートフォンで写真を撮り、その虫、あるいは被害にあった葉を営農ひろばに送る。すると営農指導員がそれを見て専門的知識からどうすれは良いのかの判断を行い、即時的な対応が可能となる。また、全ての営農指導員はその情報を共有できるのでベテラン指導員の知識を活用することもできる。それにより指導員全体の力が向上する。JAおうみ冨士の河野政博指導員は、「電話だけで状況を教えて頂くより、実際の写真を送って頂いてそれを見た方が分かりやすい」と、実際に使ってみてその効果を実感しているようだ。また農薬の使用履歴がデジタルデータとしてしっかり残されていれば、「適正な農薬が使われているかどうかのチェックが容易になる」と、指導員の負担軽減に繋がる。JAにとっては生産者の農薬在庫を把握することができ、適切な農薬使用を働きかけることができる。

現場生産者の要望に応える
 実証試験に参加している生産者の中で、まだ経験の浅い人たちにとって、その知識と経験を補うことのメリットは大きいようだ。JAおうみ冨士の直売所“おうみんち”に出荷する新規就農者は、「知らないことが多く、単に水をやるだけでも、どんな道具を使って、どんなふうにやれば良いのかがわからない」。そういう中で営農ひろばなどを使って、営農指導員と気軽に情報交換できることのメリットは大きい。また栽培日誌の中では、予定と実績を記録していくことができる。新規就農者の場合、経験が浅く、事前にしっかりとした予定を立てていかなければ作業が滞ってしまう事も少なくない。今蒔いた種がいつ収穫できるのか。それをしっかりデータとして残していくことが、計画的な農業経営に繋がっていく。また日誌は生産者のGAPで求められる履歴管理や資料の元データとして活用することができる。「事務作業にストレスがかからないようにして、時間という有効な資源を効率的に使って欲しい」と川端部長。
 先の新規就農者の場合、現在は手書きのノートで日誌を付けているが、出荷の際に求められる栽培履歴の作成では大変な手間と労力がかかっている。「ICTを使えば、検索が楽。整理された状態で情報が取り出せるようになれば、大変楽になるだろう」と期待は大きい。
 生産者の実際に即して役立つシステムとなること。それが最も大切なことだ。ICTの技術は年々高まり様々なことが可能となっているが、それを如何に求められる形にするかが問われている。開発は数年前から行われており、初期のバージョンは、生産現場の理解が浅く、その頃から試作品のユーザーとして参加している若手生産者の高寺智之さんにとっては、「使い勝手の悪いもの」だった。開発を担った若林課長は「最初は農業の事が全然分かりませんでした。それで、生産者の方々とヒアリングを重ね、実際の生産現場に入ってメロン栽培を体験するなどをして、使いやすいものにするためにはどうしたら良いのかを考えました」。まず、実際の農業を知る。そこから始め、様々な意見を取り入れながら、今回の実証試験に至った。「無茶な要望も取り入れて頂き、かなり使いやすくなっています」と高寺さん。例えば作付けされているものの管理では、区画ごとではなく畝ごとに作物を記録していくことができる。1枚の圃場で様々な作物を作っている実際の畑を踏まえたものだ。そのために手書きの入力も取り入れている。自然を相手にする農業の現場は「ばらつきが多い」。工業製品などに比べ、生産環境も生産物もより複雑で多様性に富んでいる。それに対応するためには、全てをフォーマットに落とし込むのではなく、有る程度臨機応変に対応できる自由な領域も必要な要件となるようだ。
 その領域を誰が担うのかでシステムの特性は分かれる。曖昧であやふやな状況を機械にやらせるのならビッグデータや人工知能(AI)の登場となるわけだが、それはもう少し先の話で、このシステムでは人間がその部分を担う。
 現場の情報整理に手書きの部分も取り入れたり、情報収集には、生産者の五感を活用する。そして情報の分析には営農指導員の知識や経験を生かす。例えば河野指導員は実際に現場に出かけ、圃場を歩いて足が沈めば湿気が多いと思い、ビニールハウスに露がついていればその下の作物の病気を心配する。機械ではなかなか難しいことだ。「システムだけで完璧を目指すのではなく、現場での判断を重視していく仕様にして欲しい」。それが現場から出された要望でもあった。それを受け、生産者と指導員のコミュニケーションを強化した、より現場に近いシステムが生まれた。


生産者の利益向上に貢献
 このシステムは知識と経験、あるいは記憶を補うことで、生産現場の効率化を図っていくが、その先は販売力の強化にも繋がりそうだ。
 高寺さんは出荷グループを形成し、契約栽培にもとづいて小松菜などの農産物を販売している。その中で、いつ、どれだけの量が収穫できるのか、その把握は経営を左右する重要事項だ。高寺さんは栽培ナビを使い、圃場ごとに収穫の時期、量を把握しているが、そういう機能がグループ全体で共有できればとも考えている。「グループ全員の状況がICTで管理できるようになれば、例えば来週出荷する量が用意出来るのか出来ないのか事前に分かり、仕入れの算段もスムーズに行える」。しっかり先を予測した計画を立てることが可能だ。また誰が、いつ、何を出荷できるのかが分かれば、仕入れる側にとっても購入しやすい。「例えば学校給食の入札にもかけやすくなるだろう」。生産者の利益向上まで図れれば、本当に役立つシステムとなるに違いない。
 地域のJAとしては、高齢化が進む中で、新規就農の割合を増やしその人たちの実力を上げていくことで所得を増やし地域農業を強くしていきたいとしている。その中でこのシステムの役割は決して小さなものではない。ベテラン農家にとっては記録を残すという事になり、新規就農者にとっては有能なガイドとなる。JAおうみ冨士守山営農センターの新野三代司センター長は「新しい人を惹き付けるためにはスマートさが大切。これからの農業にはそれが必要なんだろと思う」とし、川端部長は「農業が大変だという敷居を下げたい」と語った。栽培ナビはクラウドシステムのため、初期投資は低く、スマートフォン等があれば新たに用意するものはなく取り組みやすい。若林課長は、実証試験でさらにこのシステムを使い易くし「全国に展開していきたい」と意欲を見せる。
 高寺さんの夢は「農業を普通の仕事と変わらないように、会社員並みの給料がもらえる仕事にしたい」というもの。まだ独身だが、将来は家族を養って将来に夢を持てるような生活をということだ。食を生み出す意義ある仕事として、そうあるべきだと心から思う。また別の新規就農者の夢は「しっかりした利益と適正な休みがあって、自分が納得するものづくりができること」。それらの想いにスマート農業が一助となるに違いない。
 現場で収集するデータや栽培記録、作物の知識など、営農に必要な情報を必要な人あるいはシステムがストレスなくスムーズに受けとることができるようになること。それが農業の情報化、つまりスマート農業ではないだろうか。それが普及していく先に、生産者が活き活きと働く姿があるのかもしれない。少し前の人が見たらまるで魔法だと思うほど楽しそうな笑顔で。スマート農業に取り組み始めたこの現実の延長に、それがあることを期待したい。

 


有機で小さくても強い農業
人がつくるんじゃない、自然の力がつくる                        
取材先:山下農園 有機のがっこう『土佐自然塾』 2015年8月号掲載

 日本農業を成長産業にするとして、規模拡大が進められているが、それだけが日本農業を成長させ強くする方法ではない。世の動きを見れば、物事を統合、均一化し拡大化していく方向とは別に、大きく平均的な物から個性的なものへという流れもある。個人が発信者となるインターネットだってそうだし、様々なブランド化や林立する街角のラーメン屋だってそうだ。価値の多様化が進行している。農業も同じ事で平均点を超える価値ある農産物には大きな力がある。「そこに小規模農家の生き残る道がある」と語るのが山下一穂(65歳)さん。高知県の真ん中にある土佐郡で、農薬や化学肥料を使わない有機農業を実践し、ハイクオリティな農産物を生み出している。また、有機農業を普及するため“有機のがっこう『土佐自然塾』”も展開し、田舎からの国づくりを目指して人材育成に取り組む。山下さんは以前にも、本誌に登場した事があるが、その後の更なる展開にこれからのヒントを探る。

 

 

 
▲若者に思いを伝える ▲左が山下氏 ▲ホンダの耕耘機サ・ラ・ダ

 

 

自然の仕組みと密接に関わる
 48歳で新規就農。それ以前は東京でバンドマンとしてドラムを叩き、地元に戻って学習塾の講師も務めていたが、実家の畑を管理するうちに、有機農業の面白さに目覚める。「多種多様な生命が相互補完的に関わって循環していく自然の仕組みを、畑の中に凝縮し、再現するというクリエイティブさが面白い。僕の感性にフィットしました」。今は60種類の野菜を生産し「毎日が楽しい」と自然の仕組みと密接に関わりながら想像力に溢れた農業を展開している。
 その中から「マニュアルとルーティング作業の大規模生産からは生み出せないクオリティ」を実現した“綺麗で美味しい”有機野菜を生み出し、個人宅配や厳選した品物を扱うスーパー、品質にこだわるレストランに販売している。売上げは「10a当りの粗収益が、100万円を超しています。これならば小規模農家でもやっていけるはず」と、しっかりとした収益を確保する営農モデルを確立し、農業を持続していくための確かな実例を示している。現在は、注文に生産が追いつかない状況ともなっていて、「今の10倍ぐらいのオファーがきている」。
 幾ら品質が高くても、その価値をしっかりと認識してくれる消費者に届けなければ、価値に見合う対価を得ることはできない。各地で有機農業を実践する生産者、特に新規で始める者にとってはそこを課題とすることが多いが、山下さんの例を見ても、 “綺麗で美味しい”ハイクオリティな野菜を求める需要は決して小さなものではないことが分かる。求められるものを、求める人に届ける。至極当たり前で、それでいて困難の多い事だが、そういう規模で確かに需要者が存在するわけで、両者が繋がる方法は必ずどこかにあるはずだ。山下さんの方法も然り、その土地、その人に合った方法もまた然りだ。
 ただどういう方法を取るにせよ、農産物のクオリティを上げていくことは必須だ。山下さんの場合、自身で確立した“超自然農法”が大きな力を発揮している。
 「作物は人間がつくるんじゃない。自然がつくる。僕達がやれるのは畑の環境づくり」。雑草や緑肥を耕うん機などで土に鋤き込んで「畑をまるごと堆肥化」し、自然のサイクルを畑内に作り出して、生物多様性を確保する。これにより害虫を食べる天敵や、病原菌の働きを抑制する微生物が活動し、農薬や化学肥料を使わずに農産物が健やかに育っていく。自然界の仕組みを最大限活かし、人為的な事を極力少なくしていく方法だ。実際の方法は近著の「無農薬野菜づくりの新鉄則(山下一穂著・Gakken発行)」に詳しい。
 収穫された野菜は形が綺麗で雑味がなく、“優しい”味で、店頭に並べば他の野菜に先んじてどんどん売れていく。消費者の選択が評価を表している。そこには有機農業で栽培されたものだから買うといった行動もあるが、 “見た目が美しく、食べれば美味しい”という、消費者が素直な気持ちで選んだ購買の方が多いようで、「有機農業というくくりではなく、クオリティを問うことが大切」。そこに中山間地の農業が力強く生き残っていく術がある。それを学ぶ場所が“有機のがっこう『土佐自然塾』”。山下さんが校長を務め、今年10年目を迎えた。


自然の仕組みを学び、感性を磨く
 今年4月から9人の塾生達が学び始め、小規模でもハイクオリティな農産物を生産する農業に取り組んでいる。そこではマニュアルからは生み出せない品質が目指され、農業に対するセンスを培うことが求められている。「素足と素手で土と作物に絶えず触れ、五感を研ぎ澄まして光と影、風の匂い、季節の変化などを感じ取ることが必要です」。それは自然の仕組みと密接に関わって生きると言うことでもあり、「心を楽な状態にしていく」。自然塾は2006年から始めて今10期生。卒業生は100人ほどに上る。学校を卒業してからの就農率は70%台後半と高く、生徒の意欲は旺盛だ。第9期卒業の佐竹洋明さんは「市民農園で何も収穫できなかった私が、今では作った野菜が売れるようになり夢のようです」と県内の南国市で有機農業に取り組む。「自然の働きを習う農業を学ぶ中で、人と自然とのあり方を体で実感していくことになりました。これは問題が山積みのこれからの時代に最も大切な視点だと思います。土佐自然塾は混沌としていた自分の心に光を見つけられた場所です」と、進むべき道を見つけた。第8期卒業の田畑勇太さんは県内の長岡郡で「土佐自然塾はとにかく美味しくて綺麗な野菜ができる。“なんでこんなに美味しい野菜ができるんだろう”、“自分も作りたい”」と、卒業した今でも塾での“成功”を思い描きながら学び続けている。
 「有機農業を広めたいという思いがあり、農業そのものの再生を目指しています」と山下さん。卒業生の中には広く活躍する人も現れてきており、日本農業を変えていく力が育っている。
 実際の作業現場では、センスに加えて労働の質も重要になる。如何に綺麗に、如何に速く作業をするのか。それが収益にも関わってくる。そこで力になっているのが農業機械。労力が必要となる畦づくりや耕うん作業などにホンダの管理機と耕うん機サ・ラ・ダFF500が使われ、「有機農業でも10aを超えれば機械がないとやっていけません」と、作業に貢献している。「バランスが良くて直進性が良いから、真っ直ぐな畦が立てられる」と、評価も高い。塾生達のような初心者にも使い易いようだ。FF500で作業をした女性塾生は「最初は女性の自分でも使えるかどうか心配でしたが、いざ使ってみると、ターンも簡単にでき、バランスが良くて、とっても使いやすいですね。イメージと違って楽に使え、ちょっとびっくりしました」との感想。正逆転ロータリーで土を抱き込まずにパワフルな耕うんができ、スピーディに仕上げる。また大径タイヤなので安定した作業が可能となっている。
小規模農家が農業を変える
 「日本の国土の70%が田舎と呼ばれる地域と中山間地。その中で大多数は小規模農家です。その人たちが技術に目覚め、腕によりをかけた農産物を作る時代になれば、農業は変わっていく」。今大規模化が各地で進められているが、そのメリットを充分発揮する生産条件に恵まれている場所は限られている。そこを無理して「規模を拡大しても中途半端になってうまくいかない」。その状況を勘案すれば、今一度品質を見つめ直すことに小規模農家が生き残っていく道の一つがある。
 現在有機農業が全耕地面積に占める割合は0.4%。需要を満たすのに充分な供給力とはなっていないが、つまりそれは大きなチャンスでもある。需要があるにも関わらず、供給が及んでいないわけだから、市場としては有望だ。うまく掴むことができれば、持続する農業を構築することに繋がる。また、0.4%とはこれまでの農業の仕組みが対応できていなかったということも表している。既存の主要な流通に乗せるのが難しい農産物を、如何に消費者のもとに届けるかなど課題もあり、新しい仕組みが求められる。
 そんな取り組みに加えて、新しい農業を構築するためには、人材の育成も不可欠だ。山下さんは塾生に対し、「自分の個性に合った想像力を発揮して、自分なりの感性を高め、それを磨いて、自分の営農のビジョンを作ってくれれば」という姿勢で、従来の農業にとらわれず、目の前の土にしっかりと触れながら、技術を高め、ハイクオリティな農産物を生み出すことができる生産者が一人でも多く増えることに力を注いでいる。その積み重ねが日本農業を強くしていくことになる。
 塾生には様々な経歴の持ち主がいる。研究職から生産者へ方向転換した人や元経営コンサルタント、元客室乗務員など。その個性が山下さんの有機農業を学ぶ中で、頼もしく成長していく。どんな花を付け、どんな実がなるのか、その色合いが日本農業の可能性であり、課題解決に対する力となるに違いない。
小さな農業が生き残って行く道
 山下さんの夢は「日本の農業を変えて美しい日本を取り戻す」こと。そのために様々な取り組みを行っているが、「僕の代だけでできることではありません。長い時間がかかります。同じ志を持つ仲間を増やし、次の世代の若い人たちにその思いを託していく」と長期的な視野に立っている。それは自然の仕組みを凝縮し、生物の多様性が確保された美しい農地を、価値ある財産として次世代に残していくと言うことでもある。バトンが受け渡されて行く先には魅力的な景色が広がっているに違いない。
 そんな思いを繋いでいく取り組みの一つに有機農業参入促進協議会がある。山下さんが代表理事を務め、セミナーや営農指針づくり、調査事業など民間で有機農業を推進するための様々な取り組みを行っている。「開かれた形で、多くの人と価値感を共有していきたい」。それは、これまでともすれば閉鎖的になりがちだった有機農業において、立場や所属に関わらずその枠を越え、広く共有を図って行くことになる。連携を進め、共に前を向いて歩んでいくのなら、有機農業と日本農業の未来はその姿を重ねていくだろう。
 「自然の仕組みと密接に関わって生きていく」。それが山下さんの農業に貫かれている思いだ。“人がつくるんじゃない、自然がつくる”。自然に蓄えられている様々な力を存分に引き出していく事で、農薬も化学肥料も使わずにハイクオリティな農産物が畑から生み出されていく。確かにそこに小さな農業が生き残っていく一つの道があった。
 一般的な大規模農業が土地を集め、資源を投入し、均一で平均的なものを生み出していく中で、自然を味方につけ、消費者の気持ちに沿った農産物を生産していく。そこに農業の持続があると感じた。「そんな農業に取り組む人たちが増え、そこで作られた農産物が消費者に行き渡っていけば、自然の仕組みをうまく循環させていく“品のある日本”に変わっていくと思う」。魅力的な明日がそこにある。


 

 

 

新しい人がもたらす農業の持続力
ニューファーマーが持っているもの                        
取材先:滋賀県守山市 みよし農園 2015年6月号掲載

 スポーツの世界では、“新人の活躍によりチームが優勝する”ということがたまにある。ビジネスの世界でも特別の知識と経験を有している者が異分野から新人として飛び込むことで成功を収めることがある。農業の世界でもそれは大いに期待するところで、新しい可能性を拓くきっかけになるかもしれない。ただ一般的には、普通の新人がいきなり大きな成果を上げることはなかなか難しい。大概は、知識と経験を積んで始めて役立つ人材に育っていく。時間のかかる話で一朝一夕にはうまくいかない。チームで仕事をしているのなら周囲に負担をかけていることの方が多いだろう。しかし、新人だからこそ持っている力もある。農業においてはそれが持続を図る上の拠り所となるかもしれない。今回はそんな力を探る。

 

 
▲新規就農した二人 ▲すくすく育つ小松菜 ▲品質の高い農産物

 

農非農家出身の二人の挑戦
 滋賀県守山市で新規就農した夫婦がいる。深尾真人(まさと)さん(31歳)と円(まどか)さん(37歳)。今年独立して2年目のまだ30代の若手。非農家出身の2人で力を合わせ、小松菜、ほうれん草、メロンなどをハウス40a、露地20aほどで手がけている。お互いに社会人経験はあるものの、農業に活用できる特別な技術や経験を有しているわけではなく、栽培を始めて2年目の一般的な新規就農農者だ。就農の経緯や農業への取り組みを聞いた。そこに初心の中にこそある大きな価値が潜んでいる。
 真人さんは東京農業大学出身。北海道キャンパスで農業経営学を学んだが、卒業後は一般企業に就職した。「農業には興味があったんですが、その段階で就農する方法が全くわかりませんでした。周囲の人間も普通に一般就職していく中で自分もその流れに沿って就職しました」。勤務先は千葉、仕事は制御系のプログラマー。農業の道からは一旦離れて、社会人となり、日々の仕事を懸命に勤めるが、「自分が本当にやりたかった事とは違う」との思いが残り続けた。
 それで3年ほどしてから辞職。今まで進んできた道を少し離れて、しばし模索の期間を過ごし、そこで農業への思いが新たな道を指し示した。元々やりたかったことであり、本来の道に戻ったと言えるのかもしれない。出身地の滋賀県草津に戻り、地元にあった、法人形態で農業を営む有限会社クサツパイオニアファームに就職した。そこで初めて実際の生産現場と関わる。
 クサツパイオニアファームは水稲の栽培、作業請負、野菜栽培などを手がけ、有機で作った米や野菜を直売や生協での契約で販売している。後継者育成にも積極的で農業を志す人にとって、良い受け皿となったようだ。真人さんは葉物野菜を担当。現場では小松菜、ほうれん草を有機で栽培し、“滋賀有機ネットワーク”を通じて生協やこだわりのスーパーへ販売しているが、その取り組み中で様々なノウハウを学んだ。大学で学んだことよりファームで学んだことの方がはるかに多いようで、実際の現場から学んだ知識が今の真人さんの大きな財産になっている。
 真人さんにとって、自分が歩みたい道をようやく見つけたという事になった。少しばかりの回り道を経ての事で、そこから得るものも当然あるが、もし就職活動の時に農業生産法人が就職先の一つとして、しっかり組み入れられ、一般企業のように提示されていたのなら、また別の展開があったのかもしれない。真人さんの場合は色々あっても結局農業に辿りたが、学生で農業の志を持つ有為の若者でも求める場所に辿りつけない人が多くいるはずだ。「もう少し一般の人に対するPRを強くしていく必要があるのでは」。そういう積み重ねが新規就農者を増やしていくに違いない。
 さてファームで懸命に働く真人さんに新たな道が合流してくる。そこで先輩だった今の奥さんとの出会いだ。
 円さんは大阪市出身で実家は非農家。高校卒業後、大阪市の公務員として務めていたが、「生涯続けていくのならもっとやりがいのある仕事がしたい」と30歳を前にして決断。歩む道を変更し農業を選んだ。「作物を育てるという過程が面白い。まさに私の中でピンポイントの仕事でした」。そこで生産法人で農業を始め、独立を応援してくれるクサツパイオニアファームに移り農家としての力を蓄えた。「元々独立したいという思いがありましたから」。
 真人さんも当初は独立の思いが強かったが、日々の仕事に取り組む内に、「ここで一生懸命働けば、それで良いかな」と思い始める。しかし奥さんを含めた周囲の人々から刺激を受けて再び独立を決意。高校の時から農業への思いはあったが、それは漠然としたもので、この頃になって、ようやく自分で農業をするという具体的な形になった。そして真人さんは円さんと結婚すると同時に、独立を果たす。農業を仕事として暮らしていく。2人の共通の思いが重なり、新たな道を歩み始めた。「女性1人で独立するのは難しかったかも知れません。それに1人でやるより2人でやる方が楽しい」と、円さん。一緒に農業をやる。2人の笑顔から、それは幸せなことなのだと感じた。円さんのご両親は「やりたいことはやりなさい」というスタンス。思いを果たした今は一安心という所だそうだ。真人さんのお父さんは当初、農業をやることを反対していたが、結婚し独立を果たした今は、応援にまわり、日々の管理や収穫などの栽培を手伝っている。家族を一つにしていく。それも農業の良さなのかもしれない。物語ならこれでハッピーエンドの結末だが、現実はここからが本番。

農業で食べていける
 同県発祥の近江商人には“売り手よし、買い手よし、世間よし”を表す“三方よし”という考え方があるが、二人が独立して誕生させたのは、“質よし、味よし、鮮度よし”を標榜する“みよし農園”。 クサツパイオニアファームで習得した栽培技術を基本に有機肥料、減農薬の栽培で品質の高い野菜を生産している。生産者にとっても、消費者にとっても、そして自然にとっても“よし”ということになりそうだ。地縁のない新規就農にとって大きな課題となる土地の確保は、同ファームが使っていた土地を譲り受けることでクリアした。元々野洲川が流れていた場所で、川筋を変えるときに生まれた場所。元からの地権者がいないので、新規で借りやすく、周囲にはみよし農園以外にも、多くの新規就農者が耕作を行っている。土壌的には石が多いなどの不利な条件もあるが、毎作ごとに堆肥を投入して土作りなどを行っている。地域の人々との関係も良好で、周囲に気を配ることなど、社会に出て働いていた経験が少なからず役に立っているようだ。
 まず主力となる栽培品目は小松菜とほうれん草。ハウスと冬場は路地を使い、周年で栽培を行っている。有機減農薬で丁寧な栽培を行い、雑味のない野菜本来の味を引き出している。販売は“滋賀有機ネットワーク”を通じて行われ、コープしがなどの店頭に並ぶ。栽培基準をしっかりと守り周年を通じた安定出荷が求められ、高度な技術が必要となる。「年間契約で話をさせて頂いていますからコンスタントに安定した品質のものを出し続ける必要があります。事業運営で一番気を付けていることです」。プレッシャーもあるだろうが、その分価格が安定し、しっかりとした経済基盤を作ることができる。従来の一般的な市場出荷に頼った方法では、時々の市況により収益が安定せず、経営が難しくなることもある。特に経験の少ない新規就農者なら尚更だ。現在、経営は1年目から黒字で順調に推移している。「技術の不足から冬場の生産量が低く計画より1割程少なかった」が、安定販路の獲得が奏功していると言えそうだ。どのように売るかをしっかり考えて生産する。これからの農業に求められる資質だ。またにんじんや花なども作り、直売所などに出している。
 やり方によっては就農1年目からも利益を出すことができる。「農業で食べていくとはできます」。それをしっかり示すことが新規就農者を増やすことにも繋がりそうだ。

農業は楽しむ力
 これらのメインとなる葉物とは別にメロンの栽培にも力を入れている。地域では特産物としてモリヤマメロンの栽培が行われているが、高齢化が進展し後継者も少なく、守山市や地域のJAおうみ冨士で後継者育成の取組が行われており、新規就農者としてメロン栽培に取り組まないかと誘われた。「近所のメロン農家に声をかけて頂いて、栽培方法なども色々指導してもらっています」。
 収穫されたメロンはJAおうみ冨士において全量検査され、糖度などをチェックし、基準を満たさなければモリヤマメロンとして出荷できず、品質は高い。「栽培は難しいのですが、達成感は大きいし、実のできるものを作ること自体が楽しい。単価も良いですから面白い」と農家としてのやりがいを感じているようだ。ただ昨年は「後半割れがひどくて7割ほどしか出荷できなかった」そうで、まだまだ勉強中とのことだが、農家としてその勉強を楽しんでいる様子もうかがわれた。
 「農家になって辞めようと思ったことは一度もない」と真人さん。「農業を天職だと思っています。苦労を苦労だと思わない」と円さん。作物を育てることの面白さ。そんな農業を楽しむ姿勢が新たな作物に挑戦する意欲にもなっているようだ。それが農業という道を歩む道標にもなっている。
 真人さんの夢は「自分が作った野菜だけのミックスジュースを作ること。極めた野菜だけで作るこだわりのジュースです」。円さんの夢は「仕事農業、趣味家庭菜園という形でずっとやっていきたい。百姓というぐらいですから、もっといろんな品目をきっちり育てていけるようになりたいですね」。農業で暮らしていけることを幸せとし、その上で楽しみや夢も農業から得ている。「プログラマーとして働いていた頃に比べるとストレスは無いし健康にもなった」とのことで、生活の充実感が見て取れる。真人さんは野鳥が好きで「日々それを眺めているだけで楽しい」。また、農業に携わり自然との関わりの中で琵琶湖の美化にも関心が向いている。日々の仕事と暮らしがうまく重なり合っている姿に、生き方の豊かさを感じた。
 非農家出身の新規就農者の力は様々ある。社会経験を活かした事務能力や交渉力、消費者の気持ちに近いこと、しがらみが無く新しい挑戦ができることなど。そして今回感じた大きな力の一つは、農業を楽しむ力。わざわざ好きで入ってきた世界なのだから、当然と言えば当然で、家の仕事として農業を継ぐのとは少しスタンスが違う。お金儲けをしたいから農業に入ってくる人よりも農業に携わることで喜びを得る人の方が多いだろう。その力が個の単位から地域の単位に広がれば、農業を持続していく力に繋がるのではないだろうか。
 仕事に報酬は不可欠で、農業改革の中、“儲かる農業”が掲げられているが、得られる利得を全て金銭に換える必要はない。農業の楽しさを価値とする感性を持つ者にとっては、それも立派な報酬だ。深尾夫妻が農業に携わる姿勢にそれを感じた。しっかりとした経済基盤を築くことはまず第1に大切。そのためにしっかりとした販売ルートの確立がなされている。その上で農業を楽しむこと。その心が農業活性化に繋がるに違いない。農業は楽しい。初心にあるそれを忘るべからず。


本気で取り組む6次産業
淡路島にオリーヴ産業を興す

取材先:農業生産法人南あわじオリーヴ園 
2015年5月号掲載

 農産物をただ生産して1次産品として出荷するのではなく、加工、販売し、付加価値を高めていくのがこれからの農業の一つの形ともされるが、それは、古くからある農業でもある。食卓に欠かせない漬物や梅干も、元は6次産業から始まったようなもので、今では立派な一つの産業となっている。生み出される製品に力があれば、取り組む者を増やし、長い時間受け継がれ、食生活になくては成らないものとして組み込まれていく。それが地域を支えている所もあり、6次産業にはそれほどの力がある。今回はそんなポジションを新たに狙う農産物を取材した。6次産業を名ばかりではなく、実の伴った産業にしようとする試みに農業の可能性を追う。

 
▲スカイベリー ▲ICTを活用したハウス ▲センサーと生産者

 

オリーヴオイルは5万3000tの需要
 農業の6次産業化と一言で言ってもピンからキリまである。“余った農産物が有効利用できれば”と言うものから、“地域の存続に大きな力を持つ”ものまで。今回お訪ねした農業生産法人南あわじオリーヴ園では淡路島でオリーヴの生産を手がけているが、代表取締役の土居政廣さん(65歳)は「淡路島にオリーヴ産業を興す」と大志を抱き、本気の6次産業に取り組んでいる。その夢が地域農業に大きな変化をもたらす。
 南あわじオリーヴ園は、南淡と呼ばれる地域の南あわじ市にあって、平成23年に設立されたまだ若い生産法人。今年で5年目を迎えた。設立の目的は「オリーヴを栽培し、そこから国産のオリーヴオイルを自ら製造し、ブランド化して販売することで、6次産業の事業計画を進めています」と、土居さんが設立の経緯や今後の展開などについて教えてくれた。この目的のために今同園は1000本のオリーヴを育てている。「植え付けてから本格的な収穫ができるまでに1年生の苗木なら4、5年かかります。ですから今は栽培本数を増やすことに集中しています」。国産オリーヴオイルを製造する本格的な搾油はまだ少し先になるが、それに向かって着実に事業計画が進められている。「今、オリーヴオイルの輸入量は通関実績で見ると5万3000tあります。国内産で供給している所には小豆島などがありますが、年間供給量は15t~20t。全体に比べると殆ど0に近いので、この輸入量が需要量と言うことになります」。輸入量は20年前に比べて10倍以上の伸びとなっており、大きな可能性を秘めている。
 土居さんは淡路島出身だが、大学卒業後はスイスに本社があるネスレで食品関係の仕事に携わり、イタリア食材の事業部長を長年務めた。その後DOMAジャパンという食品ビジネスの経営コンサルタントの会社を設立。イタリアの会社と契約し輸入販売やブランドの浸透といった仕事を行い、イタリアとの関係を深めていった。しかし、充実した仕事を続ける一方で「私は長男ですから、家を放置するわけにもいきません。いずれここで何か事業をやりたいと昔から考えていました」。淡路島でも農業従事者の高齢化は進み、耕作放棄地が増え、山には竹やぶが茂り、その風景を見るにつけ「何とかしなければならない」という思いが強まる。そんな中、イタリアで見た、丘陵地に整然と植えられた美しいオリーヴ畑の景観が思い出された。「淡路島もオリーヴを植えれば美しい風景になるかもしれない」。またそれまでの仕事を通じ、日本の食品業界の流通構造やパスタやオリーヴオイルがどうすれば売れるのかの知識もあり、「日本で売れる製品を国産にすれば、事業としてやっていけるのではないか」と、淡路島からオリーヴオイルを生産する挑戦が始まった。
 まずは試験栽培として小豆島から苗木を取り寄せ、1年間ほどこの地で「根付くのか、成長するのか」と見極めが行われ、良好な生育を確認した。「気候的にもオリーヴ栽培に向いていると思います」。そして本格栽培。苗木にはイタリア産が選ばれた。「当初国内調達を検討しましたが、挿し木で増やしたもので、どんな親木かも分からず、品種の保証もしてくれません。オリーヴオイルは品種によって味が全然違いますから、きっちりと管理のできている苗木としてイタリアの業者を紹介してもらい、生産者とイタリア州政府の品種保証書を付けてもらって輸入しています」。オリーヴの品種は多く、同園でも6種類のオリーヴが栽培されている。
高付加価値製品の製造を目指す
 国内のオリーヴ生産の先行事例としては長い歴史を持つ小豆島の取り組みがある。国策として1908年から始められ100年以上の歴史があり、現在約130haで6万本ほどの木が栽培されている。それらからオイルや渋抜きをして塩水に漬ける新漬、石鹸、化粧品、お茶、サイダー、素麺など様々な製品が作られている。ただその多様な展開が個々のボリューム感をそぐことになり、国内産オリーヴオイルとしての存在感は物足りない。これを貴重な事例として「淡路島では選択と集中を行い、食品に特化したブランドを築き、国内産オリーヴオイルを産業化していきます」。
 オリーヴオイルの消費量が年々増加することに伴って、それらの消費動向には、徐々に変化が現れて来ているという。単に炒め物などの時に使う料理用の油としてだけではなくなってきているそうだ。「各家庭にオリーヴオイルが浸透し、消費のあり方が次のステージと移ってきています。生食として、サラダにかけたり、パンに付けたりする使い方が出てきました」。料理用には、低価格だが質の低いものが使われ、生食用には高品質なものが使われる。つまり、輸入品も用途によって使い分けが進んでいる。料理用に使われるのは主にスペイン産のオリーヴオイル。「効率を重視した大規模大量生産が行われ、低コストな製造が可能ですが、良い実も悪い実も無選別で使うため、酸化物質が混じり、味に雑味が出てしまいます。スーパーの店頭などでよく特売品として売っています」。一方、生食用として使うのはイタリア産のものが多い。「こちらは小規模な生産で、しっかりと選別した丁寧な収穫が行われ、コストは高くなるのですが、質の高い製品づくりが行われています」。これらの状況を分析し、「ここにはスペインのような大規模な生産をする広大な土地はありませんし、無理に低コストな生産をしても結局輸入商品にはかなわない」ことから、淡路島ではイタリア式の生産方法を選んでいる。「収穫はしっかりと選別しながら手で摘んで、品種ごとに分けて油を絞り、味の特長を出していきます」。限られた面積で充分な手をかけ、高付加価値の製品を生産する戦略だ。狙うのは最近増加傾向にある生食需要。そこを国産に置き換えようと言うことで、有望なニーズが期待できる。
 今、土居さんと息子さんが栽培する1000本に加えて、協力農家の分も合わせると島全体では2500本。市場に与える存在感を大きくするためには、島全体にオリーヴ生産を拡大していく必要があり、平成25年には淡路島オリーヴ協会が設立された。「仲間を増やすことでオリーヴの産業化を推進していこうと考えました」。個人農家や島内の企業が正会員となり、栽培面積の拡大を図る。また島外の人間でも淡路島のオリーヴ栽培を支援するという目的で賛助会員になれる。農家は新たな作物としてオリーヴを導入したり、重労働の野菜から切り替えたりする人もいる。栽培にかかる労力はみかん栽培の5分の1という試算もあり、耕作放棄地を活用する作物としても魅力的だ。企業会員としては、ホテルなどが敷地でオリーヴの栽培を行っている。「景観の良さもありますし、収穫やオリーヴオイルを絞る体験などを提供でき、また料理として出したり、ホテルブランドのオリーヴオイルを販売することもできます」。新たな観光資源として集客に貢献する。それらを通して島全体の耕作放棄地解消と景観の向上を図り、産業化に求められる面的な広がりを推進していく。今年は2500本のオリーヴが新たに加わる予定だ。
 さらに同協会は栽培に関して、栽培マニュアルなどの情報提供を行い、品質を統一し、技術向上を図っていく役割も果たしている。
10年後に2万本のオリーヴを
 事業を始めて4年。まだ搾油は行われていないが、それにも関わらず面的な広がりは徐々に進んでいる。その状況がオリーヴそのものの力を表しているとも言えそうだ。栽培のしやすさなど、生産者にとっての魅力だけではなく、消費者にとっては油として必需品であり、加えて健康にも良いとされ、他のもので置き換えることのでき無い強い価値を持っている。
 1本の木から10kg、15kg、20kg、それぞれ実を収穫したとして計算した土居さんの事業シミュレーションがある。100・の実からは約14Lのオイル量となることが経験的に分かっているそうで、例えば15・収穫した場合、その95%が使用できるとすれば15・の実から約2Lの搾油量となる。それを250ml、2000円の販売額で計算すれば、1本の木が1万6000円の売上げとなる。実際のシミュレーションは、苗を植えてから本格的な収穫ができるまでの収穫量推移も考慮した緻密なもので、そういう数字が農業を産業化する上での大きな力となり、面的な広がりも後押しする。
 その中で、島外からオリーヴ栽培に参入してくる人も出てきた。島内には、以前、国のパイロット事業で開発され、今は耕作が放棄されている土地があり、そこに2000本のオリーヴを植えて事業を始める計画がある。産業化の推進に大きな力となりそうだ。「今から10年後の2025年にオリーヴの木を2万本にする目標を立てています。これだけの本数があれば、ある程度の実が収穫でき、オリーヴオイルを絞った時に淡路島ブランドとしてアピールしていけます」。
 そうなれば島内の経済にも良い影響を与えることができる。「最終的な目標は淡路島にオリーヴ産業を生み出すことです。栽培、加工、流通があり、関連する業者や雇用が生まれ、耕作放棄地の解消が進み環境が改善され、付加価値が島内に残り島が活性化していくこと」。そうなればオリーヴが地域を支える力となりそうだ。
 今の課題は「植え付けてからある程度の規模で実がなり始めるまでの期間をどうするかということです。野菜なら半年もすれば収穫できますが、オリーヴは植えてから5、6年は収入になりません。そこが最大の問題です」。土居さんはその対策として、苗木を販売する他、オリーヴをペーストにしてオニオン、ガーリック、バジル、トマトなどを加えた独自加工品やイタリアから輸入したオリーヴオイルなどを販売している。淡路島の農業公園“イングランドの丘”の前にある食の拠点施設“美菜恋来屋(みなこいこいや)”内では、それらを扱う直営ショップの“O2(オニオン&オリーヴ淡路島)”を運営している。
 産業化には面的広がりに加えて時間的継続も必要だ。「これらの事業は私一代ではできません。ですから息子や周囲の人たちにも受け継いでいってもらいたい」。将来のある夢のある事業だと思えば若者も集まってくるに違いない。オリーヴは100年経っても収穫できると言う。うまくいけば100年続く産業が淡路島に生まれる。今その礎を築く姿に触れ、未来の可能性に胸が躍る。

 

 

スマート農業への挑戦 未来への一歩がここにある
さぁ始めよう、夢から現実へ 見えないものを役立つ形に
取材先
栃木県農政部生産振興課 高山明彦氏
農研機構中央農業総合研究センター 吉田智一氏 
2015年4月号掲載

 日本農業の切り札として登場してきたのがスマート農業。規模拡大や農業の6次産業化、農産物輸出など、農業を成長戦略にするという流れの中で大きな力となりそうだ。また地域農業の持続にも効果が期待されている。ICTやロボットなど先端テクノロジーなどを駆使し、高齢化の先にある人手不足の解消や新規就農者の育成、精密管理による高品質で低コストな栽培など、農家の困り事を解決する方策を提供し、既に一部は現実の風景となりつつある。しかし、これらを現実化していくためには課題もある。思い描く日本農業の未来を、“夢から現実へ”。その術を探る。

 
▲スカイベリー ▲ICTを活用したハウス ▲センサーと生産者

スマートな農業の1日
 未来のある日。農業者田中一郎55歳の朝の仕事は、経済新聞を読みながらネットで海外市況を確認するところから始まる。オフィスは直売所に併設した3階建てのビル。モニターがずらりと並び、圃場の様子やフィールドセンサーで収集した環境データが映し出されている。幾つかのメールに返信を送り、モニターを介した映像付きの通話で現場との作業確認を行い、農繁期に溜まったデータを入力している従業員に指示を与え、昨日来た農機販売店のサービスマンがプログラムをバージョンアップしていった無人作業機の稼働状況をチェックし、2階の情報戦略室へ向かう。そこでビッグデータを活用した新しい栽培方法のシミュレーションを確認する。担当者は大学で情報工学を学んで就農した息子。自分は大学で経済学を学び銀行に就職した後、農業で起業した。周りからは、変わり者だと言われたが、もうそんな時代ではない。午後からは輸出業者との打ち合わせと近隣生産法人の買収案件の検討。相手の規模はそれほど大きくはないが、高品質な有機栽培の実績があり、そこで蓄積された栽培マニュアルのデータは魅力的だ。経営企画室がまとめた資料に目を通す。そんな農業が夢でなくなりつつある。
ICTを活用したスカイベリーの栽培
 各地で未来に向かったスマート農業が一歩踏み出している。その一つが栃木県で取り組まれているいちごの新品種栽培だ。同県の昨年のいちご収穫量は約2万6000tで、46年連続日本一。そんな“いちご王国”栃木で誕生したのが“スカイベリー”。全国で唯一のいちご専門試験場“いちご研究所”が、17年の歳月と10万株超の中から選び抜いたもので、2年間の実証栽培を経て、昨年の11月頃から本格出荷となった。大きくて、いちごらしい整った形で、鮮やかに色づいた光沢を持つ。果実の味は酸味が控えめで甘く、滑らかで、ジューシーな食感。贈答品にされるなどワンランク上のいちごとして存在感を発揮している。その栽培に今シーズンからICTの活用が始まった。
 「新品種を導入しブランド化を図る上で、同じ良い品質のものを、生産者全員で作っていかなければなりません。そこでICTをうまく使えないかという議論があり、取り組むことになりました」。栃木県農政部生産振興課でいちご、野菜を担当している高山明彦氏が導入の経緯などを教えてくれた。国の“新品種・新技術活用型産地育成支援事業” を活用した展開で、スカイベリー生産者、県、全農とちぎ、各農協、栃木農産物マーケティング協会が、スカイベリーコンソーシアムを形成し事業の実施主体となり、“スカイベリー技術高度化支援システム”を昨年の12月から稼働させている。「実証栽培を行っている間に各地域で上手に作れる生産者の方が少しずつ出てきましたので、その中から10人の方の温室にセンサーを設置させて頂き、温度、湿度、炭酸ガス濃度、照度、地温を自動で測定し、3G 回線を使って15分に1度サーバに送信。それを集積し、閲覧することができるシステムを立ち上げました」。今シーズンは12.2haの生産規模で生産者184人がスカイベリーの生産に取り組んでいるが、これに県やJAの技術指導員らを合わせ、関係者約300人がこのデータを共有することができる仕組みとなっている。
 「タブレットやスマホ、パソコンから見ることができ、温室の今の状況がリアルタイムでわかります。また、過去のデータや市況情報も見ることができます」。データ供出者が特定でき無いように配慮されつつも基本情報は知ることが出来るので、これらとデータを合わせ、成果が出ている生産者の栽培方法や栽培条件を参考にすることができる。成果の違いが何に起因しているのかを閲覧者が自分自身との比較によって探り、全体の技術水準を高度に平準化することに役立つ。
 「センサーを導入している農家の何人かの方は、朝起きると全員のデータをチェックし、それを自分のデータと比べているそうです」。温度や地温、炭酸ガス濃度の違いなど、データを“見える化”することで、今まで経験と勘に頼っていた部分をより正確に客観的に知ることができ、その新しい知見に基づいて栽培方法を修正し、実績の向上に繋げている。また、数値に基づいた情報交換など活発なコミュニケーションも行われているようだ。成果の高さを名人の技だからと言って済ませていたことが、データを分析してみると、実は自然環境に違いがあったことが分かることもある。「それが分かれば人為的に条件を合わせることで、そのレベルに近づけるのかもしれません」。
 肥料や水やりなどの実際の栽培方法、また収量や品質などの実績にこれらのデータをあわせて、「来シーズンの栽培マニュアルに活かし、収量アップ、 品質アップに繋げていきたい」。システムを使い続け、適切なフィードバックを繰り返すことで、よりレベルがアップしていく。そのスパイラルアップが他産地との差別化を推進し、地域の競争力にも繋がっていく。またその栽培マニュアルは新規にスカイベリーで就農する人にとっても大きな力となり、産地を維持することに貢献しそうだ。これからの動きに注目したい。
 このシステムでは約300人がデータを共有しているが、日本ではそういうケースはまだ少ないようで、今はまだ個人、法人単位でデータを収集し共有することで技術の向上や品質・収量のアップが図られている。しかし、オランダのトマト栽培などを見ると、統一したシステムに多くの生産者が属し、その規模の大きさが強い競争力の源になっている。できるだけ多くのデータを収集し活用することがより大きな力となる。先述の“未来のある日”を実現するためには、その力が必要だ。
データの標準化、共有化
 農研機構の中央農業総合研究センターでは、農業分野全体における情報の利活用を図るため、農業関連情報のインターオペラビリティ(相互運用性/移植性)とデータポータビリティ(可搬性/自主運用性)の確保を原則とすることを打ち出した“農業情報創成・流通促進戦略”に基づいて、農業情報の標準化や共有化を図る試みなどが行われている。同センターの吉田智一上席研究員がその取り組みの概要などについて教えてくれた。同氏は1990年代後半から精密畑作のプロジェクト研究に携わり、様々なデータを共通的に操作できるソフトウェアの開発などを担当し、現在は農業情報統合利用プロジェクトでプロジェクトリーダーを務めている。
 農業情報には様々なものがあり、生物主体に関わるものから生産環境、作業計画、機械作業、人力作業、作付計画など多岐にわたる。それらをデータとして扱っていく場合、「今ソフトウェアごとにそれぞれ別の仕様になっていて、データ交換することなど考えられていないものも多くあります」。それではせっかく収集したデータも有効に活用することはできない。同じデータをそれぞれのソフトウェアの仕様に合わせて入れなければならない場合や過去に有用なデータがあってもそれを利用することができない場合もある。あるいは統計情報があっても、用語が異なれば統一的なデータとして扱うことはできない。一言でデータの標準化と言っても、その作業は膨大で困難も多い。「農業には様々な分野があり、それを一元化するのはとても無理です。ある一定の関心領域のみ、場面ごとで共通化していこうとしています」。
 仕様を合わせることで情報の相互利用を図ることができ、利便性は高まっていく。例えば作業の呼称にしても、田んぼを耕すことを耕起と言うが、それを作業の質によって1番耕起、2番耕起という分け方をする場合もあるし、荒起こし、仕上げ起こしとする場合もある。そこをうまく整理することで、使えるデータを増やし、情報の流動性を高めていく事になる。また「ベンダー毎に重複した開発を行っている場合もあり、無駄も多いし、ユーザーにとっての不便も多い。日本農業全体の競争力にとっても不利益となります」。データを活用して大規模に集約的にやっていこうとする農家の数が限られている中で分断が進めば、情報の供給源と需要先が縮小することになり、この分野の成長力が低下していくことになるかもしれない。
 データのオープン化という問題もある。国や農業団体、農業関連メーカーなどが集積しているデータがあり、農地の情報などは国が整備しているが、そういうものも共通データとして個人情報に充分配慮した形でオープンにできれば、共有のメリットは多い。「そんなオープンデータをどんなシステムでも使えるような技術を提供できるようにしなければなりません」。ただノウハウの流出などで利益を損なう場合もあるので、それらを考慮した取り組みも必要になる。個人、地域、国、それぞれのレベルで守るべき情報はしっかりと守っていかなければならない。
 「今スマート農業を推進するため、皆が同じルールで動ける基盤を作っている状態です」。それが整った先に、ビッグデータの活用など、より多様な可能性が広がっていくに違いない。その使い方は様々で、大規模な農家であれば、「職人的産業から企業的な産業に変わっていく過渡期」にあって、その過程をスムーズにするツールとして活用されるし、魅力的な産業として後継者を集め、その育成をより効率的に進める事にも使える。また、小規模であっても品質を高めるためや跡継ぎのための記録、中小の集落営農では土地の管理など、全ての農家にとって新しい力となる可能性がある。そして日本のスマート農業が標準化を進め、基盤がしっかり整えば、「それをシステムとして商品化し、例えば稲作をやっている東南アジアなどに、Made BY Japanの技術として展開することもできます」。オランダのトマト栽培のシステムは海外展開を図っており、日本でも導入している。そのように稲作の管理システムが海外展開する日がやってくるかもしれない。また、ビッグデータを活用し、有用な予測を立てるシステムの展開も考えられる。これに関しては、「それを成し遂げるためのアプリケーションがまだ少なく、そういう研究を進めなければなりません。少し前まではデータを集めることさえ難しかったのですが、今はそれなりに集まるようになってきました。しかしその様式は統一性がなく、そこを標準化しなければならないという段階に来ています。そして次が、そのデータを活用して動くモデルで意思決定を助けるロジックを作ることです」。日本農業の一つの未来がその道程にある。
 様々な自然環境の様子や、農業者の頭の中を“見える化” し始めた今の状況は、人類が初めて言葉を獲得した時に似ているかもしれない。共に状態や状況などを記号で表記する方法だが、思い思いの単語や文法では意思の疎通を図ることはできなく、その力を充分発揮することはできない。人の力を弱めるために言語を分断したという古の話もある。共通性と流動性を持つことは見えないものを“見える化”して役立つ形にするためには必要なことなのだ。それが様々な可能性を現実のものにしていく。よって立つ基盤がより強固に、より広域なものになれば、そこには立派な建物を建てることができる。その先にある未来のいつかに、田中一郎が営むような農業が当たり前に実現しているのかもしれない。その田中一郎、帰る間際に現場から送られてきた動画を繰り返し見ていた。そこには田んぼをバックに綺麗な夕日が映っている。しばらく外の作業には出ておらず、久し振りに畑に出てみたくもなる。明日はタブレット抱えた田中一郎が畦道を歩いているかもしれない。

 

 

特産物を育てる力 名前を知られることが生産者の誇りと利益に 取材先:上庄里芋生産組合 組合長 源内和夫氏、JAテラル越前大野南支店、営農指導員 羽生英二氏・中野樹希氏、一般財団法人越前おおの農林樂舎 事務局次長 荒矢大輔氏 (2015年3月号掲載)

 

 世の中に名前を知られると言うことは、簡単なことじゃない。大活躍したスポーツ選手や偉業を成した冒険家、大成功した企業家、ノーベル賞の受賞者、あるいはベストセラー作家やテレビの人気者など。普通のことをしていたのではなかなか難しい。名前を知られるとは卓越していると認められた証でもあるのだ。中にはすぐに忘れられてしまう人もいるけれど、実力が伴えば歴史に名を残すということもなきにしもあらず。また名前を知られるということは実利にも繋がっていく。有名であるということは力にもなるのだ。特産物もそんなものではないだろうか。名前を知られることは生産者にとって誇りになり、利益にも繋がる。今回はそんな特産物を育てる力について探る。

▲豪雪地帯がさといもを育む ▲高品質なさといも ▲手間のかかる収穫後の作業

土地が生み出す“上庄さといも”
 福井県の東部、1000メートル級の山々に囲まれた大野市には“上庄さといも”という特産物がある。2mを超す積雪もある豪雪地帯にあって、限られた収穫期間、限られた生産量ながら、評価の高い味わいで、高値で取り引きされている。まさに地域の宝と言える存在だ。限られた生産量のため、どこででも見かけるという物ではなく、誰もが知っている存在ではないが、ブランドとして大きな力を持っている。
 里芋は熱帯アジアを中心に栽培され、あまり北国のイメージを持たない作物だが、冬季に深い雪で閉ざされるこの地で室町時代より栽培されていたという歴史があり、特に旧上庄村で栽培される“上庄さといも”は、その地の土と気候が一般の里芋と異なる味わいを醸成する。「小ぶりながら、粘りがあって、身が締まり、味がしっかりとしている」と上庄里芋生産組合の源内和夫組合長(73歳)が教えてくれた。地域では上庄地区以外でも里芋が作られているが、その味は抜きんでている。
 水田で作付けされ、連作障害を避けるため、7~8年に1回の栽培。現在組合員は368人で前回のシーズンは661tの収穫があった。
 山の土砂が流れ出てできた扇状地で「里芋に適した水はけの良い土壌に、加えて寒暖の差が厳しく、それらが美味しい里芋を作ってくれる」。盆地特有の昼夜の温度差などが、身の締まったそれでいて粘りがあって調理の際に煮くずれしない里芋を生み出す。
 「この場所だけに作れるもので、川向こうにこちらの芋を持って行って栽培しても味が全然違ってしまって、普通の芋と同じ味になってしまう。何故そうなるのか、作っている私たちにも分からなくて、とっても不思議な芋」。
 その地域にある土や空気、水、温度や湿度の違い、季節の変化など、土地が持つ条件と在来種としての独自の個性が合わさって初めてできる絶妙な味となる。農産物のブランド化において、まずは基本となる品質が極めて高く、農産物そのものに魅力がある。またそれに加えて、この地が持つ気候風土が、“上庄さといも”の バックグランドとなって、付加価値ともなっている。


地元から全国へブランド化
 この地で古い歴史を持つ里芋作りは、元々越冬用の貯蔵食物として、自家用に作られ続けてきたものだが、昭和45年に減反政策が開始されたことを機に、転作用の作物として本格的な栽培が開始された。「この地でお金になる商品と言ったら里芋しかなかった」。時代の流れの中で米作りが大きな転換を迎え、それに伴って地域の人達だけに知られていた味が世に出ることとなった。以降、米の消費量が下落し農業が変化していく中で、当時地域で里芋の出荷を担っていた上庄農協が昭和62年に、“上庄さといも”として商標登録し、収穫量が多かった時もあって、「値崩れを防ぎ、利益を上げていくためには全国に販路を広げた方が良い」として、ブランド化。地元の福井市場の他、岐阜、大阪、東京などに出荷を始めた。各地には里芋の産地があり、時期的に競合する商品などもあるが、他にない品質で商品を差別化し価格競争などは起こさず、独自性を保っている。
 現在上庄農協はJAテラル越前となり大野南支店が“上庄さといも”の出荷を行っている。また市場出荷のほか、直接購入を申し込んできた個人への宅配を実施。10・6000~7000円ほどの価格構成となっているが、好調な販売を維持。収穫前から予約を入れ、土付きの里芋が送られてくるのを心待ちにしている消費者も少なくない。
 また、市場出荷や個人の注文に応えるだけではなく、生産地から消費地に出向き、積極的な販売促進のPR活動も行っている。昨年の10月には、東京の量販店に赴き、店頭にて生産者と農協職員が、試食販売会を実施した。店頭で芋洗い機を持ち込んで目の前で洗って、煮物の調理をして、食べてもらい、気に入ったら買ってもらう。「あんなに売れるのなら毎日行ってもいい」と言うほど盛況で、初めて“上庄さといも”を食べ、その味を気に入った人や既に名前や味を知っていて、出荷されてくるのを心待ちにしていた人たちなどで賑わった。店頭にある他の里芋に比べて高価なものだが、それでも売れる魅力がこの里芋にはある。出荷時期が2ヶ月半と短く、その時期にしか食べられない味覚として、体験を価値として対価を支払う“コト消費”の側面も併せ持ち、順調な売れ行きとなっている。
 さらにもっと里芋を食べてもらうため、美味しい食べ方の情報提供も行っている。皮と実の間に美味しさがあることから、皮をこそぎ落として薄皮一枚になる状態で調理することを勧め、様々な料理のレシピを提案。「薄皮だけ残した煮っ転がしが、こちらでは“ころ煮”と言いますが、それが天下一品」。他にも、おでん、のっぺい汁、里芋赤飯、ぜんざいに入れたり、コロッケにしたり、様々な料理に使える。食材としてどのように使えば良いのか、消費者からの目線を大切にしている。
 生鮮として出荷する以外にも、皮を剥いた状態にした“洗い子”を真空パックしたものや、出荷に不向きな親芋の部分を使った“里芋焼酎”など加工品にも力を入れ、限られた生産量の中で、収益を上げる試みが行われている。
 ブランド化し、その魅力を引き出す様々な試みで、地域の特産物を盛り上げてきた歩みがそこにある。しかし近年生産者が高齢化し生産基盤が弱体化する中で、食生活の変化もあって消費量が減少傾向にあるのも事実。その状況を変える一つの試みとして、昨年の10月には、“全国さといも産地交流会”が、大野市と隣の勝山市で開催された。全国から9つの産地が集まり、各産地が抱える課題について議論し、今後の方策を検討するとともに、里芋の販売などを行った。各産地が情報交換を行い、里芋全体の振興を図るもので更に踏み込んだプロデュースと言えそうだ。
 地域には生産を行う農家、販売・品質管理を担当するJAの他に、ブランド発信を担っている組織もある。農協や市役所の出資によって設立された一般財団法人越前おおの農林樂舎で、「県外イベントでのPR活動や、販路の開拓、“上庄さといも”のブランドを高める活動をしています。特産物の認知度向上を図りながら、大野市の名前も広めたい」と話してくれたのは、そこで事務局次長を務める荒矢大輔さん。地域を挙げた取り組みが“上庄さといも”のブランド向上に貢献している。
機械化で生産量の確保
 里芋の栽培は4月から始まる。「田んぼの土が乾いてから畦を立てマルチをかけ、そこに種芋を定植していく」。機械化も進み、畦立て、マルチを一度に作業機で行うほか、定植はまだ手で植える人の方が多いが、徐々に定植機の導入も図られている。「昔はマルチもなく全てが手作業」。労働負担が大きく生産量も限られていた。しかし、現在は、機械の導入により、軽労化と収量の確保が進められている。収穫においては、コンプレッサーを使って土を吹き飛ばすやり方や専用の収穫機が登場している。
 組合長の源内さんは、1.2haの水田を耕作し、昨年はその内22aで里芋を作り、4tを超える収穫があった。販売単価を考えれば、その反当たりの収益は、お米のそれをはるかに超える。それが地域農業の活力に繋がっている。地域では「80歳を超えても元気にやっている人はいる」。しかし一方でそれは地域の課題を表してもいる。利益の上がる農業を展開していても、高齢化は他の地域と同じく進展し、生産者は数を減らしているのだ。「先々を見ると生産量が落ちていくのではないか」。ブランドを維持するためには安定した生産が必要で、如何に後継者を確保していくかということが重要になる。地域でも稲作作業を請け負う担い手はいるが、そこで耕作地をまとめてもその担い手が里芋を作ることには繋がらない。収穫調製などで稲作に比べて手間のかかる作業が多く、少人数で大規模な面積の栽培を行うタイプの農業には向かない。「仕事を定年してから、芋作りをしてくれる人に期待している。そういう人は地域の人間で、少なからず作り方も知っているので、即戦力になる」。個人がしっかりと農業に関わっていくこと。それが、“上庄さといも”にとっては必要なこととなっている。「販売は好調だがこれ以上営業を進めて注文が来ても、それに応じる量が確保できない」。出荷を行うJAテラル越前大野南支店の羽生英二営農指導員が話してくれた。後々は集団で協力しながら地域農業を維持していく集落営農も選択の一つとなっている。
 その中で、生産量を維持拡大していくためには、作業の省力化と効率化を進めることが必要であり、そのための一つの方策として、平成23年に里芋選別所が開設された。それまで大きな手間となっていた収穫後の調製作業を大幅省力化すると同時に目視とカメラによる選別で正確で丁寧な等級分けを行い、生産者にとっても消費者にとっても公平さを確保している。安定した品質の提供でブランドの強化に貢献する。また「農協では出荷の計画配分などを組む他、各圃場を回って質を維持するための営農指導を行っています」と栽培技術の維持向上も欠かせない。さらに生産者の個人別バーコードが箱に貼ってあるので、出荷したものに問題があった場合でも迅速に対応し改善することができるようになっている。地道な品質維持がブランドの信用に繋がっていく。生産、品質管理、販売、PRなど、各方面が協力していくことで地域特産物がブランド化し、“上庄さといも” の名前が広がっていく。
 「地元だけでなく、全国に展開し、余所の地域でも美味しいと言ってもらえる。それが誇りになる」と源内さん。里芋を作ることで収益が増え、収穫が終われば、組合員で慰安旅行に行ったり、地域の活性化に繋がっている。「芋が終われば3月ぐらいまでは雪の中。作業で忙しくしていた時の方が良いなという人もいる」。芋を作ることが生きがいにもなっている。「もっと“上庄さといも”が広がっていって欲しい」。
 個人の農家が世の中に名前を知られることは簡単ではない。でも、特産物を通してならそれをなすことも可能だ。それが農家の誇りにもなり、農業を持続していく原動力ともなるのではないだろうか。特産物を作る力もそこにあると感じた。

 

 

持続のための耕畜連携 農業を明日につなぐ国産飼料の試み
取材先:千葉県市原市 市原野草利用研究会 (2014年12月号掲載)

 減反廃止が2018年に迫る中、今年度の米価は大幅に下落し、稲作農家の先行きは益々不透明さを増している。その状況下、WCSで反当たり8万円、飼料用米で最大10万5000円の直接支払いが行われ、食用から飼料へとシフトする動きが目立ってきた。一方で酪畜農家の経営もまた厳しい状況にある。円安で輸入飼料は値上がりし繁殖農家の減少から子牛価格も高く、採算を取るのが難しくなっている。その中で少しでも経営の安定化を図ろうと、国内飼料に目が向けられている。そこで重要になってくるのが両者を繋ぐ耕畜連携の取り組みだ。その耕種と畜種の間にある循環に農業持続のヒントがある。間をとり持つことで不用な物を有用な物に変え、お互いの負荷を軽減していく。地域でその重要な役割を担うコントラクタ ―を訪ね、明日の農業を探った。

 

     
 ▲積み上げたWCS  ▲収穫機が大活躍  ▲良質の堆肥

機械力と機動力でWCSに対応
 千葉県市原市で耕畜連携に取り組み、コントラクターとして活動しているのが市原野草利用研究会。会長を務めるのは須藤吉康さん(39歳)で「酪農家が2人、畜産農家が1人、稲作農家が2人、そして私を入れた6人で設立しました」と、これまでの経緯や今の取り組み、課題について話てくれた。この研究会は「平成16年頃、稲わらの収集と近くにある自衛隊の送信基地の中の草刈を請け負うために立ち上げた組織」で、その頃須藤さんは繁殖・肥育の一貫経営を営んでおり、収集した草は粗飼料として給餌していた。しかし3年前に事業を転換。研究会の他の5人が本業で忙しく作業に出られなくなる中、畜産をやめて、粗飼料の生産と販売に本格的に乗り出した。
 現在手がけているのは、稲わらが30ha、麦わら40~50ha、牧草11ha、WCS(ホール・クロップ・サイレージ)40haで中でもWCSは昨年の20haから、大きな伸びを示している。さらに来年はもっと増える予定で、「今年は米価が下がっているので、耕種農家の方も飼料作に関心が向いている。反当り8万円の飼料稲や反当り最大10万5000円の飼料用米に作物の売り値を合わせれば食用米を作るより良いかもしれない」。農業施策に誘導されながら、土地利用型農業の景色を変える新たな展開が始まろうとしている。
 須藤さんが手がけるWCSは、隣市の大規模担い手組織から部分受託した20haと、県内の飼料会社が農家と契約して作ってもらっている飼料稲の部分受託16ha、それに加えて自作地5ha。それらに対し、収穫、ロール、ラッピングの作業を行い、WCSを生産する。そこではタカキタの ホールクロップ収穫機WB1030と自走ラップマシーンSW1110Wが活躍している。昨年購入し、今年2シーズンを終えた。「田んぼの作業には適している。収穫機の方は細断型なので、稲の切り口も綺麗にそろい、餌として食べやすい。また収穫後の刈跡が綺麗なので、稲作農家には喜ばれている。ラップマシーンは扱いやすい。機械にあまり慣れていなかった若い従業員でもすぐに乗れた」と、評価は高い。この機械のおかげで伸長しているWCSの生産に対応することができ、「新しくWCSに取り組む所があれば、県の方から依頼が来て、そこの収穫作業を請け負うこともある」。積載車も所有し充実した機械力と機動力が信頼に繋がり、仕事の幅を広げている。ただ、稼働時間が多く面積も広いので、今は充分期待に応えているが、機械の消耗は気になる所のようだ。
 作業受託で作ったWCSは担い手組織や飼料会社がそれぞれ販売し、須藤さんには作業料が収益となる。自作地で作ったWCSについては販売も行っている。また稲わらや麦わらなどは地域の担い手組織から収集し、ロールにして粗飼料、敷料として研究会の仲間で使い、酪畜農家に販売を行っている。それぞれ400ロールほど生産し、「こちらでストックして、先方が必要になると運んで行くという形」をとっている。
 また堆肥の散布も重要な仕事だ。畜種農家に粗飼料を運ぶだけでなく、そこから堆肥を積み込んで耕種農家の圃場に散布する。タカキタの4tタイプのマニアスプレッダDH4563WYが使われ1反当り1tが目安。加えて、ただ堆肥を撒くだけではなく、「畜種農家から出る糞尿を受け入れて、堆肥舎で堆肥にし、それを散布している」。費用はわらと堆肥の交換で賄う場合もあるし、わらの代金を払う場合や堆肥散布の手間賃を貰う場合など様々。また畜種農家からは堆肥の処分費を貰う。


困り事は耕畜の連携でうまくいく
 今、畜種農家の持続にとって大きな課題となっているのが糞尿処理の問題だ。如何に経営と環境への負荷を最小限にして処理するかが問われている。「皆さん本当に処分に困られている。産業廃棄物として出せば多額の処分費がかかるが、堆肥にすればずっと少ない額で、圃場への散布として処理できる」。不用な物を有用な物として転換することで、大幅な経費の削減に繋がる。鶏卵などを生産する会社との取引もあり、「10haのほ場に2000tの鶏糞を撒くという仕事をしたが、それをこれからも続けてやって欲しいという依頼が来ている」と、大きな仕事になりつつあるようだ。
 また、耕種農家にとっても、手間賃だけで肥料を撒いてもらうことができ、米価が下がって肥料価格が上がる中、生産コストの削減に大きく繋がる。「今困っていることは耕畜の連携でうまくいく」と取り組みへの期待は厚い。
 6月に入ると須藤さんの仕事は慌ただしくなり、麦収穫の後、雨の様子を窺いながら、麦わらを収集し、続いて7月にはWCSの収穫作業が始まる。WCSは、まだ籾が柔らかい乳熟期に刈り取って、乳酸菌を入れてラップするもので、作業時期が稲の収穫とずらすことができるメリットがある。ただ、WCSが拡大傾向にあり「作業を受託している先からは、8月中はずっとWCSの収穫をやってくれないかと言われている」。そうなると、人員をどうするのか。新たな体制づくりが必要になってくる。稲の収穫が終われば、稲わらの収集を行い、粗飼料づくりやTMRの生産を行う。それが終われば堆肥散布と作業は続く。今、須藤さんのもとには仕事を手伝っている人間が3名いるが、共に若く、早く仕事量に見合う戦力となることが期待されている。
 須藤さんの作る飼料は畜産農家の気持ちを汲み取ったもので、土などの混入物に気を使い餌の品質としては高い。「ちゃんとしたものを作るのが私たちの責任。そうしないと仕事が続いていかない」。そこには元畜産農家の経験が存分に生かされている。また、農地を持って耕作しながら作業を請け負っていて、耕種農家からは農家として信用を得ており、双方の気持ちがわかる存在として地域農業に貢献している。だから「建築や土木関係の人たちが作業の請け負いとして参入してきても、なかなかうまくいかない」のが実情のようだ。「今までやってきた農業を説明して、初めて納得してもらえる。そうしないと耕畜連携っていうのはうまくいかない」。
国産飼料で大幅な経費削減を
 「地域全体で見れば国産の飼料を使っている人はまだまだ少ない」。従来通りの輸入飼料を使っていれば、品質も保証され、使いやすくて無駄な手間もかからないわけで、切り替えはなかなか進んでいかない。「例えば酪農家さんなら、今使っている餌で乳成分が良く安定しているということになれば、あえてリスクを冒して新しいものに変えようとはしません。また家族経営が基本で、できる仕事には限りがあり、新しいものを取り入れて、新たな手間を作るような事はしたくない」のが本音の所。そこをうまくクリアしていかなければ、飼料の生産がいくら増えたとしても、使われずにだぶついていく。生産のための補助金が耕種農家に出ているが、畜種農家が国産飼料を使っていくための援助というものも、もっと必要ではないのだろか。
 須藤さんは畜産農家として牛を育てていた時から国産飼料へのこだわりがあった。北海道の酪農大学で学んだあと、埼玉県の大手牧場で研修し、先進的な知識と技術をもって、家業の畜産に取り組んだが、その中で、「飼料は100%自給する方向で、稲わらだけでなく、野草も取り入れ、河川敷や自衛隊の敷地の草を集めた」。そうして集めた草で粗飼料を賄い、大幅な経費削減を実現していた。河川敷の草に関しては、NPO法人エコグループ市原を設立しての事業で「河川の草は8割が牧草。使えないものが2割混ざっていますが牛の餌としては問題がないレベル」と検証と実証を進めていた。「こうした野草も含めて、粗飼料だけなら国産で100%自給できると思っている」。それを実現することは、この厳しい経営環境の中、畜種農家が生き残っていくための一つの道に違いない。耕畜連携の取り組みもその思いの延長にあるとも言えそうだ。
 今、須藤さんのところで課題になっているのはオペレータ不足。千葉県全域を活動範囲にしているが、周囲に同じ業態を営む経営体がなく、仕事が一ヵ所にどんどん集まってきている。その増えていく仕事量に対して、労働力がついていっていないのだ。現在働いている若手を育てるのと同時に、新たな人員の確保、機械力の増強なども必要になってくるのかもしれない。今はまだ個人形態で事業を展開しているが、法人形態への転換も視野に入ってきている。また、「うちで働いている若手が早く一人前になって独立すれば良いなと思っている」。地域にそういう組織が幾つかできれば耕畜連携がよりスムーズにいくに違いない。また、「若者が農業に携わっていると、高齢の農家の方も元気になる。それは良い効果」。地域農業の活性化に繋がる。
 耕畜連携を成功させるためには、「私たちのような組織が必要です。耕種と畜種が直接やりとりするのではなく、コントラクターとして間をとり持つ方がうまくいく」。両者の気持ちを理解して、その要望に応えていくことが必要で、連携の肝はコミュニケーションにあるとも言えそうだ。それをうまく果たす組織の重要性は高い。
 また地域農業にとっても重要な存在となっていて、「高齢化、後継者不足で人が足りず、私たちがその穴の一部を埋めているという形です。田んぼの耕うんや肥料散布、また丸ごと任せられれば牧草などを作る」。耕畜連携だけに捕らわれず農業全体として見れば、「隙間産業的に需要は多い」。その役割を果たしていくことで、地域農業の持続に貢献している。
 その上で、若手が独立していけば、さらなる大きな力になる。「私の所で仕事を覚えて、新規就農として独立し、助成を得て機械を揃え、地域農業に携わって欲しい」。現在、この地でも遊休農地は増えているが、それをうまく利用していける状況とは言えないようで、それを変える一つのあり方が、「ここで働いていたということで信用を作り、農地を借りる手伝いもする。私が新しい農業の入口になる」という方法だ。そうすれば明日への繋がりも見えてくる。今を守って、未来を閉ざしていたのではつまらないのだから。
 国産飼料と堆肥を循環させる耕畜連携は地域農業を持続させる大きな力になるが、その中に、若者を取り込むことができれば、環は螺旋となってより確かに明日へと続いていく。そんな光景がしっかりと見えた。これからの取り組みに期待したい。


 


希望のちから~里山資源の活用法~里山に仕事を生み出す 和歌山県古座川町平井 古座川ゆず平井の里(2014年11月号掲載)

 日本農業を取り巻く環境が大きく変わろうとする中、農業の産業化が掲げられ、農地の集約が推進されているが、里山では難しく、高齢化が益々進展し、耕作放棄地が増え、その持続性が危ぶまれている。そこで弊誌では年間特集を里山資源の有効活用とし、生き残りの道を探った。例えば傾斜を利用した発電事業や自然の景観を活かした観光産業、あるいは山の美味しい水を利用した付加価値の高い米作り等。そして今回は6次産業に迫る。行政の後押しもあり農業の産業化として期待されているが、山間地の場合は地域の持続を図る事も大きなテーマとなっている。農村に仕事を生み出すとはどういう事なのか、その意義を探った。

 

     
 ▲団結力のある集落  ▲山間の中に集落がある  ▲質の良いゆずが作られる

自分達で売らなければ乗り切れない
 田舎に住むということは、幸せなことなのだろうか、不幸せなことなのだろうか。時代の趨勢を見て、人の流れの傾向から推察すれば幸福は都会に多くあるようにも見える。しかし、年齢を重ねてから田舎に戻る人や好んで都会から田舎に移り住む若い人もいる。人それぞれの想いがあって、一つの答えがあるようなものではないのだけど、少なくても不幸せな場所に人は好んで住まない。それが事実だろう。幸福がない田舎は多分続かない。それが地域持続性を考えるための一つの鍵ではないだろうか。
 そんな思いを抱きつつ今回お訪ねしたのは、和歌山県古座川町平井にある“古座川ゆず平井の里”。その名の通り柚子の栽培が盛んな地域で、10月下旬からの収穫時期には、爽やかで馥郁とした柚子の香りが集落を覆い、人家が見えぬうちに集落の場所を教えてくれる。紀伊半島の南部、日本有数の清流古座川の源流に位置する山間集落で、車で最寄駅から1時間、役場から50分、辺境とも言えそうな山奥にある人口123人の集落だ。そこで柚子を栽培し、それを加工・販売する6次産業を展開している。平井集落では“農事組合法人古座川ゆず平井の里”を平成16年に設立。「農協を通して市場出荷していた柚子の青果価格が大幅に下落したり、果汁を絞っても売れ残って腐ったりというような事があって、それでは乗り切れないと、自分たちで売る他ないということになったのが一つのきっかけ」と、同組合法人で代表理事を務める羽山勤さん(66歳)と総括責任者の倉岡有美さん(46歳)が当時の様子や今の取り組みについて話してくれた。
 古座川町では昭和40年代前後から柚子の栽培が始まり、山の斜面を切り開いた国のパイロット事業などで面積を確保し、町内全体で200tほどの生産量がある。その内、平井地区で150tを生産し、県内有数の産地として知られている。
 栽培される柚子の特長は「何と言っても香りが良いということ。山の村なので寒暖の差が激しく、日中は気温が上がり、朝晩は冷え込む。また霧がよく出るなど、これらの気象条件が柚子の香りを引き出すようで、山の中でこそ柚子の香りが作られる」。品種は県の試験場で選抜された古座川2号。地域の名前を冠し、古座川の柚子をもとに針が少なくて、実が丸くて大きく、多収でしかも香りの良いものをもとにして誕生した。
 収穫した柚子は、秀、優、良、並とに分けられ、青果として未加工のまま出荷されるものと、加工されるものに分けられる。「元々、収穫した柚子を絞って果汁にし、それを販売するという事業を昭和51年から生産組合でやっていたが、絞られた後の残渣がもったいないなということで、昭和60年に婦人部が加工品を作るようになった」。それが約30年前のことで、“ゆず平井の里”の前身となる。「ジャムとマーマレードを皮切りに、約13品目の商品を頑張って作り、売り上げも6500万円ほどに拡大していた」が、婦人部の高齢化が進み、柚子価格の下落などの生産環境もあり、加工事業を引き継ぐ形で集落全体から出資者を募り、皆で関われる事業にしようと“ゆず平井の里”が立ち上げられた。


6次産業で集落に仕事をもたらす
 柚子は毎年安定した収穫量を確保出来る作物ではなく、一度ピークを迎えると、その後2年、3年と不作の年が続くこともある。他の地域と豊作の年が重なれば、価格が下落することにもなる。価格形成を市場に委ねていたのでは、経営が安定しない。そういう意味からも生産物を自ら加工して販売するという形は、柚子の栽培を続けるために必然的にたどり着いたスタイルと言えそうだ。
 現在、農事組合法人の出資者は62人。村の半数以上の人間が関わり、柚子の加工で村に仕事をもたらし、雇用を生み出している。毎月22人ぐらいが、柚子の加工や事務の仕事に取り組み、売り上げは1億4500万円と10年で倍増した。「歩いて通える所に職場があるというのは、すごく良いことだと思う。特に女性の働く職場として。お父さんの収入だけではなく、女の人が稼げるということは、生活も変わるし、他の地域とは考え方も違ってくる」。“ゆず平井の里”では女性が主力となっていて、家の事もしなければならない女性にとっては嬉しい働き口であり、「調理や加工、外に発信していく業務や営業的な仕事も全て女性が中心」となってその力を充分に発揮している。
 加工は収穫時期に柚子を搾汁し、それを冷凍保存にして、年間を通して商品にしていく方法で、様々な商品が作られている。定番の『柚子ジャム』、『柚子マーマレード』を始めとして、『しぼりゆず』や『ゆずぽん酢』、柚子の絞り果汁と昔ながらの氷砂糖使って古座川の美味しい水で作った『柚香ちゃん』という人気のジュース、また地元の大根おろしを加えて作った『柚子たれ』や地元の玉ねぎと米油を加えた『おばあの柚子ドレッシング』など。それらが集落内にある“レストハウスゆずの学校”や、電話・ファックス・インターネットによる注文で販売されている。量販店での販売は求められるロットに応じることが難しく、積極的には行っていない。
 商品の開発では、そこで加工に携わっているもの皆が自由に行っている。「とにかくどこかで柚子の製品は見つけたら買ってきて、そこからヒントをもらって、もっと美味しいものを作る。得意な人とそうでない人もいるけれど、新しい商品に対する関心は高い」と、少しでも美味しいものを作ろうと熱心だ。「新しいもの作らないとお客様に喜んでもらえない」。また製品づくりにおいて気をつけていることは「香りが一番。どうしたら柚子の香りを長く美味しく保てるかということを工夫している」。専門の開発スタッフがいるわけではなく、それぞれが試行錯誤を繰り返しながら商品を作っていく。そこにビジネス的視点が入り込む余地は少ないようで、農家であり、生活者でもある者の視点から純粋に美味しいものが追求されている。「副材料も半端なものは使わないので初めはびっくりした。ジュースにもわざわざ高価な氷砂糖を入れていて、材料の納入業者も驚いている」と、経営的な視点に立てば苦言も出てくるが、作り手の側からすればなかなか譲れない部分でもあるようだ。しかし品質の高さは折り紙付き。「それだけの材料を使っていれば美味しくて当たり前」。また、原料の流れや製造工程がしっかり管理されていて、トレーサビリティが可能。クレームがあった場合の原因追究や工程の見直しなどをしっかりと行っている。
 平井の里が活気づくのは10月の下旬。いよいよ柚子の収穫が始まると、猫の手も借りたい忙しさで、「人手が足りなく、大阪や東京からも親戚がやってきて手伝っている。賑やかになるけれど、仕事は大変」。また体験農業の一つで収穫ボランティアというものがあり、農家と触れ合いながら柚子の収穫を手伝っている。この時期は人が増え、搾汁され柚子の香りが集落内に漂う。現場は忙しくて大変だろうが、皆で仕事に取り組む姿は、幸せな風景とも見える。集落に仕事があるからこそ人が集うことが出来るのだ。また最近では「定年やその間際になって帰ってきた50代の人が3人ほどいる」そうで、高齢の方ができない草刈や柚子の収穫を手伝ったり、後を継ぐ人もいるそうだ。集落に仕事があり、活気もあることが帰郷の後押しになっているのかもしれない。人口123人、小中高生はいないが、自然減を超えた人口減少は今のところ止まっている。
安心して暮らせる持続する地域に
 課題は「なかなか利益が出ない」こと。その理由の一つは、山間の地形でこの人数では栽培面積を拡大することが難しく、生産量を伸ばせないことにある。そこで挑戦しているのが「柚子だけでなくさらに質の良い農産物を掛け合わせた商品ができないかと考えている。例えば生姜。それで生姜ゆず茶などを作る」。そうすれば商品を増やすことになるし、農家は生姜といった新しい品目の生産で仕事を増やすことができる。
 もう一つの理由は原価率が高いこと。「加工しているお母さんたちはお客様から美味しいと言われれば頑張れる。そこが一番嬉しいところ」。そこに働く満足があるわけで、それを無下にするわけにはいかない。農事組合法人は一般企業とは異なる。一般企業なら効率第一で、人員やコストを削減し、利益を上げていく事を考えなければならないが、やはりここでは少し違う。もちろん農事組合法人でも利益を上げる事は大切だが、同時に働くに人も、原材料を作る農家にもメリットがなければならない。「柚子生産組合からは他よりも良い単価で買っているし、少しばかり原価がかかっても美味しいもの作るのは、働く者の満足に繋がる」。ただ儲かれば良いというわけではないのだ。地域を活性化する。そこを果たさなければならない。
 “ゆず平井の里”は設立から10年がたち、ただ柚子を加工するだけの組織ではなくなってきている。廃校となった学校の横に“レストハウスゆずの学校”を設け、地域のコミュニティスペースとして活用し、昼食のサービスやイベントの時の仕出し、地域の風習で使う“餅撒き”の餅などを作っている。また体験農業や研修の受け入れも行っている。「地域と共に生きて、地域を少しでもリードできれば」。その思いで、高齢のため閉店した生活用品を扱う店の代わりができないかという要望にも応えれればとしている。「この集落に残って安心して暮らせるようにするのが役割」と、地域の明日を見ている。それが地域の持続に繋がる。
 「6次産業成功のバロメータがゆとりと資金力ならとても成功しているとは言えない」。それが実感のようだ。しかし農村に仕事を生み出すことの成功とは、効率よく利益を積み上げていくということではない。集落の人が労働に見合う賃金を得ること、農産物の価値を上げていくことに加えて、仕事を通して自分の能力を試し、集落内外の人と交流を持ち、役に立っている満足感も得ることも必要なのではないだろうか。それは農村に幸福をもたらしている事と言えるかもしれない。お金はもちろん消費の選択を広げるし、能力の向上や人の役に立つことは喜びに繋がる。幸福のあるところには人が残る。お話を聞いた2人やレストハウスで働く人、加工場で働く人に、幸福かどうかなどは聞かなかったが、誇りをもって取り組む凛とした表情、明るい笑顔が、それを物語っているような気がした。

 

 

森林を継承する新しい力〜百年の森林をつくる人と地域とIターン〜2014年10月号掲載

 多くの山村で人が減り、生活の場としての力を失ってきている。原因の大きな一つが林業の衰退だ。輸入木材との競合や住居の様式が多様化する中で、国産木材の使用が減り、林業所得が落ち込み、経営意欲が低迷。産業として衰退の道に踏み込んでいる。
 しかし、我が国の森林面積は決して少なくなく、多くの森林資源を抱えていることも事実だ。政策などで若い就業者が増えるなど新しい動きもある。産業としての可能性を失っているわけではない。どうすればこの森林をうまく利用することが出来るのか。今、各地で知恵と工夫と情熱が求められている。持続する林業に向けた取り組みを追った。その中で、地域全体で森林を育み、伐採、販売、加工を手がけるのが西粟倉村だ。「百年の森林構想」を掲げ、村に産業を育み、仕事を生む。

 

     
 ▲機械が活躍する  ▲伐採をすすめしっかり管理  ▲作業道を作り、搬出を進める

“百年の森林構想”で山に産業を 

 岡山県の北東、鳥取と兵庫の県境に森林が95%を占める西粟倉村がある。人口1500人と少しの山の中にある源流域の小さな村だ。
 しかし“平成の大合併”では近隣の市町村が合併を検討する中、2004年に住民アンケートの結果を受けて自主自立の道を選び、小さくても自分たちの力で歩いていくと決断。それ以後、村が生き残っていくため、雇用対策協議会を設立して、Iターン者を積極的に受け入れるなど、様々な方策が模索されてきた。その中で、2008年に“百年の森林(もり)構想”が浮上してきた。
 「西粟倉は山しかないので、山を何とか起爆剤にして、もう一度、山を産業にしたいということです」と、西粟倉村産業観光課・百年の森林構想推進係の小椋一成課長補佐(52歳)が話してくれた。西粟倉村は85%が人工林と、日本でも有数の人工林率を誇り、昔は林業が盛んな町であった。しかし時代の流れと共に衰退し、手入れがされず、光の入らない暗い山が増えていた。「今ここで手入れをしておかないと、せっかく植林して育ってきた木が駄目になってしまう。それで村が山を預かり手入れをして、美しい“百年の森林”に囲まれた“上質な田舎”を実現して行こうというものです」。上質とは豊かな自然と共に豊かな心も持つということ。森林を守りながらそういう暮らしを実現していこうとする取り組みだ。心と心を繋ぎ価値を生み出し、その中で産業を産み、仕事を生み出して行こうとする“心産業” というコンセプトを定め、その先に村の未来を見ている。
 西粟倉村では昭和30年代後半から40年代にかけて村有林が村民に払い下げられ、山林所有者が増えた。それに伴い、熱心な植林が進められ、今45~55年の木に成長している。「50年生まで育った森林の管理をここで諦めず、村ぐるみで後50年頑張ろう」。それが百年の森林づくりになる。
 具体的には、森林を管理・整備していく“川上”の事業と、間伐材を使った商品の開発・販売を行う“川下”の事業があり、それを両輪として「1次産業だけでなく、2次、3次も含めていくことで村に産業が生まれる」。そこで重要な役割をしているのが村内森林の一括管理を行う役場と森林を整備する森林組合、村の木材を使った商品の開発・販売を行う村の地域企業で、この三者の連携の中で森林が継承されていく。またこの輪の中でIターン者も重要な役割を果たしている。
 西粟倉村では約3000haの私有林があり、それを対象に役場が10年間預かって管理を行う“長期施業管理委託”の契約を進めている。森林組合ではなく村が主導する形で「親から山があるとは聞いているけれど、行ったことがないという若い人も多い」状況の中、個人個人で管理するのが難しくなってきている森林を役場が一纏めにして、すべての経営リスクを引き受け、集約化を図りながら、低コストで効率的な森林整備を実現する。具体的な施業は森林組合に再委託し、内容は保育、造材、間伐、作業道の開設などで、これにかかる森林所有者の費用負担は一切なく、木材を販売した収益の2分の1が分配される。現在1100haの規模で事業が進められ、地権者を跨いで作業道が繋がることで山の奥にある森林からも材を出すことが出来るようになっている。しかし、途中に委託に同意していない山があればいつまでたっても材は出せない。「そうなれば50年前に一生懸命植林したことも無駄になる」わけで、そこに行政の大きな役割があるようだ。「飛び地を解消するように契約交渉を進めていきたい」。更なる集約化を目指している。
 村内の木を加工・販売する
 この事業の特色は“川上”と“川下”の両輪を回すという事で、このように集約し施業を進めて森林の再生を目指すと共に、村内に仕事を生み出す事が重要となる。つまり事業が成功するかどうか、その成否の一端を村の木材を使って商品の開発・販売を行う地域企業が握っている。例えば“木の里工房 木薫”は、木製の大型遊具をつくるベンチャー企業だが最初は3人ほどから始め、今は15人ぐらいの規模に成長し、村内の木材を使って大阪や東京の幼稚園の遊具や机を作り、内装工事までも請け負っている。森林から搬出した間伐材を原木市場に出せば安い値段で取引されてしまうが、加工することで付加価値が付き値段は上がる。同じ木材なのに、村に仕事と利益をもたらす事に繋がるのだ。
 2009年には地域商社として、“川下”事業の中心的役割を果たす㈱西粟倉・森の学校が設立された。10年前に廃校となった影石小学校を拠点に、「森林組合さんから丸太を買ってきて床材や壁材など内装材を中心に製造加工し、それを村外に向けて販売しています。また村に来ていただいて山の現場を案内するツアーも行っています」と、同社で広報などを担当している坂田憲治さん(30歳)が、会社の取り組みなどを教えてくれた。「間伐材を加工流通させる営業部隊で、地域の商社」という位置づけだ。
 森の学校では、ニシアワー製造所という木を加工する製造部門を持ち、そこから生み出す床材などが主力商品になっている。中でも“ユカハリ・タイル”と呼ぶ、50㎝×50㎝の木製板を5枚つなぎ合わせてタイル状にしたオリジナル商品は、同社のヒット商品で「置くだけの手軽さで、今まで木を使ってもらえなかった空間に置いてもらっていて、賃貸の住宅やオフィス向けによく売れています」。この他にも定期宅配というシステムで村内の農家がつくるお米や野菜を届けるというサービスも始めている。「農家さんと消費者の間に入って、活かされていない地域資源や未利用の資源を発掘して届けていく」。また現場を案内するツアーでは、森から木が伐採され、木の家が出来るまでのプロセスを紹介するなどして西粟倉を知ってもらいファンづくりに繋げている。
 地域商社として村の内と外を仲介し様々な仕事を生み出しながら大きな存在感を示している森の学校だが、その中心となって動いている代表者は、村外から来た人間だ。西粟倉村の地域再生マネージャー事業に携わっていた1人で任期が終わった後も、村と関わり“川下”の事業を担うことになった。知恵と工夫と情熱があれば村の人間であるかどうかは問わない。それが西粟倉流ということかもしれない。村では優秀な人材を求めて東京や大阪で説明会を開き、村で求められる技術や能力を持っている人に的を絞って、村外の人々を受け入れてきた。「高学歴の人も多く、そういう方が専門知識を活かしながら力になってくれる」。そしてその人々が村の木材を使ったベンチャー企業を起こし、村の中で仕事を作っている。今、Iターン者は50人ほどで、20~30代が多く、村で結婚する人もおり、村の子供を増やすことにも貢献している。それが村の活力に繋がっていく。
利益を出すためのまっとうな林業
 百年の森林づくりで、無くては成らないのが森林組合だ。西粟倉村では広域合併して誕生した美作東備森林組合の西粟倉英北支所が管轄としている。「村が取りまとめた森林の再委託を受け、劣性間伐をしながら光の入らない暗い山を整備しています」と中蔦和人支所長(51歳)が話してくれた。「50年を超え保育から収入間伐へと徐々にシフトしていますが、まだまだ未整備林が多く、保育系の山の方が多い」という状況だ。その中で3m幅の作業道を開設し、概ね左右20mの木を搬出間伐している。その範囲の外にあるものは「20mを超えるとコストが合わなくなる」ので、切り捨て間伐となっている。
 搬出では、プロセッサー、フォワーダ、ハーベスタ、グラップルなどの高性能林業機械を駆使し効率的な作業を行っているが、プロッセサーを除く3機種の導入には、“共有の森ファンド”と呼ばれるものを活用している。東京に本社がある㈱トビムシが一般に募った1口5万円の小口ファンドで、その資金により高性能林業機械を購入し、森林組合がリースで使う仕組みになっている。出資者は420人超で、若い人が多く、東京の人が約30%。配当をあてにしたものではなく、一生懸命頑張っている村を応援しようという性質のものだ。
 西粟倉村の林業はただ間伐材の補助金に頼って山を綺麗にしようというものではなく、このような支援を駆使しながら採算性を確保するための懸命な努力が行われている。それがこの事業の特徴でもある。産業を生み出すためのしっかりとしたコスト意識が求められている。
 搬出した間伐材の販売に関しても同じことで、少しでも高く売るため、原木市場にはほとんど出さず、「市場に持っていくと物流コストや手数料などがかかる」ため直売を基本としている。山から伐りだした木をA材、B材,C材にランク分けし、A材は森の学校など、B材は合板会社に、C材はチップなどになる。また「直接取引することで、ユーザーがどんな人なのかもわかり、工務店さんとの繋がりもできていく。その中でここの木を使いたいという人を増やす」と、実需者との距離を短くする事で販売機会の増大を図っている。
 また販売面だけでなく、生産面においても、しっかりとしたコスト管理が行われている。まず委託を受ければ、その場所の調査を行い10m×10mずつに区切り、その中にどんな木があるのかを調査し地番を作り、地権者毎に土地管理IDを割り振っていくところから始める。そして何番の場所で何の仕事を何時間したのか、日報に基づいて施業の履歴を森林GISに登録し、その現場でどれぐらいのコストがかかったかを把握することができるようになっている。「林業はともすれば丼勘定とも呼ばれるような事もありましたが、それをしていてはいけない。真っ当な林業で、真っ当な利益を出す。それが持続する林業に繋がる」。それが百年の森林のあるべき姿だと感じた。
 西粟倉村では多様な人々が森林に関わり、その中で持続する林業が模索されている。「50年も前は手作業であんな山の上まで植えた。それは子供や孫のため。その気持ちを大切にしたい」と中蔦さん。自分のためではなく、後代のために汗水流した尊い行いをしっかりと受け継ぎながら、今地域全体で、そして地域を超えた支援も得ながら森林を守ろうとしている。決して諦めず、受け継いだ物を少しでも良くし、また次代に託していく。そこに林業の未来が見えた。

 

明日の野菜作りって、どんな形だろう?〜ビオファームまつき〜2014年9月号掲載

 

農業が競争力を問われる中、ただ作物を作るだけの農業は通用しなくなってきた。“如何にして売れるものを作るのか”。その問いに向き合い、単に作物を土から生み出すということだけではなく、収穫した農産物を売れるものにするということまでが農業となり、その知恵と工夫が求められている。それが農業を自立させ、未来へと持続させる一つの大きな力だ。しかしそれが分かっていたとしても、実行するのは簡単なことではない。長年に渡ってただ作物を作ることに専念してきた農家にとっては、突然“売れる物”をと言われても、戸惑うことが多いのではないだろうか。食べられる物を丁寧に作るだけでは事足りない。そこに何が必要なのか。そのヒントを求めて今回は有機農業を実践しながら6次産業を行う農業経営者を訪ねた。

 

     
 ▲松木一浩さん  ▲品のある店内  

フレンチの世界から農家に 

「僕達の仕事は野菜を作って付加価値をつけること」と語ってくれたのは、“㈱ビオファームまつき”の代表取締役会長の松木一浩さん(52歳)。静岡県富士宮市の豊かな自然が残る里山で、富士山を望みながら、農薬や化学肥料を使わない有機農業を行い、年間約60品目以上の野菜を栽培。それを同社の運営するフレンチレストラン“ビオス”やお総菜の店“野菜食堂”、野菜とワインの居酒屋“ル・コントワール・ド・ビオス”で加工販売し、6次産業化の展開を行い農業のビジネス化を実践している。

現在日本の各地で農業の6次産業化が行われているが、余った農産物や傷物など未利用資源を有効活用するという形や農作業の片手間に加工品を作って副収入を得るというスタンスが少なくない。どちらかと言えば従来のやり方を補完するのが6次産業という位置付けだ。

しかし松木さんの取り組みは、加工のための有機農産物であり、有機農産物を提供するための加工ということで、切り離すことのできない一つの事業として運営されている。「このような中山間地では、もっとマーケットの方に降りていかないと生き残っていけないだろうと思った」。中山間地で有機農業を成功させる一つの形として農業の6次化に取り組み、成果に繋げてきた。

ただ、これからどうなるかは未知数。この先も変わらず継続していくためには「変わり続けていかなければならない」とさらに進化を押し進めている。

元々松木さんはフレンチレストランのサービスの仕事でキャリアを重ね、パリのレストランに勤務したこともあり、東京恵比寿にあったフレンチレストラン“タイユヴァン・ロブション”で第一給仕長を務めていた。しかし「東京の生活に少し精神的に疲れ、田舎でのんびり農業でもしてみたいなと思った」のがきっかけで農業に転身。1999年に有機農業の道に進み、1年半ほど有機栽培農家のもとで研修してからこの里山に移住し、有機野菜を作り始めた。「雪が多いと冬場仕事ができませんが、ここでは年間通して野菜栽培ができ、家内の実家の近くで富士山に対する憧れもありました。畑からもレストランからも富士山を眺めることが出来る」。雄大な景色も松木さんの農業の一部になっている。

当初は自給自足的な暮らしも頭にあったが、「農業をやっているうちに面白くなってきて、もっと付加価値をつけ、マーケットに近づき、ビジネスに結びつけたくなった」と今では2haほどで少量多品目の有機野菜を栽培し、それらを使った加工として2007年に野菜総菜店を、翌々年にレストランを開いた。この他にも野菜宅配として、季節毎の収穫物を旬の野菜セットとしてインターネット等で直売している。

栽培している野菜は60種類を超え、「一般に食べられるものはほとんど作っている」状態で、多品目により年間を通して野菜が途切れることのないようにし、レストランやお惣菜店、宅配で使う野菜を賄っている。「市販の野菜よりはるかに美味しいと思いますね。まず鮮度が良いということ。それに慣行農法に比べると根菜類などは特に美味しくなる」。

フレンチレストランの“ビオス”では、「畑で獲れた野菜を使って表現した料理」が供され、野菜の旬に合わせたフランス料理が楽しめる。例えば7月なら、トマトのジュレ、コンポート、ムースが一つの皿にのった一品が味わえ、ゲストを楽しませる。ここには年間7000人ほどが訪れ、“田舎にある美味しい野菜が食べられるレストラン”として繰り返し訪れるリピーターも多く、静岡県内はもとより東京からもその旬の味を求めて人が訪れる。またお総菜店では、インゲンのニース風サラダやズッキーニとベーコンのキッシュ、にんじんジュースやバジルペーストなどの加工品が並ぶ。いつもの食卓とは少し違う雰囲気をまとって、自然の恵みを一杯に受けた本物の味が提供されている。


産業として成り立つ農業に

 経営の仕事をしながら畑で野菜の面倒を見て、レストランでは接客とマネージングをこなす松木さん。土を相手にするだけではない新しい農業経営者の姿がある。最近は畑に力を入れていて「作付けや人に無駄がないように今までのやり方を改革している」。これまでは、作付けをしている割りには、収穫量が少なかったり、無駄な作業や資材があり、段取りがうまくいってなかった所も。「少量多品目で有機農業をするためには効率化をするしかない」と有機農業の収益性向上を進める。全体の売り上げの中で畑を数値として眺め、そこをうまく調整していく。そこに経営者の視点がある。

一方、農業の実作業においては、「生産現場は楽しい。炎天下の作業など辛いこともあるが、汗ビッショリになって働いた後の達成感や満足感は大きい。現場は面白い」と、土や自然を相手として作物を育てることに、農業者としての喜びを感じている。

また、「有機農業も日々進化しているので先進的な方法を学び取り入れている」と有機農業の研究にも熱心だ。余所の農家へ見学に行ったり、フェースブックなどを活用して農家同士のコミュニケーションを広げるなどして、常に新しい方法を模索している。「今までやってきたやり方じゃなくて、もっと違う良いやり方もあると思うんです。そういう先進的な所を見て、積極的に取り入れていきたい」と意欲的に取り組んでいる。

そんなスタンスで日々土に向かっているが、実作業は非常に手間がかかるもの。年間を通して60品目を超える作物を作るのであればなおさら。その中で労力軽減に貢献しているのが小型の耕うん機だ。使用しているのはホンダ“こまめF220”。

「最初は家庭菜園用かなと思っていましたが、今は雑草の管理などで一番使っている機械です。すごく良い。畝間を1回走るだけでかなり違う」と草の処理などに力を発揮しプロの農家を満足させている。また同時に多くの品目を育てているため、あっちのほ場こっちのほ場と移動も多いが「コンパクトでひょいとバンの後ろにでも乗せて持ち運びが楽。まさに名前の通り“こまめ”に使える。無いと一番困る機械」と評価は高く作業の効率化に貢献している。

松木さんは農業者として自然と向き合い、知恵と工夫、技術と経験を注いで有機農業を実践しているが、それだけに留まらず、同時に経営者としての視点をしっかり持って、有機農業のビジネス化を進めている。それがこの里山で農業を続ける方法となっている。

当初、有機農業に取り組んだ動機は「有機農業が持っているサステナビリティ的なものに共感できたから。自然の力を引き出して、収奪的でなく、自然と共生していこうとする姿勢に惹かれた」。現在もこの気持ちを変わらず持ちながらも、「それだけでは自己満足に終わってしまう」と産業として成り立つ農業に取り組んでいる。

 

理想の農業に変わり続ける

 1人で始めた農園も14年を経て、今ではスタッフ15名。これからの農業として存在感を示しているが、「続けていくということは大変なこと。まず利益を出すこと。それが一番大事」と、事業継続のため、日々課題に挑んでいる。「レストランの経営で一番難しいなと思うのはやっぱり人ですね。人材のマネージメント。人がしっかりしていれば、うまく回って行きます」。レストランは5年目を迎え、一つの転機を迎えているようで、人を相手にすることの難しさが窺われる。物言わぬ植物を相手にするだけの農業とは違う、新しい農業経営の苦労とも言えそうだ。

またスタッフの管理だけではなく、集客をどうするのかという問題もある。「5年を経て初期のインパクトも薄れ、話題性も作っていかなければいけません。この里山にある立地でどうやって人を呼ぶのか。5年前と同じ事をしていれば潰れてしまう」。しっかりとした危機感を持ち、人が訪れたいと思う魅力作りも大切な仕事なのだ。「流行り廃りを必ずしも追いかけるのではなく、自分たちの伝えたいことやりたいこと、強みをしっかりと認識した上でお客様に喜んでもらえるものを提供し感動の幅を大きくする。それが仕事」と、演出や料理に磨きをかけ、美味しい野菜の生産や提供に力を注ぐ。

単に農産物を加工して売るだけでは、幾ら6次産業という形であっても、農業を持続させていく力にはなっていかない。そこに消費者が価値を見出せる物でなければならないのだ。「6次産業の可能性は無限大」。しかしその中でどれに取り組み、利益を生み出していくのか、「戦略的にビジネスの肝を考えなければならない」。それが明日にも繋がる農業を生みだしていく。

またせっかくの価値でも、独りよがりのものであれば、消費者の心を捕らえることはできない。「自分たちが良いと思っている価値観をお客さんにも良いねと言ってもらうためには、私たちも変わっていかなければなりません。時代の中でどのような方向を目指していくのかということを、しっかりと持って、それをスタッフと共有し、そこに向かって進んでいくことが非常に大事。これが出来ないとたぶん生き残っていけない」。

食べられる物を丁寧に作るだけの農業にはないものがここにあるのではないだろうか。これからの農業は、天候によってのみ左右されるのではなく、人の気持ち、時代の流れにも大きく影響される。それを充分自覚し、昨日とは違う今を作っていかなければならない。「目指すべき理想のレストラン、理想の畑が高くにある。それを追求し変わり続けていきたい」。その真摯な姿に6次産業の未来が重なって見えた。

 

 


いいね!自由な農業感性が農業を持続させる力に(滋賀県㈲ブルーベリーフィールズ紀伊國屋〜2014年8月号掲載

 TPP等を前にして、日本農業が生き残っていくための力が真剣に問われている。その中で、横並びを続けてきた生産者の足並みも一般消費者を意識しながら、思い思いのものへと徐々に変化が現れ始めている。自由な発想で個性的な農業を展開するものもいて、ただ農産物を生産するだけが農業ではないという事が、改めて意識されてきた。土から食べ物を生み出すだけでなく、人に届けるまでを営みとし、あるいは、豊かな自然を共有する取り組みまで、農の範囲は多岐に広がり、その多様性の中に日本農業存続のヒントが有る。今回はいち早く自由な発想で個性的な農業に取り組んできた農業者に話を聞き、そこに日本農業の将来の一つの姿を探る。

     
 ▲ソラノネの広々とした景色  ▲ブルーベリー畑の中のレストラン  ▲松山さん
既成概念に捕らわれない農業

 滋賀県西部、比良山系の中腹に、琵琶湖を見晴らす㈲ブルーベリーフィールズ紀伊國屋がある。1983年から、当時まだ珍しかったブルーベリーの生産を手がけ、ジャムの加工品とレストランを運営し、利益を生み出す事業を継続しながら現在では40名のスタッフを抱えるまでになっている。「この場所で生きていくためにはどうすれば良いのかを考えて、歩んできた結果です」と代表取締役社長の岩田康子さん(66歳)が語ってくれた。農園設立からの歴史は既成概念に捕らわれない自由な発想で農業に取り組んできた道のりでもある。

元々岩田さんは京都の街中で生まれ育った名家の出身。実家は江戸の頃に木綿問屋として大きな商いをしていた紀伊國屋治兵衛として知られる。今の社名はその時の屋号が由来。しかし35歳の時、子供2人を抱えての離婚を経験。「市内に35000坪あった嫁ぎ先の家から出ることになり、後半の人生をどう生きていくのかを考え、今までとは全然違う価値感が世の中にあるはずだと考え始めた」。その頃にこの地を紹介してくれる人があり、訪ねてみると「たまたま秋の収穫時期で、急な坂道を登って行くと、棚田は一面黄金の稔り、空は真っ青、後ろを振り向くと琵琶湖が一望できた。作られたものとは違う自然そのものの大きな美しさがここにあると思い、この景色の中でなら生きていけると思った」と移住を決意。農地を買うために農業者となり、生きる場所としてこの地に根を下ろした。しかし農業は未経験。周囲から無理だと言われるも「私には経験がないから上手にはできない。それでも私自身が打ち振るえば、こんな私にも何かができると信じられた」。ただ、お米や野菜は既に美味しい物を作っている人が沢山いて、素人には太刀打ちできない。そんな思いでその地に立って「何ができるだろうと考えた時に、ふとブルーベリーを思いついた」。フランス料理を習っていた時の先生の「ブルーベリーは様々なお菓子に使える素晴らしい素材だけど、フレッシュなものは手に入りにくい」との言葉がイメージとなって残っていて直感に結びついたのだ。

それから無農薬・無化学肥料・無除草剤のブルーベリー栽培が始まる。農薬や除草剤を使わない事は岩田さんが消費者として求めていた事であり、その気持ちを生産者になっても実践したという事だ。収穫物はケーキ屋やフランス料理店に直接持ち込んだが値段が高いと言ってあまり買ってもらえない。だからと言って値下げの要請をされても、それには応えなかった。「今値段を下げたら、また別の人がもっと低い値段で売りに来る。そうなると私の方がもっと下げなければならなくなり、結局食べていけない。自分が思う値段で売れるまで値段を下げてはいけないと思った」。しかしその頃は無農薬や無除草剤の栽培に価値を認める人が少なく、収穫しても売れ残り、それを何とかしようとジャムの加工を始めた。ブルーベリーを水や添加物を加えずに炊き上げたもので、粒々とした食感が残り、果実の美味しさを封じ込めた商品となっている。現在はその手間や味が評価され、百貨店の高島屋などで販売もしているが、当時は思うように売れなかった。「生でも売れない。ジャムにしても売れない。でも子供はどんどん大きくなる。その中で自分には多少フランス料理の心得があったので、綺麗な景色を見ながら美味しいものを食べてもらう、11組だけの予約を受けるレストランを1人で始めた」。それでようやく利益が残るようになった。今から25年ほど前のこと。

ブルーベリーの面倒を見ながら、ジャムを作り、予約のあるときは料理をして、今で言う6次産業を実践していたとも言える。「ここで生きていくためには、1次産業以外の収入がなかったらやっていけなかった」。必要に迫られてのことで、当時は「私のやっていることは農業者のすることじゃない」とも言われていたそうだが、今は農業の“これからの形”ともされ、時代がようやく追いついてきた。ただ、岩田さんの場合、時代の流れを先読みしていたというよりも、その時々の感性に素直に従った結果とも言えそうで、それが成功の秘訣だったのかもしれない。

感性に従う強さと勇気

時に豊かな経験や豊富な知識が身を竦ませる事がある。スポーツの試合でもビジネスの決断でも既成概念が判断を鈍らせることは多い。岩田さんがたどり着いたこの地をベテランの農業者が見ても同じ事で、ブルーベリーの栽培には二の足を踏んだだろう。赤土の粘土質で栽培に適した土壌ではないのだから、普通に考えると違う作物になる。しかし岩田さんの場合、初めて農業に携わる真っ白な気持ちでこの地を眺め、既成概念に捕らわれない自由な精神が“ふとブルーベリーを”思いつかせた。そしてその感性に従う強さと勇気がその地で生きていくことを可能にしたのだ。ブルーベリーの値段にしても、言われるままに下げていれば、利益を上げる事は益々困難になっていたかもしれない。専門的な知識がなくても時々の感性に従う事が農業を持続する力に繋がってきたのだ。

ただ「今年沢山お客さんが来てくれたからと言って、来年も来てくれるとは限らない。お客さんにしてみれば新しい情報がどんどん入ってくるわけで、また来てくれると誰も約束はしてくれない。その中で私たちが在り続け、お客さんを呼ぶということは簡単なものじゃない」と、持続を保証するようなものは何もない。その中で、必要なことは「コンセプトを持ち続けること。何故私がここで生きていくのか。そこを外してはだめです。それがないとお金やしんどさに流されてしまう」。確かに楽をして儲けようとすると段々違うものになっていき、お客さんがまた来たいと思う魅力を失うことになりそうだ。「土に這いつくばって生きることは人間にとって必要だと思っている。それを続けることでお客さんに形にならない大きなお土産を持って帰ってもらうことができる。行って良かった。またここに」。この地であり続けるためにはそれを繰り返すことが必要なようだ。「農業に一生関わって、それを誇りに思って生きていきたい」。その思いで様々な障壁を乗り越えてきた姿が今の魅力溢れるブルーベリーフィールズの形となっているようだ。

この先30年も必要とされるように

ブルーベリーフィールズ紀伊國屋の第2農園が滋賀県高島市の安曇川にある。遥に比良山系を望み遮る物のない広々とした気持ちの良い敷地に1.5haのほ場があり、そこに約2500本のブルーベリーが植えられ、農家レストラン、ソラノネ食堂が運営されている。こちらを担当しているのは岩田さんの息子の松山剛士さん(39歳)。「東京の大学に通っていて、卒業後どうするかを考えていた時期にこの場所を借りるかどうかの話があり、母と一緒に見に来ました。その時は一面の銀世界。本当に広々とした素晴らしい場所だった」と一目でこの地が気に入った。かつて岩田さんが坂の上で琵琶湖を一望した時の気持ちにも似ていただろうか。“あなたがここで一からやるのなら借りてみようと思う”。岩田さんのそんな言葉を受け、「それまではこっちに帰ってくることは考えてなく、農業は基本的に嫌だった」が、心が動いた。「こういう場所に自分の力で農園を作る。そう思うとやってみたくなった」。

2001年に1000本のブルーベリーを定植。この地でも無農薬・無除草剤の栽培で加えて肥料も入れず自然栽培に近いやり方を行っている。当初は鹿の食害などで半分も食べられ、「ここでやっていくのは難しいかな」と思う時もあったが、電柵の効果で害もなくなり、13年を経て樹勢も増して安定し、良質のブルーベリーが収穫できるようになっている。そして2008年にはレストランをオープン。同時にかまども作り、「毎朝湧き水を汲みに行って、その水を使ってかまどでご飯を炊きお客様に出している」。メニューにある“かまどご飯セット”は近隣の農家の米をかまどで炊いたものに、ソラノネ農園では野菜作りも行っているのでそこで穫れたものや地場の野菜を使ったおかずを付け、体と心に嬉しい一品を提供している。また“かまどでご飯炊き体験”も実施。希望者は自分でわき水を汲みに行き、薪を燃料にかまどでご飯を炊くことができる。この他にも、7月中下旬から8月にかけてブルーベリーの摘み取り園を開園したり、この場所を活かした音楽などのイベントやブーケ作りのワークショップなども行っている。これらの取り組みで徐々に認知度も広がり、今では年間15000人程がこの地を訪れるようになっている。ただこの場所を魅力的にしている豊かな自然ゆえの課題もある。「冬場の雪が多く、2ヶ月ほど営業が出来ない」。その時は「ジャムを担いで全国の百貨店などの催事や物産展で売りにいく」。それも農業を続けるための一つの姿に違いない。「農作物の生産、6次産業、体験施設の運営等をしながら、農業と食を通してお客様とコミュニケーションを積み重ね、日本農業の夢と可能性を追求し、一つのビジネスモデルとして完成させたい」。既成概念に捕らわれなければ、農の持つ多様性が農業を持続する力になる。その実証とも言えそうだ。

ブルーベリーフィールズも31年目。「今までの価値感の中で作り上げてきたものだけに捕らわれず、この先30年後も我々の仕事が世の中の人に必要とされるようクリエイティブな仕事をしていかなければならない。そのためにはまず自分たち自身がいいよね、と思えることでないとだめ」。その積み重ねが明日の農業の姿となるのかもしれない。夢は「足元のことをコツコツとしながら、それでいてワクワクと楽しみながら、夢を描き続けられる場所」。そこは“空の音”が響くきっと素敵な場所だろう。

既成概念に捕らわれず、自由な気持ちで物事に接し、それを自分自身の深いところに問いかけ、そこから帰ってくる答えを信じたことでブルーベリーフィールズが在り続けたのだと思えた。時々に行く道を示した感性は「誰にでも与えられていて、人間の能力の凄いところ」と岩田さん。ブルーベリーフィールズの軌跡は決して限られた人にだけされるものではないのだと言っているような気がした。“私には経験がないから上手にはできない。それでも私自身が打ち振るえば、私にも何かができる”。もっと自由な農業へ、その言葉が背中を押していく。

 

 

 

里山の上手な使い方〜豊かな恵みを元気に変える(山形県鶴岡市越沢)〜2014年7月号掲載

 政府が掲げる成長戦略では、農業が重点分野となっていて、その中で企業の参入促進、農地の拡大、農協改革が進められようとしている。来年の通常国会には農地法、農業委員会法、農業協同組合法の改正案が提出され、TPP、2018年の生産調整廃止を控え、農業情勢が大きく動きそうだ。でもそこにあるのは、農業を産業として効率化するというものであって、里山の農業がどうなっていくのかは不透明だ。日本型直接支払い制度などの支援策も展開されるが、その先に望ましい未来が有るのか無いのか、視界はあまりよくない。待っていてもあまり良いことはなさそうだ。一体、里山の明るい未来はどこにあるのか。それを里山資源の有効活用に求め、山間の集落を訪ねた。

 

     
 ▲伊藤会長(右)と野尻副会長  ▲美しい棚田が広がる  ▲豊かな湧き水

豊かな自然が里山資源

 山形県鶴岡市の越沢は、市街地の南に位置し、霊峰摩耶山の登山口を抱える山間の集落だ。信仰の山の麓で、豊かな湧き水を利用した棚田を営み、伝統的な風習を守りながら、地域活性化の取り組みも積極的に行い、しっかりとした里山の暮らしを続けている。そこには、生活を支える豊かな里山資源があり、その恵みを上手に使うことで、集落の元気が生み出されている。越沢自治会の伊藤一昌会長(67歳)と、野尻善共副会長(59歳)に、話を聞いた。

「ここの集落は他の集落に比べると、人があまり減っていなくて、1年に1人か2人減るだけ。戸数も減っていません」。山間部にあっても人口が減らない集落として、他の自治体からの注目もあり、その理由がどこにあるのかと調べるために視察に訪れる人も多い。

人口は約320人。戸数は84戸ほどで約半分の47戸が実際に耕作をしている農家。田畑は全体でおよそ50ha。専業農家は少なく、平成に入って市内と集落を1時間弱で結ぶ道路が整備され、近隣の鶴岡市内などへ勤めに出かけている。「農家の平均年齢は6770歳ぐらい。上の人で78歳ほど」と他の地域と変わらず高齢化は進展している。

そのような集落の中で、「一番の名物と言ったら摩耶山だろうな。女性の神様が祀られていて、雨乞いなども行われていたそうだ。だから何か行事があるとよく雨が降る」。標高1019m、釈迦の実母である摩耶夫人を祀り、古くは山岳信仰の場として栄え、今でも多くの登山者が訪れる。「最近の登山ブームもあり、インターネットなどで調べて全国から人が訪れる」。それが、集落に活気をもたらす交流人口の増加にも繋がるわけで、貴重な里山資源と言える。

また外から来る人にとっての山としてだけではなく、集落の人々にとっての大切な山でもあり、安全祈願をする開山式やご馳走を持ち寄る山の神祭り、集落の人達だけで行く登山会と、山に関する行事が多く、生活の中に摩耶の山がしっかり結びついている。そういったことは直接利益を生むことには繋がらないが、集落の人々の暮らしに豊かさや楽しみを与えている。

その摩耶山はこの他にも越沢に “郷清水”と呼ばれる湧き水をもたらし、農村の原風景とも言える棚田を潤す貴重な恵みとなっている。集落の坂を上り人家を抜け、山の上まで連った棚田を登った所からこんこんと湧きだし、年間を通した豊富な水量で田んぼに流れ込み米づくりに使われている。「夏でも冷たく、飲むと何か甘さがあるような感じで美味しい」。水質検査でも県内有数の水とされ、庄内地方の名水を評価する本では堂々の1位を獲得。「お盆で里帰りした人がいっぱい持って帰ります。昔からこの水を飲んでいるので、余所の水は全然美味しくない」と自慢の水だ。

この水を使って作られるお米は「夏の暑い時期に冷たい水が回り、美味しくなる」。また、棚田で収穫したお米を杭にかけて自然乾燥したものを特に“棚田米”として、ブランド化。付加価値をつけた販売を展開している。さらに、この郷清水で作った米を使い地域限定の清酒“摩耶山”が酒田市の醸造会社で作られている。生もと造りの辛口で、口当たりが良く、特ににごり酒は女性に人気とか。

棚田と郷清水が、集落の貴重な資源となっているのだ。また、これを維持するために山の上にある棚田を巡る道路を整備している。「全面コンクリート舗装で業者に頼まず地元の人間たちで作った」。全線で68㎞、完成までに12年ぐらいかかっている。「昔、山の上の田んぼに行くのは大変なことで、弁当持って昼は家に帰らず仕事を続けていた。それが今、車で簡単に行けるようになった」。恵みを受け取るだけではなく、それをうまく使うための努力も欠かせないようだ。

 

楽しいから人が減らない

越沢のもう一つの名産が蕎麦だ。集落や周囲の山間地域で収穫した蕎麦を、粉にして、集落内の名人と呼ばれる人が蕎麦を打ち、“まやのやかた”と名付けた飲食施設で提供している。今で言う6次産業ということになるが、もう20年以上も続けている。自然薯をつなぎに香りの良い蕎麦を100%使った逸品で「蕎麦を食べるために、新潟や仙台など、遠くからもやって来てくれますし、何回も来てくれる人がいて、口コミで広がっています」。また集落や棚田の視察に訪れた人たちにも提供していて、「それが結構な数になるので“まやのやかた”の活性化に繋がっている」。

11月には“新そばまつり”を開催。2日間で650人ほどが訪れ、山菜料理も添えた特別の蕎麦料理が味わえる他、施設前にテントを張り、各農家が持ち寄った農産物や餅米を灰汁水で煮た特産物の笹巻などを直売し、大いに盛り上がる。

「年間を通して見れば3000人ほどに来ていただき、来客数も少しずつ増えている」。“まやのやかた”の館長は、自治会長の伊藤さんが務め、ここでの売り上げは自治会の一般会計に組み入れ、自治会費の軽減に繋げている。

これらの取り組みは越沢の活性化に繋がっているが、“人の減らない集落”の理由は、もう少し他の所にもある。それは、集落の人自らが集落で行われる出来事を楽しんでいる事にある。摩耶山に関する行事でも入山者のためだけではなく、むしろ自分たちのためにやっていることの方が多そうだ。“新そばまつり”にしても来場者の賑わいの中で、自分たちが大いに楽しんでいる様子が窺われる。里山資源の有効活用で交流人口の増加を図ったり、収益を得るという事も大切だが、資源を自分たちのために使うということも重要なことに違いない。それも集落を活性化させる有力な方法なのだ。

例えば、「大運動会は子供からお年寄りまで集落の人がほぼ全員集まり、盛大に開催される」。里山にある親密な絆という資源を利用して大いに楽しんでいる。近年では高齢化により、集落の運動会をとり止めるところも少なくなく、それを思えば対称的だ。夏祭りでは「子供会や青年団、消防団など各種団体が芸を見せ、打ち上げ花火もあげる」。集落内にある大里神社の春の例大祭では、元々集落になかった門獅子舞を祭らしいからと30年以上前に導入し、今も子供達と一緒になって受け継いでいる。この他にも、集落の女性から摩耶姫を選んで摩耶山の開山式で安全祈願をしたり、摩耶山の雪が溶ければその頃にだけ現れる特別の景色を見るために集落の人々で登山に出かけたりとイベントは多く、その楽しみ方も積極的だ。「人が減らないのは楽しいことが多いからかもしれない。集落を愛している人が多いと感じている。行事にも積極的に参加してくれるし、それが元気の源なのではないだろうか」。愛する人が多いということは、そこに魅力的で守りたいもの、育みたいものが多いということだ。美しい自然、信仰の山、様々な風習・文化そして大切な仲間。それらはすべて里山の資源であり、越沢では暮らしの中で喜びを与えるものとして活用されている。

 

自然の恵みを上手に使う

何かとイベントの多い越沢ではその都度宴会がつきもので、「これを楽しみにしている人も多く、かなり盛大です」。そこではただ賑やかに楽しんでいるだけではなく、「お酒を飲みながらいろんな人から次のアイデアが出てくる。そして良いものは必ず実行する」。それがこの集落の一番の資源かもしない。

ただ集落は元気でも、周りの環境は厳しさを増している。現在小学生は13人。歩いて通えるほどの所に小学校があるが、平成28年で統廃合となり廃校となる。それ以降はバスで遠くの学校に通わなければならなくなる。また、医療機関も隣の集落にいた医師が高齢で亡くなってから近くにはなく、緊急の時の迅速な診察は難しそうだ。

さらに高齢化の問題もある。「人の世話になっている高齢者は少なくて、皆しっかりしている」が、冬場の雪では苦労も多い。「毎年2m近くは積もる。屋根からの雪下ろしは大変。毎日朝の除雪で雪との戦いだ」。年齢と共にやはり肉体労働はきつくなる。それは農作業においても言えることで、「目一杯、動けるだけは動く」と、67歳になる伊藤会長も1.2haを耕作しているが、さらに年を重ねれば負担も増す。今集落内では、育苗組合が組織され、「育苗から田植えまでやってくれる。あれがなければ農業をやめる高齢者も増えるだろう」というのが現状だ。草刈の組合もあり、手間のかかる重労働の軽減を図っている。高齢化が進めば農業を1人の力で続けることがますます難しくなる。しかし耕作条件の厳しい山の中であっても、「仲良くにぎやかに暮らしている」越沢には力を合わせて農業に取り組む力がまだ充分に有るわけで、それがさらなる共同化など農業を持続していく力となるに違いない。

厳しい冬が過ぎ、雪が溶け「それまでの苦しいことを乗り越えた春は、青葉が芽吹き、山菜がとれ、楽しいことがいっぱいある」と山の暮らしは魅力に溢れる。厳しい自然ではあっても、同時に多くの恵みがもたらされ、「都会よりこちらの方が住みやすい」。それが確かな実感のようだ。山の幸は豊富で「ゼンマイがたくさんとれる。自分たちが食べて余った分は売る。2週間ほどで100万円を超す売上を上げる人もいる」ほどだ。これは貴重な現金収入となるわけだが、それ以外にも直接お金になるわけではないが、生活のコストを下げたり、質を上げる、多くの恵みに溢れている。例えば、日常食べるお米や野菜は自分たちで作り、燃料にしても薪などの木質資源が使われている。「今は車が有るので、スーパーへ買い物に行く」し、電気も使っているが、全般を考えれば、食費や燃料費の低減に繋がっている。また、「こういう地域に暮らしていると朝が早く、4時頃起きて田んぼの水を見に行ったり、農作業で体を動かす」と、人生の質を左右する健康にも良さそうだ。自然の恵みを、ただお金に換えるだけじゃなく、上手に使って暮らしに豊かさと元気をもたらしていると感じた。

里山の活性化とは、産業として成功するのではなく、地域として如何に成功するかと言うことだ。つまりそこで生活している人々が楽しく暮らしているのかどうかということが大切。少なくとも越沢は、「皆で集まってワイワイ賑やかに仲良く暮らしている」。そういうあり方に里山の望ましい未来の姿が確かに見えた。

 

女性の元気が日本農業を明るく楽しく〜アグリプリンセスの試み〜2014年6月号掲載

 今の日本農業を大きく眺めると、ほぼ男性ばかりのお芝居を見ているようで、少し華やかさに欠ける。話の筋はと言うと、TPPという大きな圧力を前にして何とか力を合わせて戦いに挑むという感じだろうか。このままなら力と力の戦いになりそうで、ただ強いものが勝つというだけの結末になるのなら、先を見るのは恐ろしい。だからここはひとつ、力と力で勝つか負けるかというのではなく、話の筋を変えてみるというのはどうだろうか。「幸せに暮らしましたとさ」を目指して。それにはまず新たな登場人物が必要だ。今まで脇役や裏方だった人々を舞台の中央に。つまり女性の出番というわけだ。彼女達が紡ぐ新たなセリフが結末をかえていく。その流れの先にハッピーエンドもありえるのではないだろうか。さぁヒロインを舞台に。

 

     
 ▲藤木悦子さん  ▲直売で大活躍  ▲藤木さんが作る札幌キング

アグリプリンセス登場

 昨年の5月、兵庫県の女性農家が集まって「女性の力で農業を盛り立てて兵庫を元気にする」と結成されたのが“ひょうごアグリプリンセスの会”だ。5名で発足し、現在は12名。活動に共感し、加わりたいとする人も徐々に増えている。メンバーは専業農家と兼業農家からなり、半分は新規就農者が占め、上は45歳、下は28歳。米、露地野菜、施設園芸、ハーブ、養豚と手がける物は様々だが、農業を元気にすると多様な力が結集した。そこで副会長を務めているのが藤木悦子(41歳)さん。兵庫県宍粟市でメロンとトマトの栽培を中心に元気な農業を展開している。「農業が大好きです。10年後も20年後も、農業をして、楽しいと言っていたい」。そんな藤木さんに話を聞き、女性農家の気持ちや意見を探った。

 「きっかけは、スマホに切り替えて Facebook を始めたこと」。それが会を作る大きな力になった。それによって県庁の農業担当者と知り合うことになり、その繋がりを端にして、「色々な人と繋がり、それでは一度集まってみましょうという事になったのが始まり」。作っている作物も農業経験もバラバラだったが、会って話しているうち、会の結成へと事が進んだ。ソーシャルネットワークサービスによって出会い、それが現実の会に結びついてく様は、時流に乗ってしなやかだ。女性の方が新しい手段や仲間を容易に受け入れていきやすいのかもしれない。

 

 そんな出会いの中で生まれたのがアグリプリンセスの会。自分たちが作った農作物を都市部に持って行って、直接消費者に販売するマルシェや栽培技術や販売方法のことを学ぶ研修会、ホームページ上で食育や野菜について配信する事など、意欲的に活動している。

 「マルシェは、物を売ることも大切ですけど、そこでどうやって人が物を売っているのかを実際に見て、知るという事も大きな目的です。また他の農業者とも繋がりたいと思っています」と、目先の利益だけを狙うのではなく、ともすれば孤独がちになる自分中心の生産現場から出て、様々な人がいる販売現場の中で、他人を知り、他人から学ぶことを大切にしているようだ。会員は神戸の繁華街に出て、人通りの多い交差点に面した大規模雑貨店の前やホテルで、定期的にマルシェを開く。そこで、「自分たちの作っているものと買われている人の距離がもっと近くなれば」と、新鮮な野菜の本当の魅力を、顔が見える販売を通して伝えている。またこれが販路開拓にも繋がっていて、例えばマルシェが開催されるホテル内のレストランで新規就農者が作るハ−ブが使われ、直に取り引きするようになったり、買ってくれた人が別のマルシェへの出店を誘ってくれたりと広がりを見せている。他人と結びつくことが何よりの財産となっているようだ。人と人の垣根を越える。誰にとっても簡単なことではないが、女性は男性よりも少しばかり得意な人が多いのかも知れない。またこのように他人と接することで、「自分たちが作っている物を、もっとちゃんとした物にしなければという自覚も出てきました」と、さらなる向上心に繋がっている。

 

 会の運営については、「基本的に自主運営組織ですので、色々難しいこともあります」。有志が集まった組織なのだから、会員各自の意欲、向いている方向、取り組み姿勢など、それぞれが離れてしまえば前には進んでいかない。いかに相互理解を維持し、モチベーションを保っていくかは大きな問題だ。アグリプリンセスの会では会員の居住地が県内であっても離れて点在しているため、コミュニケーションの手段としてはFacebook が利用されている。しかし「見る暇がなかったり、確認するタイミングがずれたりすると、うまくコミュニケーションが取れないこともあります。また微妙なニュアンスを伝えきれずに、行き違いになることも」。新しい繋がりには、新しい可能性があるが、それに対応した新しい悩みもある、ということのようだ。



農業は一つじゃない

 藤木さんは今「農業が楽しい」という。しかし、農業に対して不安がなかったわけではない。元々は北海道出身。札幌の学校で酪農の勉強をしている時に今のご主人と知り合い、結婚。そしてご主人の生家の農業を継ぐために兵庫県の中山間地にあるこの地にやってきた。専業から専業に嫁いできて農業に対するやる気は充分。積極的に取り組むも、周りは兼業ばかりで、農業を手伝う嫁は少なく、戸惑いを覚えるが、周囲に友達はおらず、悩みを相談できる女性の専業農家もいない。その中で子育てもしなければ成らず、家にいる時間が長くなると、「社会から取り残されたようで、何とも言えない閉塞感があり、不安になって落ち込んだ」ことも少なくない。そんな頃に元気な女性農家と知りあった。「もの凄くパワフルな方で刺激を受けました」。そんな出会いが今の藤木さんに繋がっている。「農業は一つじゃないから楽しい。北海道から来てそれを実感しました」。様々な人と出会い、多様な農業に触れ、少しずつ変化しながら歩んできたからこそ「今は楽しい。農業が好き」と素直に笑顔で言えるのかも知れない。

 

 今、藤木さんが主力にしているのは、メロンとトマト。中でも札幌キングという品種のメロンに力を注いでいる。「本州でやっているのはうちだけ。夕張メロンと同じ系統で、北海道でも経済栽培しているのは2、3軒。日持ちはしませんが、香りがもの凄く良くて上品な甘さ。もらって嬉しいメロンだと思います。食べるのが待ち遠しくなるような」。“夢メロン”と名付け、注文販売のみで全量が売り切れてしまう状況だ。トマトは熟してから収穫するので“樹熟トマト”と呼び直売所で販売。その他スイートコーンも手がけ、一部を給食センターに納入している。労働力は悦子さんとご主人、そのご両親に、パートさんが1名。ご両親は自家製のもち米でよもぎ餅などの加工品も手がけている。これらにマルシェでの出張販売なども加え、時代の流れを見て、売ることまでしっかり考えた経営で豊かな農業を展開している。



生活者の視点で農業を

 しかし女性農家としてはまだまだ苦労が多い。「年齢を重ねていかないと人に物を聞いてもらえません。若い女性だと何を言っても相手が信用してくれない。同じ歳の男性と比べて扱いが違います」。正しい意見、素晴らしいアイディアであっても、話し手によって受け手の印象はまるで違う。先入観を全く持たずに人の話を聞くということは、実際のところ、良くも悪くもなかなか難しい。しかし、女性農家の意見に耳を傾けないのは、日本農業にとって大きな損失だ。今まで男性優位で進めてきた結果が今の現状なのだから、それを変えるためには、これまで舵取りをしてきた人とは違う人の意見が必要だ。日本農業を新しい方向に進める人の意見として、良い方の先入観を持ち、真摯に耳を傾ける必要があるのではないのだろうか。

 

 そのようなこともあってか、女性農家が公の場に参加しても、「何も発言しないで帰ってくる人も多い」。それは誰にとってもメリットはない。話を聞く姿勢をしっかりと整え、公の場できちっと発言できる女性農家が増える事を願いたい。

 また、女性が農業をする上で不利となることは育児や家事など生活の担い手としての仕事も農業と同時にこなさなければならないということだ。「母親である限り、子育てもして、ご飯の支度もしなければなりません。そのために取られる時間は少なくありません」。生活と農業、それを両立することの負担は大きい。

 それが一方、農業をする上で、有利な点にもなる。生活の担い手としての感覚が食を扱うものとして、より消費者の目線に立った、生産や販売が可能になるのだ。「こういうものが売れる、こういう量がちょうど良い、というのがよくわかります。買う側の目線で物が売れるということが女性の強みですね」。それを生産に活かしていけば、商品力のある物づくりに繋がっていく。

 

 他にも有利な点として、「見ている視点が男の人とは違っているので、作物の変化に気づきやすいかもしれません」。なるほど女性の方が、場の空気を読むのに長けているような気もする。また一般的にお喋りが好きとされるところも利点になる。「集まればたくさん喋ります。思っていることをすぐ口に出す。それで気持ちを共有すれば、辛いことも楽になり、ストレス解消に繋がります」。男性だと辛い事があっても黙って我慢するということになりそうだが、女性は感じたことや思っていることをどんどん言葉にする。その中で、人との繋がりが生まれ、新しいアイディアも出てくる。それをお喋りの輪の中から外に出して行ければ、日本農業の現状を変えていく力になっていくのではないだろうか。

 それは女性自身の働く環境を整えることにも繋がっていく。例えば、「もう少し可愛い作業服があっても良いと思う。フリフリの物が欲しいわけじゃなく、もう少しましな柄とかがないのかと。灰色でも良いけれど、どこかに可愛いらしさが欲しい」、「屋外の仕事なので、トイレが自由に出来なくて困る」、「どうしても日焼けは避けられないけど、できるならしたくない」。そんな呟きにも似た声を、もっと大きなものにすることで、女性の農業参加を促すことになるかもしれない。

 

 そんな彼女たちがもっと前面に立って農業へ積極的に関わっていけば、地域は変わっていく。「女性が元気な所は、その地域も元気」。農村でも農業に携わらない女性が増えているが、「女性は男性より生活に密着したところにいます。何よりも人を生み育てる存在です」。その生活者としての立ち位置が農業にとって何よりも大きな財産になる。そこから生まれる発想が日本農業の持続に大きな力となる。生活者の感覚を持ちながら農業に参加する。それが今までの日本農業に少し欠けていたのではないだろうか。それをうまく取り入れていければ、日本農業を持続する新たな筋書きが見えてくるに違いない。ヒロインの登場に期待したい。

復活した伝説の野菜で地域の活性化(奈良県川西町・結崎ネブカの試み)2014年5月号掲載

 日本各地には様々な名産品がある。鳴門金時、南高梅、有田みかん、魚沼産コシヒカリ、静岡のメロン、あまおう、野沢菜、丹波黒大豆、などなど。それらは地域を語る代名詞であり、それらを旅先で味わうことは大きな楽しみともなる。また地域住民にとっては大きな誇りであり、その中のあるものは地域を支える力ともなっている。奈良県磯城郡川西町には“結崎ネブカ”と呼ばれるネギがある。誰もが知っているような有名特産品というわけではないが、知名度も徐々に上がっており、様々な魅力で潜在力は高い。地域を訪れ、結崎ネブカが持つ“野菜のちから”をどう地域の活力に結びつけていくかを探った。

     
 ▲復活した伝説の結崎ネブカ  ▲宇野さん  ▲吉岡さん

復活した伝説の野菜
 結崎ネブカは“古くて新しい”と形容できる、そんな野菜だ。もともとこの地で、長年にわたって栽培されてきたものの、戦後の高度成長と共に時代はスローからファーストへとシフトを変え、見た目がより重視されるようになり、大量生産・大量出荷がトレンドとなって、その流れについていけず、この地での商業栽培が途絶えてしまっていたのだ。しかし、「平成14年に地域の魅力を再発見する調査事業があって、その中で出てきたのが結崎ネブカです」。川西町商工会の広域経営指導員吉岡清訓さん(46歳)が、当時の様子について語ってくれた。町民アンケートをとると町の魅力となるものに、「結崎ネブカをあげる声が1番」と、名前だけは地域に残り続けていた。また結崎ネブカの結崎は地区の名前で、観世能の発祥の地でもあり、この地にはこんな伝説も残されていた。『室町時代のある日のこと、一天にわかにかき曇り、空中から異様な怪音と共に寺川のほとりに落下物があった。翁の能面一個と一束のネギ。村人は能面をその場にねんごろに葬り、ネギはその地に植えた。するとこのネギが見事に生育し、結崎ネブカとして名物になった』というもの。

 味は一般のネギより柔らかくて甘いと評する人も多く、薬味としてより、煮炊きものに最適で、この地は江戸時代にネギの産地として記録されるなど、戦前までは大和野菜の雄として栄えていた。しかし、すぐに折れ曲がってシャキッとしない見た目の悪さ、繊細で傷みやすく日持ちもしない扱いにくさ、また収穫も8月中旬から2月の終わり、天候によっては3月まで可能だがそれでも周年栽培はできず、市場流通に適さないことから、次第に消えていったのだ。

 吉岡さんたちが結崎ネブカを取り上げた時にはすでに実物を見た人はほとんどいないという状態になっていた。まさに“伝説の野菜”。しかし事業を始めた翌年、当時70歳を超えていた地区内の専業農家、宇野正増さん(85歳)の家で、結崎ネブカが細々と残っていた事が判明。「味が良いので自分たちが食べる分だけ畳2畳分ほどで作っていた」。これが結崎ネブカ復活の源となる“盃一杯分の種”となった。そしてまず3名で、2.5aから栽培を開始。その後、徐々に面積と生産者を拡大し、平成17年に大和の伝統野菜に認定され、平成18年には結崎ネブカ生産部会を農協に発足。宇野さんが部会長を務めている。そして現在では栽培面積が1haほどまでに拡大し、見事な復活を遂げた。今年は天候のおかげもあって3月まで収穫ができ、収穫量は約20t。域内にあるイオンなどの量販店、JAが運営する直売所などで販売し、町内の飲食店などでは、結崎ネブカを使った様々なメニューを開発し提供している。

魅力溢れる逸材
 流通量はまだまだ充分とは言えないが、地域に愛された特産品として着実に歩みを進めている。それを可能にしているのは、結崎ネブカが持つ多様な魅力だ。
 まず基本的なものは“物そのものが持つ品質”。結崎ネブカの場合、味が一般のネギと異なり、ネギ本来の味とも評され、他の物では代替できない味が多くの人を引きつけている。それに加えて大きなものが、“物語を持っている”ということだ。消費者は物そのものだけを消費するわけではない。それが持つ背景も合わせて消費している。手に取った商品が誰によってどのように作られているのか、あるいはどのようないわれがあるのか、そこに興味深い物語があれば、それが付加価値となり、それが満足度の向上に繋がる。能面と共に天から降ってきたという伝説の物語、繊細で傷つきやすいけど味は優れているというネギ本体が持つ物語、そして途絶えていたものを復活させた人の物語、それらが合わさって、他の物とは明らかに違うという認識を生み出し、ブランドが形成されていく。
 また、記憶に訴えかけるという魅力もあるようだ。昔は、秋祭りの夜、かしわ(鶏肉)を使ったすき焼きが定番だったそうで、それに結崎ネブカを入れたものは懐かしい味として、記憶している年配の方もおり、ふるさとの味という心に訴えかける魅力も持っている。その他、傷みやすいため流通範囲が限られてくるが、その分、地産地消となって安全・安心の確保となり、地元住民の応援にも繋がっている。

 見た目が悪くても、日持ちがしなくても、何とかしたいと思わせる、魅力溢れる逸材と言えるのではないだろうか。まさに埋もれていた「地域の宝」を掘り出したという形だ。しかしそこで満足して、それ以上何もしなければ、宝の持ち腐れになってしまう。さらに先に進むためには、魅力をより有効に発揮するためのプロデュースが重要になってくる。そこで大きな役目を果たしているのが地域の商工会だ。町おこし事業の一貫で結崎ネブカ復活の発端になり、現在は、広報や普及活動を行いながら、ブランド力の向上を図るなど、農商工の連携を進めている。

結崎ネブカをプロデュース
 まずは広く世間に知ってもらうため、商工会や県、JAでは様々なイベントで結崎ネブカの試食などを実施している。地元の地域文化祭で振る舞うことを始め、生産者や飲食、販売店関係者などを集めて『試食懇談会』をホテルで開催したり、県内の大手スーパーで一般消費者向けに『特別販売会』の実施、大都市圏のビジネスフェアーでPRするなど、積極的に活動している。

 また、結崎ネブカをキャラクター化し、ネッピーと名付けTシャツや携帯ストラップへの展開、着ぐるみを作って“ゆるキャラグランプリ”に出場するなど、様々な場面で露出を高めている。さらには、結崎ネブカを使った料理を積極的にアピール。定番のすき焼きや鍋に使う他、新しいレシピの開発にも力を入れ、ネギ焼きやグラタンなどの他、“産地から提案する『結崎ネブカ』ニューフードスタイル”とし、隣町にある畿央大学の健康栄養学科と連携し、学生達が “新感覚レシピ”を考案した。その中で、三色ミルフィーユロールカツや結崎ネブカソーセージドーナツなどユニークなものも生み出されている。通常のネギに比べて栄養価も高いようで、食卓に美味しさと健康の両方を提案する試みとなっている。

課題は生産量の確保
 復活から10年以上、地域の特産品として一歩一歩地位を築いてきたが、「これまで生み出してきた成果よりこれからの課題の方が多いかもしれません」と吉岡さんは語る。その中で大きな課題となっているのが、「生産量が伸びない」ということだ。機械は畦立てにトラクタを使うぐらいで、あとは手作業のため1人でやれる面積は限られている。繊細な作物のため収穫・調製に手間のかかる作業も多く、作物に対応した洗浄機も農協に1台導入されているが、機械を使用した後の手作業も必要でスムーズな作業工程とならず、利用が進んでいないのが現状だ。宇野さんは6aほどを手がけているが、特に冬場の作業が労力も多くなると言う。「霜にやられて葉が黄色くなってしまうので、それを一つ一つ取らなければいけない。また、味は寒くなったほうが美味しいですけど、夏に比べると成長が遅くなる」。そのため、冬場の出荷量が安定せず、地域全体を合わせても、需要に満たない状態となっているようだ。それを解消するためには個々の栽培面積を拡大することが一つだが、更なる労力の負担を可能にする体力や見返りが生産者に不足している。また生産量を増やすためには新たな人材を確保するという方法もあるが、それも簡単ではない。名の知れた作物であっても、他の地域と同様、生産者の高齢化は進み、後継者は少ない。宇野さんの家でも「息子は百姓をやる気はないようです。後を継ぐのはちょっと難しいでしょうね」と諦め顔だ。

 しかし今、しっかりとした流通量を確保しブランドを確立しておかなければ、将来的に苦しくなるのではないかと見る関係者も少なくない。そのため吉岡さんは「販売単価が上がることや、収益増、有名なレストランで食材として使われていることなど、生産量を増やすモチベーションが得られれば」と知恵を絞っている。またブランド化をさらに進めるため、プロデュースも「新しいスタイル」へと次の段階に進んでいる。

更なる成長を模索
 今、結崎ネブカは限られた期間にしか食べることができない。長年に渡ってそういうものとしてプレミアム感の増勢ともしてきたが、もう少し長期に渡って結崎ネブカを提供することで認知度の向上を図ることも重要ではないかと、最近では加工食品の製造にも力を入れ、消費者が食べたい時にいつでも食べることが出来る商品の開発が行われている。

 商工会ではドレッシングやソース、食べるネギ味噌ラー油、塩ダレ、つくねなどを手がけた他、商業者の方でも連携して、餃子やお好み焼き、コロッケなどを作っている。また奈良県各地域の鍋物料理を競うイベントに合わせて開発した『結崎ネブカが大和肉鶏を背負(しょ)ってる鍋』は、グランプリを受賞したが、今後ギフト商品として販売できないかと計画中だ。そのような取り組みが順調にいけば、生産者の収益増にも繋がるし引き合いが増えれば、生産量を増やすきっかけになっていくのかもしれない。またその先に、一つの方向として「事業振興組合のようなもので、良い物を作れば高く売れる仕組みを作り、ビジネスとしてやっていければ」と吉岡さんは言う。「将来的に今の5倍ほどの規模で、品質を高め、様々な店で使って頂き、地域住民にも愛される、そういうものになりたい」。それが持続的な地域農業存続に繋がるのかもしれない。

 ただ、今結崎ネブカの生産に取り組んでいる生産者は町おこしの意義も感じて、地域振興のためにと取り組んでいる人が多い。「みんなにこの地を知ってもらって、美味しいネギやなぁと言うてもらうのが一番嬉しい。お金を儲けるためだけなら他の作物を作った方が良い」と宇野さん。ビジネスと地域への愛。これをうまく両立させていくことが新たな物語の始まりかもしれない。そこに結崎ネブカが持続・発展していくシナリオがあるように思えた。